ピッチャーお兄さんとジャージな私(KAC20236)

ミドリ/緑虫@コミュ障騎士発売中

アンラッキー7

 ラッキーセブン。語源は野球からきているそうで、七回表に投手が疲れ、逆に打者は球に慣れて打ちやすくなり、点が取りやすいという意味らしい。


 人生で言ったら、七回表っていつぐらいを指すんだろう。


 結婚して子供を生んでという所謂幸せと定義されてる人生だったら、子供が小さくて可愛い三十代頃だろうか。その年齢だったら、それまで縁がなくても逆転ホームランを打って起死回生も出来る。


 だったら私に起きたことは、アンラッキーセブンって言うんだろうか。


 十年付き合った彼にいい加減結婚したいと匂わせたら、実は別の若い女と婚約していたと泣きながら謝られ、破局。


 孫が早く見たいと言っていた両親に言えずにいたら、定年退職を迎えた父が安堵からかあっさりと亡くなった。


 狼狽で動けない母に代わり葬儀やら相続手続きやらに追われていたある日、母はまるで後を追うように眠ったまま亡くなった。


 再び葬儀と相続手続きに追われ、気付いたらアラフォーと呼ばれ始める日を迎えていた。


 誰ひとり、おめでとうなんて連絡してこなかった。


 大切だった人が一気に去ってしまい、悲しいよりも虚しさが募る誕生日の夜。


 両親の姿を思い起こす家にひとりでいるのが辛くなり、フラフラとコンビニに向かい、購入したのはチータラの大袋と500mlのビール二本。買ったはいいけど、家で飲んだらまた沈む。


 そう考えた私は、近くのそれなりに広さのある公園に向かった。


 街灯が照らすベンチのひとつに座る。座ってから気付いたけど、ひとつ挟んだベンチにスーツ姿の男が頭を抱えて座っていた。


 さすがに夜に女ひとりは危ないかな。そう思ったけど、ふと自分の姿を見下ろせば、ダサい安物のジャージを着ている。コンタクトをするのも面倒だったので、黒縁眼鏡にノーメイク。その上乱雑に結んだポニーテールなので、ひと昔前に流行ったドラマの熱血女教師みたいだな、と思わず苦笑した。


 こんな枯れた疲れ果てた三十五歳をどうにかしようなんて男は、まあいないだろう。


 コンビニの袋からビールを取り出すと、プシュッと開ける。泡が飛び出して来たので、慌てて口を付けたけど少し地面に溢れた。


 ゴク、ゴク、と飲むと、空を見上げる。気分はちっとも晴れないけど、空はよく晴れていて月が綺麗だ。


 折角だから月見酒といこうじゃない、とチータラを取り出した。――美味い。私の人生アンラッキーセブンだけど、今この瞬間だけはマシかもしれないな、とちょっとだけ嬉しくなる。我ながら単純だけど。


 そんな風にモグモグゴクゴクしてお月見をしていると、向こうのベンチから、「ズビビビッ」という音が聞こえてきた。……なんだろう。


 横目でちらりと確認すると、スーツ姿の男がティッシュで盛大に鼻を噛んでいるところだった。


 風邪かな、なんて見ていたら、私のと同じ様な黒縁眼鏡をずらして鼻を噛んだのと同じティッシュで目を拭いているじゃないか。


 汚いなあと思ったけど、その後聞こえてきた「うううう……っ」という胸が締め付けられそうになる嗚咽に、汚いと思ったことを申し訳なく思った。


 夜の公園のベンチで泣く男。よく見ると、年齢は私と近そうだ。髪の毛は黒いけど、顎の下がやや弛んでいる。中肉中背、顔はティッシュでよく見えないけど可もなく不可もなくかなと考えてから、お前何様だよ、と自分に対して心の中で笑った。


 多分向こうが私を見たら、同じことを思うだろう。いや、上下ジャージの時点でもっと酷く思われるかもしれない。


 そんなどうでもいいことを考えていると、泣いている相手には悪いけど、ちょっと心が晴れた。同時にちょっと気になる。自分がここにいることは音で分かる筈なのに、それでも泣き続けるほどの何があったんだろうと。


 横目で見ていると、男が左手の指から指輪を抜き取る。お、結婚指輪かな? と完全な野次馬気分で観察を続けていると、男は右手を振りかぶった。「ピッチャー構えました!」というアナウンサーっぽい声が脳内に流れる。でも男は投げない。指輪を握り締めたままの手を降ろすと、またぐじぐじと泣き始めた。


 この人にも、ラッキーセブンじゃなくてアンラッキーセブンが訪れちゃったんだろうな。


 そう考えると急に親近感が湧き、よせばいいのに私はつい声を掛けてしまった。


「ねえお兄さん!」


 男はビクッとしたが、自分に話しかけられているとは思わなかったのか、こちらを振り向かない。私はビールを持って立ち上がると、男の隣のベンチに移動した。


 男は何が起きたのかといった恐ろしげな表情で私を見上げている。うん、私もその気持ちはよく分かるよ。自分がされたら怖いもんね、という気持ちで頷いた。


 ガサゴソとコンビニの袋からもう一本ビールを取り出すと、男に「飲む?」と差し出す。男の黒縁眼鏡の奥の目が、大きく見開かれている。おじさんよりはお兄さん寄りの年齢に見えた。


「発泡酒じゃないよ、ちゃんとしたビールだよ」

「え、い、いいんです?」


 遠慮がちにだけど、お兄さんが手を伸ばしてきた。私は笑顔で頷くと、「いーよいーよ」と返す。


「あ、じゃあいただきます」

「うん、かんぱーい!」


 ガン、と重い音を立てて乾杯すると、私は勝手に自分のことを語ることにした。相手の心を開くには、まず自分を曝け出さなければいけない。私の持論だ。


「勝手に話すけどさ――」


 そう言って話した内容に、お兄さんは同情して涙を見せ、私が差し出したチータラにも手を伸ばした。警戒心がない。赤の他人ながら、ちょっと心配になった。


 お兄さんがしんみりと頷いた後、「俺は――」と語り出した内容は、私のよりももうちょっと酷いやつだった。


 かなりの年下と結婚して子供も生まれて喜んでいたら、ある日浮気が発覚。まさかと思いDNA判定をしたら、浮気相手の子供だったそうだ。父親は既に死去、母親は可愛い孫が他人の子だと知るとショックで倒れ、そのまま帰らぬ人に。


 当然ながら離婚したけど、自分名義のクレジットカードを限度額一杯まで使用されていることに気付いたお兄さんが慌てて連絡を取ろうと思ったら、所在不明になっていた。


 目下、諸々弁護士に相談中ということで、弁護士費用も嵩んでいる最中とのこと。


 ならばせめて結婚指輪を売って費用の足しにしようと思ったら、二束三文の値段しか付かず、悔しくて情けなくてフラフラと公園のベンチに座り思わず泣き始めた、というのがここまでの流れだった。


「うわあ」


 思わず素直な感想が口から飛び出す。アンラッキーセブンどころじゃない。スーパーアンラッキーセブンだ。


「ですよね」


 お兄さんは素直に頷いた。私に話したことで多少気が晴れたのか、涙は止まったみたいだ。曇った黒縁眼鏡を外すと、思ったよりも爽やかな顔が出てくる。お、いいじゃんなんて思ったけど、だから何様よ私、とちょっと笑ってしまった。


「あの……?」


 お兄さんが不思議そうに見たので、私は「ううん、お兄さんを笑ったんじゃないから」と笑顔で答える。そして、さっき考えていたことを伝えてみることにした。


「お兄さん、ラッキーセブンの由来って知ってる?」

「いえ」


 私がざっと説明をして、今自分が人生のアンラッキーセブンの時期にいると思っていたと言うと、お兄さんも「じゃあ俺も一緒だ」と初めて笑顔を見せる。おお、いい笑顔。


「自分だけが不幸じゃないってちょっと嬉しいですよね」

「うん、分かる分かる」


 傷の舐め合い以外の何物でもない。


 すると、ビールをぐーっと一気に飲み干したお兄さんが、グシャッと缶を握り締めて言った。


「お姉さん、俺いいこと考えました!」

「え!? なになに!? 聞いちゃうよ!」


 私が乗り気な態度を見せると、お兄さんは手のひらにある指輪を私に見せる。


「この指輪をボールに見立てて、遠くに飛んでいったら俺たちのアンラッキーセブンはもう終わりです」

「え? それ私も便乗していいの?」

「勿論! 一緒に厄払いしましょう!」


 欧米と和風がないまぜな考えだけど、何となくそれでもいいかと思えるあたりが八百万の神に慣れ親しんでいる日本人らしさなのかもしれない。


「川の陸橋の上から投げる! どうです!?」

「いいねえ! 思い切っていっちゃおうか!」


 ここから歩いて数分のところに、そこそこ幅の広い川が流れている。そこの陸橋から投げたら確かにすっきりしそうだ。


 お兄さんは勢いよく立ち上がると、笑顔で頷いてみせた。


「善は急げです!」

「いいねえ!」


 何が善なのかも分からないけど、とりあえずはや歩きで川に向かう。道中、ビールと焼酎ならどっちが好きかとか、焼き鳥か唐揚げどっちが好きかとか、くだらない話で盛り上がった。


 こんな会話すらも、ここ最近誰ともしていなかったことに気付く。ちなみに二人ともビールと焼鳥の組み合わせが好きだと判明した。


 橋の上に到着すると、真ん中まで行き、そっと川を覗き込む。黒々とした水はかなり流れが早いから、ここに投げたらもう二度と見つからないだろう。


「じゃあ、投げますよ……!」


 お兄さんが真剣な表情になったので、私は口の周りを手で囲い、掛け声を掛けた。


「ピッチャーお兄さん、振りかぶりました!」

「ピッチャーお兄さんって」


 あはは、と笑う顔には、さっきまでの悲壮感は殆ど残されていない。頬にわずかに残る涙の跡くらいしか。


 私は笑顔で応援する。私のアンラッキーセブンも一緒に消えて、と願いながら。


「ほら、振りかぶって!」

「……うん!」

「ピッチャーお兄さん、投げました!」

「――行けえええっ!」


 お兄さんの手から、指輪が勢いよく飛んでいき、一瞬でどこに行ったか分からなくなった。


 川面を注意深く見ていたけど、全然分からない。


 私の横から川を覗いていたお兄さんが、ゆっくりと私を振り返る。


「これでアンラッキーセブンの回は終わりましたね」

「……うん、そうだね」


 私を見つめるお兄さんの顔は、晴れ晴れとしていた。きっと私の顔もそうだろう。


「――じゃあ、厄払いも済んだし」


 帰ろうか、と続けるつもりだった。


「そうですね。焼き鳥とビール、どうです?」

「へ」


 私がきょとんとしていると、お兄さんが破顔する。


「アンラッキーセブンの回の次は、ラッキーセブンの回ですよ、お姉さん」


 ――それって、どういう意味だろう。


 私がぽかんとしていると、お兄さんが私の背中を押した。


「ほら、行こう行こう!」

「う、うん」


 風が、お兄さんの前髪を吹き上げる。


 照れくさそうなお兄さんの笑顔に、枯れていた筈の私の心臓がトクン、と音を立てた。

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