杏奈はいつでもアンラッキー!

七四六明

杏奈はいつでもアンラッキー!

 幼馴染の大泉おおいずみ涼介りょうすけから見て、小泉こいずみ杏奈あんなは不運な人だった。

 幼少期に親が離婚。

 父親に引き取られるも、仕事ばかりの父に留守番を頼まれるばかりの孤独な日々。

 父に代わって家事の手伝いをせねばなるまいと、同年代の子供達と遊ぶ時間さえなく、友達と呼べる友達は全くと言っていいほど出来なかった。

 だが、杏奈曰く――。

「何言ってるの? 赤ちゃん生まれた途端他の男と浮気した女がさっさと別れてくれたし、家事手伝いをしているうちに、生きてく上でしてかなきゃ行けない事はたくさん出来る様になったんだから。アン、ラッキー!」

 言い忘れていたが、彼女の一人称はアンだ。

 涼介が彼女と初めて話した時、彼が間違ってと呼んで以降、彼女は自分自身をアンと呼ぶ様になった。

 そしてそれから、彼女は言う様になった。

 『アン、ラッキー』

 まるで自分の不運を幸運に変える、魔法の呪文の様に。

 何の効力もない。要は考え方の問題だ。だけど彼女がそう言うと、不思議と彼女自身元気を取り戻す。だから涼介も、決して否定はしなかった。

 電車の中で痴漢に遭った時も。

「いやぁ、気持ち悪かったぁ……でも涼介がすぐ側にいて捕まえてくれたし、他にもたくさん目撃者がいて助かったね。アン、ラッキー!」

 中学生の頃、イジメの対象となって体操着を隠された時も。

「あの体操着、もうボロボロで捨てるしかなかったんだよね。わざわざ捨ててくれた挙句、先生達に見つかって停学処分になるだなんて……ふふふ。こんな事で喜ぶなんて、性格悪いね。まぁとりあえず、アン、ラッキー!」

 高校生の頃、人気の先輩に告白されたのを断った事を根に持たれ、女子に恨まれた時も。

「何か女子からすっごい無視されるんだけど……でも今更何だよなぁ。今まで友達いなかったじゃん? 何とも感じないっていうか。だから、アン、ラッキー! 無視で済ませてくれて助かったよ」

 交通事故に遭って、車椅子生活を強いられるようになった時も。

「もう歩けないんだってさぁ。これからどうやって生きて行こ……なぁんてね! アンには何と、彼氏がいるのです! 彼ね、アンの事幸せにしてくれるんだって! アン、ラッキー! こんな女貰ってくれるなんて、アンったら何て幸せ者なんだろう。ねぇ?」

 だけど、この時ばかりは彼女は笑わなかった。

 いや笑った。笑ったのだ。けれど、顔は引き攣って、今にも泣きそうで、頑張って元気そうに振舞っているのが見え見えだった。

 それは男が――杏奈の彼氏が、結婚式当日に逃げ出した時だ。杏奈との結婚に怖気づき、他に好きな女がいると言って、男は高跳びした。

 そんな時でさえ――。

「まさか結婚式当日に逃げるだなんて、ね。まさか彼がこんな人だったなんて……でも、まだ神様にも誓ってなかったし、キスもしてなかったし、籍も入れてなかったから、まだギリセーフ、だったね。アン、ラッキー……!」

「何がラッキーだ。こんな時くらい、泣いたっていいじゃないか。何で、そんな顔で笑ってるんだ。悪い男に引っ掛かって、傷付いているのは杏奈じゃないか」

「……だって、さ。泣いたって、しょうがないじゃん? 泣いたってお母さんが更生して戻って来る訳じゃない。また歩けるようになる訳じゃない。彼氏が、あの人が戻って来る訳じゃない……だから、さ……まだマシだったと思って、ギリラッキーだと思った方が、幸せ……」

「でも、もう泣きそうじゃんか。だったら泣けばいい。肩、胸でもいい。どっちにしても、貸すから」

 ずっと不幸な彼女を見て来た。

 ずっと不運な彼女を見て来た。

 助けられる時には助けて来た。直接助けられない時は、見守って来た。だけど、もう我慢出来なかった。

 彼女はもう、自分自身を誤魔化し切れない。そしてもう、誤魔化させるつもりもない。彼女が本当に幸せになるのなら、他の誰かに託したって良いと思っていたけれど、我慢するのはやめたし、誰かに託す事もやめた。

「もうヤだよ……もう疲れた……みんな、みんな、何でアンを傷付けるの? 何かした? 何もしてないでしょう? 何も出来てなかったかもしれないけれど、迷惑だって掛けてなかったはずなのに、なのに……!」

「そうだよな。杏奈は、頑張ってただけだよな。ただそれを支える人が、ずっと、いなかったってだけだよな。だから、今度は俺が立候補する」

「涼、介……?」

「杏奈の両親でもダメだったけど、先輩でも後輩でも友人でもダメだったけど、彼氏でもダメだったけど、俺はずっと杏奈を見て来たから、少なくとも結婚式当日に逃げ出す男より杏奈を幸せに出来る自信はある。だから、次は俺の番だ」

「涼介ぇぇぇ……」

 その後、何の因果か学生時代に杏奈が交際を断った先輩の務める会社が婚約者と同じ会社だった事もあり、先輩の協力で高跳びした男の身柄を確保。結婚式代と慰謝料を請求した。

 そして、杏奈の父との話し合いでは。

「私は昔から、娘を見れていなかった……娘のためにと働き続けていたが、結局、娘に我慢ばかりさせてばかりで。君に言われるまで、娘が苦しさを訴えた事がないのは、我慢していたから何だと気付きもしなかった。君の様に、娘をちゃんと見ている人になら、任せられる。大泉くん――いや、涼介くん。娘を、よろしく頼む」

 前向きな言葉を頂く事が出来、結婚を許して貰えた。

 そのせいで、慰謝料の話を聞き付けた元母親が杏奈の父に復縁を迫るなんて事件もあったが、これを機に父は母を実家に連れて行き、今までの所業を暴露。法で裁く事は出来なかったが、母は実家と親戚の監視下の下、生活を強いられる事となった。

「涼介が結婚してくれるって言ってから、良い事ばっかり。涼介は、アンの幸福の天使だね」

「……杏奈。一人称を、自分のニックネームにするのは、卒業した方がいい。歳が、歳だし」

「ヤだ! 歳とか言わないでよ、もう……まぁ、そろそろ直さないとなぁ、とは……思ってたんだけどさ」

 来年の春。二人は結婚する。

 きっと今まで以上の色々があって、艱難辛苦もあれば逆の事もたくさんあって、とにかく大変な事ばかりだろう。

 けれどきっと、自分達ならやっていけると信じている。今まで不運を幸運に変えて来た彼女の心の在り方と、彼女を支える彼の存在が在れば。

「杏奈。改めましてになるけれど……」

「何なに?」

 車椅子を押していた手を離し、ポケットの中から取り出す。

 手の中にスッポリと治まるサイズの箱の中に入っていたのは、小さくも煌めきに満ちた宝石のついた指輪。

 片膝を突いた涼介は、今まであまり見せた事の無い優しい微笑を携えて、彼女に差し出した。

「俺と、結婚して下さい」

 杏奈は目をウルウルとさせて、笑いながら泣いて、歩けないと言うのに車椅子から飛び出し、涼介の胸へと抱き着いた。

「涼介と会えた事が一番アン、ラッキーだよぉ……アン。ラッキーセブンだよぉ……」

「何だそりゃ。ふふ」

 こうして、二人は結婚した。

 子供は二人生まれ、仲のいい家族となれた。

 杏奈の父を反面教師にした訳ではなかったけれど、世間的にあまり良い稼ぎではないにしても、仲睦まじい家族になる事が出来た。

 そうして、十年の時が経ち。

「ねぇ、パパとママはどうして結婚したの?」

「それはね。ママが自分の事をアン、って呼んでた時……」

 きっと幸運は、これから続いていく。

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