第24話 アロシアの思い違い

 アロシアは満足していた。帝都の邸から今の自室に運ばせたソファーに身を沈め、抑えきれない笑みを浮かべる。


 ようやく邪魔者をフィスクの傍から排除することができた。どんな手段で媚びを売っていたのかは知らないが、ここに来て彼の不興を買ったようだ。「もう来なくていい」と言い渡した時の彼女の顔は、得も言われぬ優越感をもたらしてくれた。


 シャイラが教会に出入りしている間は、とにかく鬱陶しい存在だった。しかし今となっては、彼女をだしにしてフィスクに近づくことができる。


 下品で不躾な女が、畏れ多くも神聖な精霊に近づき、無礼を働いた。フィスク本人が望んだことでなければ、彼女を世話係になど任命しなかった。


 不可解なのは、シャイラが教会へ出入りすることを禁じるよう、呼び出した司祭に命じた時の反応だった。司祭はアロシアの言葉に反発した。



「いかに帝都の巫女様とて、それは承諾できません。シャイラは良い子です。それに風の子らしく勇敢で強い。アロシア殿はあの子を見誤っておられます」



 間違っている、などと。生まれてこの方、言われたことのない言葉だった。


 アロシアが間違っているなどありえない。誰よりも深く精霊を信仰し、大司祭たちの教えに従って正しく生きてきたのだ。背いたことなど一度もない。


 アロシアは不快感を表に出さないように努めながら、「フィスク様のお言葉です」と司祭に告げた。フィスクの存在を知る存在は数少ない。情報を渡すべき人間は厳選したつもりだったが、シャイラに肩入れする程度の愚か者なら、たとえ司祭といえども信用すべきではなかったかもしれない。


 結局司祭は、苦り切った顔で頷いた。


 アロシアは清々しい気分で、フィスクを訪ねることにした。忠実な従者を見張りに残し、長い階段を登る。



「フィスク様、アロシアですわ」



 手を伸ばして扉をノックしても、返事はない。いつものように眠っているのかとも考えたが、シャイラを解雇するように言われたのはつい先程だ。


 もう一度ノックをしてみると、静かな返事が聞こえてくる。声色が冷たいのはいつものことだった。



「お疲れの所、申し訳ございませんわ。報告をよろしいでしょうか」



 梯子をよじ登って部屋に入る。フィスクは椅子に座り、植木鉢ごと置かれた赤い花を眺めていた。静謐な眼差しに一瞬うっとりと見惚れて、その目がシャイラの花に向けられていることに嫉妬した。


 アロシアの声を聴いているのか、いないのか。無言のままのフィスクに、シャイラを解雇したことを伝えた。



「……そうか」



 アロシアが初めて聞く声だった。失望と寂寥が強く響く。


 無性に腹が立った。アロシアは微笑みを浮かべ、フィスクの傍に歩み寄った。


 敬うべき精霊に、怒りなど抱くはずもない。彼はただそこに在れば良く、人々はただ彼を崇めれば良い。


 だから、この怒りが向かう先は、彼ではない。



「あのような信仰の浅い娘を近づけてしまい、申し訳ございません。フィスク様の平穏を乱す結果となってしまったのですから。ですがこれで、静かな生活が戻ることでしょう」



 この美しいヒトの、安穏たる心。それを乱したことこそが、あの娘の罪だ。



「このわたくしが、心を込めてお傍でお仕えいたします」



 彼がアロシアに心を開き、巫女として認めてくれるまで。


 フィスクが口を開き、微かに息を吸い込んだ。



「この花を、あいつの所に返しておけ」


「かしこまりましたわ」



 下賤の娘と、これで完全に縁が切れる。アロシアが喜んだのも束の間。


 回収しようとアロシアが手元に引き寄せた植木鉢を、フィスクが思わず、といった様子で引き留めた。



「……今日じゃなくていい」



 そう、ぼそりと呟く。


 帝都で出会い、教会で保護してから、彼がアロシアに向ける視線は一切変わらなかった。彼は誰に対してもそうだった。彼は等しく人間すべてを嫌っているから。


 仕方がないことだと思っていた。神話の世代は遠く、信仰の意味すら理解しない人間は圧倒的に多い。だから、アロシアが本物の信仰を見せればきっと、と。



(なのに、何故)



 あの娘だけが特別なのだ。


 フィスクにとって、他の人間と違うのは一人だけ。それは、アロシアではない。



「……このような花など、風の精霊たるフィスク様に必要なものでしょうか?」



 ああ、信じられない。畏敬の念をもって仰がねばならない相手に、このアロシアが苦言を呈するなど。


 けれど、一度動き出した口は止まらない。



「土の精霊ならば、花を愛でるのは意義ある事でしょう。ですが、あなた様は風。必要なのは大地の恵みではなく、自由と戦い。そうでしょう?」



 植木鉢にかけた手に、力を込める。



「返すまでもありませんわ、こんなもの」



 憎々しい、目に焼き付くような赤い花を、テーブルの上から叩き落とした。


 突き刺さるような音を立てて鉢が割れ、床に大量の土が散らばる。くたりと横たわる花を踏み潰そうと足を上げた所で、目の前にフィスクの拳が突き出された。


 瞬間、アロシアの体が浮き上がった。激しく叩きつける風に翻弄され、石の壁に打ち付けられる。



「ぐぅ……っ」



 何が、どうなったのか。鋭い痛みを訴える背中を庇うようにして体を起こすと、立ち上がったフィスクがアロシアを睨みつけていた。



「俺たち精霊は、この世界の自然から生まれた女神の兄弟。お前は何も分かってないな」


「フィ、スク様……」


「風の精霊には花など必要ない、か。女神が愛でた美しい花々を、俺は楽しんではいけないと?」



 憎悪の瞳だった。人間を嫌う美しい精霊の、負の心すべてが今、アロシアに向けられていた。



「そのような、ことは……」


「お前がそう言ったんだろう」



 アロシアは何も間違ってなどいない。それなのに何故、この尊い精霊は怒るのだ。



「お前のような自分本位の欲望で動く人間が、この世界を傷つける。醜い……、俺の嫌いな人間そのもの」



 フィスクは屈みこみ、周りの土ごと球根を掬い上げた。



「新しい植木鉢を用意しろ。その準備を終えたら、二度と俺の前に姿を見せるな」



 決定的な拒絶だった。


 シャイラのことを嘲笑っていたというのに。現実が受け入れられず、アロシアははくはくと口を動かした。



「お、お待ちください……! お許しを、どうか、わたくしに慈悲を! 罪は償います、我が心も、あなた様の思う通りに……、ですから、挽回の機会をお与えください!」


「挽回? おかしなことを言うな。俺はもともと、お前や教会のことなど信じていないし、期待もしていない」



 体を軋ませる痛みなど忘れ、懇願するアロシアを、もうフィスクは見ていなかった。彼はじっと、手のひらの中にある赤い花を見つめていた。



「信じたかったのは……」



 それが誰のことかなんて、聞くまでもなく分かり切ったことだった。

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