第2話 花が咲いていた

 窓の外で、街が起き始める音がする。向かいの鍛冶屋が剣を叩いて鍛える音が、毎朝の目覚ましだった。剣が欲しい、と朝早くから冷やかしに来る子供たちを、偏屈な店主が追い返している。


 あまりにもいつも通りの日常に、頭の中が混乱していた。


 時間を、戻す。あの声はそう言った。彼と――フィスクと出会った日まで、時間を戻すと。


 乾いた笑いが零れ落ちた。ありえない。そんなことはありえないのだ。それこそ、この世界を創った女神でもない限り、そんなことは誰にもできやしない。


 だから、多分、そう。



(やっぱり、ただの夢だ。悪い夢を見ただけ……)



 たったひと月の夢。彼と出会って、終わっただけの夢を見たのだ。随分と現実味があって、はっきりとした夢だったけれど。


 そう考えた途端に、鼻の奥にこびりつくような鉄の臭いが蘇った。そして、あの言葉も。


 『おまえに、であわなければ』。シャイラと出会ったこと自体を後悔する言葉だった。


 胸を押さえて、小さく呻く。ただの夢だと切り捨てるには、あまりに鮮明すぎた。



「シャイラ? まだ寝てるの?」



 扉を叩く音がする。はっと顔を上げて、目元をごしごしと擦った。



「起きてるよ、お母さん」



 顔を覗かせた母は、ベッドの上に座り込むシャイラに目を丸くした。ついで、寄せられた眉に心配の色が宿る。



「どうしたの? 何かあった?」


「ううん、何も。ただ……、夢見が悪かっただけ」



 怖かったけど、もう忘れちゃった。


 そう笑うと、母は「そう」と安心したように頷いて、シャイラを手招いた。



「それなら、早く着替えていらっしゃい。朝ご飯を食べたら、教会までお花の配達に行ってもらいたいの」



 背を向けて部屋を出て行った母は、シャイラの笑顔が強張ったことには気が付かなかったようだ。


 ゆっくりとベッドを降りる。クローゼットに歩み寄る足が震えていた。近くに置かれた姿見には、酷い顔色をした女の子が写っていた。それは心配される訳だ、と小さく笑う。


 年齢よりも幼く見られがちな顔立ちも、肩の辺りで揃えた栗色の癖毛も、母にそっくりだ。金色に光る瞳だけが違う。この目の色が、シャイラはあまり好きではなかった。


 風に乗って、開き始めた花の香りが舞い込んでくる。少しだけ冷たい春の空気が剥き出しの腕を撫でた。無意識に腕をさすりながら、赤いアネモネの花を振り返る。


 陽の光に照らされて揺れるアネモネは、シャイラの記憶が正しければ、既に散っているはずの花だった。


 なのに、まだ咲いている。


 そういえば、数少ないフィスクとの会話の中で、このアネモネのことを話題に出したことがあった。ほとんど時間を潰すための世間話だったが、普段は世話係のことなど気にも留めない彼が興味を示したから、花を見せる約束をしたのだ。


 その約束は、ついぞ果たされることはなかったけれど。


 フィスクは悔恨の言葉だけを残して死んだ。


 記憶の中で、彼に恨まれるようなことをした覚えはない。確かに彼は、自分のことを何も語らなかったけれど。沈黙を好んだ彼の前では、シャイラもほとんど口を開かなかった。その従順な態度が気に障ったのだろうか。


 たとえそうだったとしても、もう関係ない。あれが夢であろうと、そうでなかろうと。シャイラのやることは、決まっていた。


 フィスクと出会わなければいい。彼が死の間際に望んだとおりに。願われたとおりに。


 彼がいる場所に近づかず、シャイラはこれまで通りに日々を過ごすのだ。そうすれば、きっと何もかもが上手くいく。シャイラはあの夢をなぞることなく、フィスクは自分の思い通りの未来を迎えられる。


 嵐の日のように、ただ家の中でじっとうずくまって、風が通り過ぎるのを待つだけでいい。


 それだけでいいのだから。


 アネモネは夢の中で散った。現実のシャイラはここにいる。


 もう、間違えたりはしない。

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