時戻りのアネモネは、風の精霊と愛を知る

神野咲音

第1話 過去への回帰

 良い子にしていれば幸せになれるなんて、どうしてそんな幻想を夢見ていられたのだろう。


 目の前に広がっているのは、幸せなどとは程遠い光景だった。


 シャイラは震える手で、腹に穴の開いた少年の体を抱えあげた。誰がどう見たって手遅れだった。


 とめどなく流れ出る血の匂いが、べっとりと鼻にへばりつく。


 ぐったりとして動かない少年――フィスクは、目だけでシャイラを見上げた。


 腹の傷口を押さえたが、意味がないことくらい分かっている。背中まで貫かれた傷を癒す術を、シャイラは持っていない。



「うそ、なんで、フィスク……!」



 血を失って真っ白になった顔が、美しすぎる造形も相まって人形のようだ。ひゅうひゅうと掠れた呼吸が漏れ落ちた。そこに微かな声が混じる。


 いったい何を伝えようというのか。まだ出会って一月しか経っていない相手に。言葉を交わした期間など、もっと短いというのに。


 シャイラは彼の口元に耳を寄せた。



「なに? 何を、」


「――おまえに、であわなければ」



 声というよりは、ほとんど吐息だった。強い後悔の色が滲んでいた。凍り付いたシャイラの腕の中で、フィスクは眉を寄せて微笑んだ。笑っているのに、泣いているような顔だった。こんな時なのに、嫌になるくらい美しかった。



「そうすれば……」



 フィスクの体を支えていたはずの手が、突然空を切った。髪が、手が、体が、光り輝く粒子となって崩れていく。確かに感じていた重みが失われていくのを、シャイラは無駄と知りながらかき寄せた。



「待って、そんな」



 青ざめた唇が何かを呟いて――、驚くほど呆気なく、フィスクは消滅した。髪の一筋さえ残らなかった。手やスカートに付着した血の熱さすら、光の粒と共に失われる。


 最後の光が風に攫われていくのを、シャイラは呆然と見送った。



「どうして……」



 どうして、そんなことを言ったの。最後の最期に、どうして、そんなに酷いことを言うの。


 シャイラのことなど、何とも思っていなかったくせに。


 いつもいつも、二人の間には沈黙だけがあった。静かな時間を共に過ごして、それだけだったはずだ。


 フィスクの横たわっていた地面を引っ掻く。ここに染み込んだはずの血さえ消え去った。爪の間に土が入り込み、皮膚が削れて、血が滲む。


 分かることは、フィスクの最期は、彼が望んだ形ではなかったということだけだった。


 出会わなければ良かった。そうすれば、彼が、ここで死ぬこともなかったのか。こんな風に、生きていた証をすべて消し去ってしまうような最期を、迎えずに済んだのだろうか。


 初めて見せてくれた笑顔を、血と後悔の色に染めて。散り際さえ美しく彩って。



(時間が、戻ればいいのに)



 もし、時が戻ったとしたら。シャイラは彼と出会う道を選ばないだろう。目線一つ交わさずに通り過ぎる他人になって、生きていくのだ。


 そうすればきっと、あんな顔をさせることも、ないだろうから。



『じゃあ、そのようにしましょう』



 鼓膜を突き刺すような耳鳴りと共に、そんな言葉が降ってきた。若い女の声だ。



『あなたの願いを叶えるわ』



 視界に靄がかかったようにぼやける。ぐるぐると大気が渦を巻いて、急速に色が失われていく。



『あなたとフィスクが出会ったその日へ、時間を戻してあげる』



 呆然と空を見上げたシャイラは、え、と言葉を零した。状況が飲み込めないながらも、「待って」と手を伸ばしかける。


 けれどシャイラの困惑をよそに、その声ははっきりと告げた。



『頑張りなさい』



 そして、暗転。






 寝転んだベッドの上で、シャイラははっと目を見開いた。全身がじっとりと汗ばんでいる。上ずる呼吸を整えるのに、時間がかかった。


 目尻に溜まった涙を指で散らして、のそのそと起き上がる。窓から差し込む朝の光は、寝起きの目には少し眩しい。どこかぼんやりと重い頭を振って、軽く伸びをひとつ。


 なんだか奇妙な夢を見たような気がする。酷く胸が軋む、苦しくて愛しい夢だった。



「……夢?」



 はたと動きを止める。傷一つない指先が痛みを覚えた。


 細く開いた窓から柔らかい春の風が吹き込んで、窓際のアネモネを揺らしていった。

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