展開>>>>>>>>心情?/どうする家康のキャラクター造形の不備。

 今作の秀吉は、キャラクター造形が酷く品のない秀吉に成っていて、瀬名に、信長の草履を胸で温めていたのではなく尻に敷いていたと話すが、それが事実だとしても、瀬名に聞かせてよい話ではない。どう考えても吹聴してはならないたぐいの話だ。

 またこれは、本作のキャラクター造形である信長のカリスマ性を揺るがす発言でもある。

 本作の魔王じみた信長が、秀吉の嘘に気付けなかった間抜けだって事になるからだが……(この事を脚本家さんは理解しているのか?)


 また、次に秀吉は家康に本当は悔やんでおるだろう?いっぺんぐらいやっとけばよかったと思っておるだろう?と言いますが、これも下劣かつ命取りの発言です。もしも信長に知られたら、斬られるはずです。

 とにかく品がない。そういうキャラクター像ならそれでもいいですが、本作の信長のキャラクター像を考えれば、信長が本能寺で退場するまで、秀吉はそれを隠し通しているべきでしょう。

 例えば、従順な手下を延々と演じていたが、明智光秀の謀反を促したのは実は秀吉で、その光秀に勝った後で、本性を表すというような展開にすれば、物語の後半で対峙する敵役として十分な狂気を示す事もできたでしょう。


 因みに今作では、秀吉をムロツヨシさんが演じていますが、ムロツヨシさんと言えば、おんな城主直虎のときにも癖のあるキャラクターを演じていました。

 銭に執着して、ともすれば品のないキャラクターとも捉えられましたが、その実、本作の秀吉とは違い嫌味の少ないキャラクターに成っていたかと思います。

 銭になりそうだと結婚相手を選びますが、円満な関係を築いているようでしたし、あの辺りは脚本家さんの腕の差が如実に表れていると思います。人の感情の動きや機微を描くのが、どうする家康の脚本家さんは下手です。


 どうする家康の脚本家さんは、キャラクター造形ではなく展開を優先しています。というか、キャラクターの心情やその機微、それによる思考や、選択を描けないのではないかとさえ感じてしまいます。


 だから、寺に行って、皆が飢えているという言葉を聞いた家康が、城に帰ってくると米を寺から徴収する事にしたと言って、美味しそうに飯を食うというようなマネが出来る。


 喧嘩別れした母親と、痴話げんかみたいなこともできる。


 知り合いが殺されても、そんな過去は無かったみたいに瀬名は振舞う。


 やる気を見せたかと思えば、どうするんじゃーとなる。


 どうする家康のキャラクターたちは展開に振り回されています。そこにキャラクター造形。(思考や心情、経歴や過去)というものはありません。


 本来ならば、何か一つ選ぶにしても、そのキャラクター造形に因るものになっていなければならないのにも関わらずです。だからどうする家康のキャラクターたちは物語上で経験した事の影響を受けません。

 身内が死んでも、次のシーンでは道化になるでしょう。どうする?といった次の瞬間にはすさまじいリーダーシップを発揮して、次の瞬間にはまたどうする?と言っているでしょう。

 これで、この脚本家さんは評価されているらしいのだから、近年の日本ドラマ・邦画業界が衰退した理由が良く分かる気がします。

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