第16話 クライアント
そこは、どこまでも海が広がっていた。
海面は黒一色となっており、空には紅い月が
そんな海の上にシオは立っていた。
「ふぅ、やれやれ。夫婦の語らいの時間を邪魔しないでほしいんだが」
一息ついた後、目の前の虚空に対して語りかける。
すると、何もなかったはずの空間が捻じ曲がり、そこから1人の女性が現れた。
その姿は今の本来のシオの姿――地球で真琴の前に見せた姿に似ている。
ただし、女性はシオよりも幼く、その肌の色は幽鬼のように青白く一目でこの世のものではないとわかる。
そして、その顔は狐の面で半分隠れており、表情がわかりづらい。
黒いセーラー服に身を包み、膝まで届く黒髪が風になびいている。
「何の用だ? エイセル=アイドネウス=エンフィニア」
シオは突然現れた女性にそう声をかけた。
自分と真琴を再び引き合わせた超常の存在。
しかし、シオはあまり友好的に接するつもりはない。
「お前の瞳は私の瞳。なぜ瞳を閉じている?」
エイセルがシオに問う。
その声は外見と同様に幼い少女のものであった。
しかしその口調は無機質であり、まるで機械音声のような印象を受ける。
「何かと思えばそんなことか……いくら神様とはいえ、夫婦の情事をつまびらかに見せるのはどうかと思ってな」
シオは肩を竦めながら答える。
だが、その声には明らかな
それを聞いたエイセルの表情が変わることは無く、淡々と言葉を続ける。
「人間共の営みになど興味はない。瞳を開け」
彼女にとって人間は害虫や害獣程度の存在でしかないことをシオはよく知っていた。
故に、彼女が人間の情愛に興味を持つこともないとはわかっていた。
だが、それでも真琴、今はヴェルキアか――との時間を見られるのは不快だった。
「ああ、わかったよ」
彼女の正体は上位世界に存在する神。
目の前の彼女は人の形をしているが、それはただ自分たちと会話をするために作り出した器に過ぎない。
それゆえ、こうして直に忠告を受ければ従う以外の選択肢は存在しない。
「それで? 要件はそれだけか?」
シオは不機嫌さを隠さずに言う。
この場はエイセルの作り出したものであり、グラディーナとは時間の流れが異なる。
ヴァルディードがアスフォデルの身体を掌握している可能性があり、長時間ヴェルキアの元を離れるのはリスクが大きい。
「なぜお前は自らのことを彼に話さない?」
エイセルはシオに向かって問いかけた。
その言葉に感情はないが、シオは驚きを隠せなかった。
エイセルは人間に全く興味がない。
そのため、彼女の目的を達成する過程で人間がどうなろうと知ったことではないはずだ。
「一体どういう風の吹き回しだ? 俺たちに興味がないんだろう?」
シオは思わず疑問を口にした。
その言葉からは動揺が見て取れる。
人と異なる思考を持つ存在が、自分たちのことに関心を持ったことがそれほどまでに予想外だったのだ。
しかし、そんな様子のシオを見てもエイセルの表情は変わらない。
相変わらず無表情のままである。
それどころか、僅かに首を傾げているようにも見える。
「確度の問題だ」
「何?」
「お前のことを彼に話した方が、私の願いが成就する可能性が高まると考えたのだが」
エイセルは淡々と語る。
そこには感情がないはずなのに、どこか好奇心のようなものが感じられた。
『なあ、最後の頼みだ。俺と一緒に死んでくれないか?』
かつて、俺の懇願をあいつは拒絶した。
絶対に許すことはできない。しかし、現世に戻った時にはまたあいつに会えることに喜びもした。
だが、今のあいつは俺が本当は誰なのかわかっていない。
「心配せずともお前からの依頼は俺が叶える。だから安心して寝てればいい」
シオの言葉に嘘はなかった。
たとえ相手が何であっても関係ない。
必ずやり遂げるつもりだ。
そして、エイセルに約束を守らせる。
「期待している、エストリエ=シュオル=アフェーラー」
その言葉を最後に、エイセルの姿は消え去った。
後に残されたのはシオただ1人だった。
「期待、か」
そう言うとシオは静かに目を閉じた。
すべてが終わったときの事を考えれば、少しは穏やかな気分になることができる。
「お前からの期待なんてどうでもいい。あいつは俺のことを裏切り、それでも俺を望んだ。ならば期待に応えてやるとするさ。それ相応にな」
ゆっくりと目を開くと、静かに呟くように言葉を紡いだ。
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