007 天使と悪魔
忙しすぎて、なにも書く気がなくなっていた筆者が久しぶりに筆を執った次第。
さて、なにを書こうかと思案したところ。
前々から書きたかったオカルト記事をリハビリがてら執筆しようと思い立った。
その議題なのだが筆者が考える天使と悪魔の捉え方というものにしようと思う。
うむっ。
当記事では天使と悪魔、そして神に言及する。しかしながら飽くまで筆者が考えるソレで、一般的に言わているソレを否定するものではない。むしろ、こんな捉え方もあるというだけの話で、これが真実なのだとか言いたいわけではない。
ゆえに、この当記事で語られる事を……、
笑って聞き流して、こんな解釈もあるのかと話のネタにでもして頂ければ幸い。
では第七回の議題である天使と悪魔について語ってゆこうか。
うむっ。まずは結論から書いておこうか。
筆者が考えるソレは。
天使とは自然をさす。対して、悪魔とは、道具、すなわちテクノロジーをさす。
すわ、突然、こんな事を言われても混乱するだけであろうか。
では、天使と悪魔、これらを一つずつ丁寧に解説してゆこう。
ゆっくりと静かにだ。
まず天使の方だが、自然とは良く言われるよう、全ての人間〔老いも若きも男も女も、富める者も貧しき者も……〕に対して平等に幸を与え、同時に試練を課す。日光浴は健康に良いと言われ、逆に日差しが強すぎる場所では日射病にもなる。
無論、雨とて降りすぎれば洪水を引き起こす。逆に雨が降らねば水不足になる。
敢えて言及するまでもないが風もまただ。
このように自然は、この世界で生きるもの全てに対して、冷酷にも、或いは、とても優しく、平等に幸を与え、時に試練を課す。その意味で自然とは神とも言えるが、筆者が考えるに神とは自然を創りソレを管理する者、そう捉えている。
詳しくは後述するが、自然とは異なる悪魔すらも管理する者こそが神であると。
そう考えているのだ。
とにかく、自然が神でないとするならば、
そこに当てはまるピースは天使という事になる。少なくとも人間が自然に生かされているという点を省みた時、自然は、如何ともしがたい大いなる存在であり、その大いなる存在こそが天使で在っても、さほど違和感はないように思える。
つまり。
平等だからこそ残酷ながらも基本的には人間を慈しむ存在こそが自然なわけだ。
では次に悪魔が道具やテクノロジーなのだという考えの根拠を書いていこうか。
まずは問う。読者諸氏は道具について、どんなイメージを持っておられようか?
新たなテクノロジーを獲得して道具が進化すれば人の生活が便利になる。つまり道具とはソレを使う事で作業が合理的に進められ、作業時間の短縮、かかる労力が低減されるという側面を持っている。この意見に反対される方は少なかろう。
そうだ。
敢えてだが、少なかろうと筆者は言った。
ここに落とし穴がある。つまり道具を得る事で便利になる反面、同時に人間が退化する可能性があるのだ。鉄道や自動車などの乗り物が発明され、人間は長い距離を歩かないで済むようになった。飛行機などによって海外も身近になった。
しかしながら同時に近所の店に買い物に行くのにも自動車を使うようになった。
つまり。
そうやって、どうなったのかという話だ。
そうなのだ。人は自動車などがなかった過去よりも歩かなくなり足腰が弱った。
要するに道具が進化して便利になればなるほど人間自体のフィジカルや思考などが衰えるという現象が起こったのだ。無論、道具を使おうと自身のスペックを落とさず、いや、むしろ道具を上手く利用することで人間性を高める人間もいる。
しかしながら、そういった人間は、ほんの、ごく一部である。
ほとんどの人が道具に依存する。道具を利用するのではなく依存するのである。
結果、人間力が衰え、益々道具に依存して道具がなければ生きていけなくなる。
ここで一般的に言う悪魔が、どういったものか、おさらいしてみよう。筆者が生きてきて今まで見聞きしてきた悪魔とはこうだ。ソレは契約によって人間に力を与えるというもの。何かを引き換えにして人間に力を与えるという存在となる。
つまり。
先の自動車の例で言えば人間単体では為し得ない移動の効率化と引き換えにだ。
足腰を弱体化させる、というリスクを人間に負わせるわけだ。
それは、
言うまでもなく、どんな道具にも言える。電話が現われ、直接、会って会話をする機会が減った。便利になると同時に真の意味でのコミュニケーション能力の低下を招いた。スマホやPCが進化して紙に字を書く機会が減った。その結果……。
などと例を挙げるまでもなく、人間は道具が進化すればするほどに衰えてゆく。
繰り返しにはなるが、なかには衰えるこいう事を熟知し、その衰える部分を鍛えつつ道具を上手く利用する人もいる。こういった人は道具が悪魔だとは言わぬまでも使う上での便利さとの引き換えにするリスクがあると理解している人だ。
そういった人は道具を利用する、つまり依存するのではなく利用しているのだ。
ここで思い出して欲しい。創作物などで悪魔を呼び出して契約する者は、大概、悪魔を利用しようと考えている場合が多いという事実を。まあ、ただ、その大方は悪魔に依存して最終的には不幸になるという結末に落ちついて行くのだが……。
それでも悪魔は利用するものであり、それに依存してはならないものだとなる。
もちろん自然とテクノロジーや道具は相対する要素であるという対比も面白い。
自然は太古の昔からそこに在って人間を生かしている。その中で自然を克服する為、道具を発明して人は進化してきた。しかしながら同時に道具の便利さにうつつを抜かして道具に依存するという生活を繰り返して、我らは、ここまで来た。
加えて。
テクノロジーや道具が自然を制御しようとして制御しきれないという点においても天使と悪魔が対立して争いを繰り広げているという点と符合する。時にテクノロジーや道具が自然に負けて人間の傲慢さを戒める試練を与える点も興味深い。
うむっ。
最期に、神についてだが、筆者自身は、この世界を創ったものだと考えている。
自然現象は世界という器の中で起こる現象であって世界の外では起こりえない。仮に宇宙の外が在っても、その外の宇宙すら内包した世界というフィールドの上で起こる現象でしかないと考えている。つまり世界があって自然が在るという事。
無論、世界が在るからこそ人間が在ってテクノロジーを進化させる事も出来る。
世界〔神〕が在って初めて自然〔天使〕と道具〔悪魔〕などが対立できるのだ。
つまり。
当エッセイの004で語った世界五分前仮説とシミュレーション仮説を併せた世界を創った存在こそが神なのだと。無論、ソレらは科学的には証明されてはいない。しかしながら005で語ったよう。……いや、そこまでは語らずにおこう。
ただでさえ長い記事が更に長くなってしまうし、当記事のテーマからも逸れる。
うむっ。
兎に角。
以上で、筆者が考える天使と悪魔、そして神についてのオカルト考察は終わる。
無論、これらは飽くまで筆者が考えるソレであり、すべからくの悪魔や天使の概念や捉え方を示唆するものではない。可能性の一つとしての捉え方であり、ここから読者諸氏が、それぞれの考え方を改めて見つめ直して愉しんで頂ければ幸い。
では、また何からの機会があれば、再び読者諸氏と愉しんでいければ、と願う。
チャオ。
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