第3話 出会ってはいけなかったのに
注文書をつけた花籠を抱えて、シャイラは街の通りを歩いていた。
武勇と信仰の街、シーレシア。風の精霊を信仰するアリアネス帝国の中でも、最も強く精霊の加護を受ける場所。
シャイラの生まれ故郷は、帝国の中でも二番目に栄えていると言われる、そんな街だった。周囲を高い城壁に囲まれた要塞都市で、かつて内乱が激しかった頃にも一度も陥落しなかったという。
上空には決して消えぬ雲が浮かび、街の中心部には高い尖塔をいくつも備えた教会がある。国中から参拝者が集まる観光名所でもあった。
その教会から、「種類問わず、白い花をありったけ届けて欲しい」という変わった注文が入っていた。嫌でも覚えている。その花を届けに行った先で、フィスクと出会ったのだから。
だが花の配達はシャイラの仕事である。一人で花屋を切り盛りして育ててくれた母に逆らうという選択肢はなく、渡された大きな花籠を抱えて教会にやって来た。
緊張で指先が冷えている。一度大きく深呼吸をして、シャイラは大声を張り上げた。
「お花の配達に参りました!」
礼拝堂にいた人々がぎょっとして振り向くが、シャイラが巨大な花籠を抱えているのを見て、すぐに祈りの姿勢に戻っていく。大方、手伝いを欲したと思われたのだろう。
確かにそれなりの重さはあるが、詰め込まれているのは花ばかりだ。この風の国で生まれ育った者特有の頑健な体を持つシャイラにとって、花籠の運搬は見た目ほど苦ではない。
ではなぜ人を呼ぶのかと言うと、単に教会の中に足を踏み入れたくなかったからだ。
フィスクはここにいる。教会の中で守られているのだ。
注文された花を、教会に入らず渡してしまえばいい。フィスクがいるのはもっと奥まった場所、部外者の立ち入りが禁じられている裏庭、高くそびえる塔の中だ。
フィスクと初めて出会った時、シャイラは間違って迷い込んだ。けれど今は道順も分かるし、誤って裏庭まで行ってしまうことはない。
人を待つ間、シャイラは礼拝堂をなんとなく眺めていた。幼い頃から何度も通った、よく見知った場所だ。
教会の礼拝堂は、よく風が通るように窓が開け放たれており、入り口にも扉はない。天井には大きな穴が開き、日の光が燦々と降り注いでいた。この穴は、昔精霊が開けてしまったのを、そのままにしてあるのだと伝わっている。
丸く床に落ちる陽光を囲うようにして、参拝者が祈りを捧げている。その横を通って、祭官がこちらに歩いてくるのが見えた。
祭官と一緒に注文書を確認する。確かに、と頷いた祭官に真っ白な花籠を見せて、渡そうとした時だった。
シャイラの背後から、強い風が吹きつけた。
教会の入り口から、天井の穴に向かって吹き抜ける風。シャイラは風圧に押されて、体勢を崩した。よろめいたシャイラを見て、「風の悪戯ですね」と祭官が笑ったのも束の間。
ひと際強く吹いた風がシャイラの足を掬い上げて、その体を空へと押し上げた。
「え、」
ぽかんと口を開けた祭官がみるみる遠ざかり、こちらを指さして騒ぐ参拝者を眼下に、シャイラは天井の穴から飛び出した。
突然のことに凍り付いていたシャイラの口から、甲高い悲鳴が溢れた。
(嘘でしょっ)
世界の上下がぐるぐると入れ替わる。闇雲に手を伸ばすが、掴むものは当然何もない。一緒に飛ばされた白い花たちが、戯れるようにくるくると踊る。
もみくちゃになりながら高く飛ばされ、不意に全身が何かにぶつかった。
「いった……! なにがっ」
窓ガラスだ。それを視認した瞬間、シャイラの体を支えていたはずの風の渦が消えた。
「いやああぁぁ」
咄嗟に窓枠を掴んだが、足場が見つけられずにだらんとぶら下がる。指先に必死に力を込めた。
どう考えてもありえない。風に飛ばされるなんて。
というかここはどこだ。一体どこまで飛ばされた。
確認したいが、少しでも動けばきっと落ちる。
誰かが遥か下の方で悲鳴を上げた。
見つけてもらえたのはいいが、どうやってこんな高い場所から無事に降りるというのか。
(指、が)
滑る。
「いったい何事だ」
ガタガタと窓が開く音がして、そんな声と共に頭が出てきた。
深く被ったフードから覗く、美しい空色の髪。シミなど一つもない、透き通るように白い肌。
ぐるりと周囲を見渡したその人物は、すっと視線を下げてシャイラを見つけ、雲の色をした瞳を見開いた。二人の視線がばっちりと絡み合う。
「……あ」
ここ、フィスクのいる搭だ。
驚いた拍子に、手から力が抜けた。
「ひ……っ」
「あ、ぶなっ」
フィスクが体を乗り出してきて、すんでのところで腕を掴まれる。
「な……、にをやってるんだお前は!」
フィスクの被っているフードから、長い髪が零れ落ちる。ぶらぶらと揺れながら、呆然としてフィスクの顔を見上げた。
会いたくなかったのに。
会ってはいけなかったのに。
もう前回と違っている。シャイラが近づかなければ、フィスクと出会うことは無かったはずなのに。
「く……」
大きく体を乗り出しているフィスクが、顔を歪めた。ずるずると体がずり落ちていく。ハッとして、石組みのどこかに捕まる場所がないかと手を這わせる。
フィスクを助けるために戻って来たのに、二人で落下死なんて冗談じゃない。
バキッという音と共に、さらにがくんと体が落ちた。窓枠が壊れたようだ。
パラパラと落ちてくる木屑が顔に当たる。
(まずい……!)
シャイラが覚悟を決めたのは、一瞬だった。
「は、離して!」
「は!?」
「あなたまで落ちちゃうから!」
「馬鹿なことを……」
フィスクが最後まで言い切る前に、シャイラは大きく手を振り払う。意外にも簡単に彼の手は外れて、シャイラの体は支えを失い、
先ほどよりもずっとずっと強い風が、下から吹き上げた。落ちる体を持ち上げるように、そっと、優しく。飛び散った白い花が風に乗って再び舞い上がり、まるで風に散った羽のようにシャイラを包み込む。
ふわふわと浮かび上がったシャイラの腕を、今度こそフィスクが掴み取る。そのまま窓の中に引きずり込まれた。
二人で床に倒れ込み、しばらく荒い息をついて。
先に立ち上がったのはフィスクで、フードを下ろしてシャイラを見下ろした。
つられて、シャイラも顔を上げる。
改めて確かめるまでもなく、美しい姿がそこにあった。
触らずとも柔らかいと分かる白い肌は、仄かに光を含んでいるようにさえ見える。空色に包まれた輪郭はどこかか細く、触れれば壊れてしまいそうな印象を受けさせる。
それなのに、鋭い、あまりにも鋭すぎる眼光が、その印象を覆していた。周囲のすべてを切り裂くような、切れ長の瞳。光の差し込む窓を背にして立つ今は、降り出す直前の雨雲のような色をしている。
儚さと鋭さを兼ね備えた、どこか不安定にも思える美貌。どうあっても目が離せない。
美しさの体現だった。時が止まってしまうくらいに。
フィスクが一歩踏み出すのと一緒に、背中を覆う空色の長髪が揺れる。
「お前は……」
どこか揺れて聞こえる声に、シャイラは瞬きを繰り返した。
そうしなければ、涙が溢れて零れそうだったからだ。
(生きてる……)
確かにここに、フィスクが存在している。記憶の中にある姿そのままに、動いて、話して、息をして。
シャイラにとっての、これが現実だった。
早鐘を打つ心臓が、全力で歓喜の叫びを上げている。そのまま壊れてバラバラになってしまうのではないかと思うくらいに。
でも、シャイラはここに来てはいけなかった。
フィスクが最期に見せた微笑みが、脳裏をよぎる。
ここに来ては、いけなかったのだ。
こらえきれず、涙が一粒だけ落ちた。
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