第17話 愛を得るための代償
宝石のように輝くシャンデリアの下で、クリスティーナとポールは壮絶な戦いを繰り広げていた。玉座の間には、剣の乾いた音が響き渡っていた。クリスティーナの左太ももや右の二の腕には、小さな切り傷が出来ている。彼女は、素早い攻撃を繰り出すポールに苦戦していた。
「どうした、王子様? 動きが鈍っているぞ!」
ポールは額に汗を滲ませながら、レイピアを振り上げて、クリスティーナに襲い掛かる。
「はぁっ、はぁっ、まだだ! 僕はまだ戦える!」
クリスティーナは、ポールの挑発を振り払うように、力任せに斬りかかった。しかし、ポールはレイピアの剣身で、クリスティーナの剣を弾き返した後、バランスを崩した彼女の頸を柄頭で勢いよく突いた。
「かはっ!」
クリスティーナがその場に転んだ瞬間、ポールは彼女が手に持っていたスモールソードを蹴飛ばした。そして無防備になったクリスティーナの上に跨り、細い首を片手で絞めつけながら、彼女の顔にレイピアの剣身の先を突きつける。
「ぐっ、はっ……」
「もう諦めろ、クリスティーナ! 王子様の格好をしても、女のお前は、親父を超えることは出来ねぇんだよぉっ!」
しかし、クリスティーナは最後の力を振り絞り、ポールの手首を右手で掴む。
「はぁっ、はぁっ、おっ、女でも……」
クリスティーナの爪がポールの皮膚に食い込んでゆく。
「ぼっ、僕は……貴様を倒す!」
「寝言はあの世で言っていやがれえぇっ!」
ポールがレイピアを振り上げて、勢いよく突き刺そうとした時のことだった。クリスティーナが、隠し持っていた護身用の拳銃をベルトのポケットから取り出して、ポールの左肩に向かって発砲したのである。
「ぐあぁっ!」
ポールが握りしめていたレイピアを落とした瞬間、クリスティーナは彼の手を振り払い、よろめきながらも、ゆっくりと立ち上がった。
「ごほっ、ごほっ!」
クリスティーナは激しく咳き込んだ後、拳銃を握りしめたまま、玉座のそばに倒れたポールに近づく。
「いてぇっ、畜生! はぁっ、はぁっ、いてえぇぇっ!」
ポールは左肩を右手で抑えていたが、それでも傷口から血が滲み出ている。ポールの顔は、苦悶の表情で歪んでいた。
「残念だが、僕は手段を選ばない」
「ふん、この卑怯者があぁぁっ!」
「黙れ、負け犬が」
クリスティーナは再び拳銃を構えて、ポールの脇腹に向かって二発目を発砲した。
「うっ……」
ポールの体が発砲の衝撃で揺れた。そして彼は口から血を流して、そのまま動かなくなってしまった。
「僕の勝ちだ、ポール」
クリスティーナは自らの勝利を宣言した後、拳銃を捨てて、『玉座の間』を颯爽と出て行ったのであった。
クリスティーナは負傷した二の腕を庇いながら、ティファニーの部屋の前で足を止めて、そっと扉を開けた。室内はすでに真っ暗だった。
(さすがに、もう眠っているよね)
クリスティーナは、ティファニーが眠るベッドに近づいて、黄金の仮面を外した。
「ティファニー、僕は勝ったよ。これで僕はやっと君だけの王子様になることが出来る」
クリスティーナが、窓側の方を向いて眠るティファニーの頬に口づけをしようとした時、彼女は突然を口を開いた。
「やっと捕まえたわ、ジェノバ」
それは明らかにティファニーの声ではなかった。
「うわっ! 貴様、どうして……」
ベッドにはケスバラレイムが横になっていたのである。驚いたクリスティーナが慌てて、後退りをすると、背後からランタンを手に持ったクロバラメイムとエルヴィス、そしてクロードたちが一斉に入り込んで来た。
「動くな! クリスティーナ・ヴァレンタイン! 貴様を連続殺人事件の容疑で逮捕する!」
拳銃を構えたエルヴィスは、銃口をクリスティーナに向ける。
「クリスティーナ、その格好は……」
クロードは、クリスティーナの男装を見て絶句してしまう。
「ごめんなさいね、ティファニーじゃなくて」
勝ち誇った微笑を浮かべたケスバラレイムは、ベッドから起き上がり、クリスティーナに謝った。
「ふっ、負けたのは僕の方だったのか」
クリスティーナは、両腕を上げて、自分の敗北を認めた。
クリスティーナが七歳の時、ジェノバ・ヴァレンタインはいつものようにハンティングに出かけたまま、突然、消息を絶ってしまった。屋敷の使用人やポリスたちの力を借りて、彼の行方を探したが、結局見つからなかった。夫の失踪の知らせを聞いたジュリアは、ひどくショックを受けてしまった。他に女を作って、駆け落ちしてしまったのではないか。あるいは、ハンティング中に森の獣たちに襲われてしまったのではないか。悪い憶測ばかりが、彼女の頭の中から離れなかった。
ジェノバがいなくなってから、ジュリアは悲しみに暮れていた。なぜ父親が自分達の前から突然いなくなってしまったのか。幼いクリスティーナには当然理解出来なかった。それよりも、精神的にも肉体的に衰弱してゆく母親のことが心配でたまらなかった。
そして、ジェノバが失踪をしてから一年後、ジュリアが以前から患っていた肺の病が悪化し、クリスティーナとクロードに見守られながら、亡くなってしまった。もちろん、母親の死を、クリスティーナは素直に受け入れることは出来なかった。葬儀の日も、現実を受け止め切れなかった彼女は、涙すら流すことが出来なかったのだ。
ジュリアの葬儀が終わった後も、喪失感に苛まれるクリスティーナが、母親が眠る墓の前に呆然と立ち尽くしていた。
(ねぇ、お母様。私はこれからどうなるの?)
心の中で墓に埋葬されたジュリアに尋ねた時、後ろからジョージ・ヴァレンタインに声をかけられた。
「クリスティーナ。もし良かったら、私たちと一緒にイギリスで暮らさないか」
「えっ?」
「あんな薄気味悪い城で父さんやポールたちと暮らすのは、今の君にとってはあまり良くないと思うんだ。それにティファニーが、是非、君と一緒に暮らしたいと言っているんだ」
「ティファニーが?」
全てを失ったクリスティーナには、もはや選択肢などなかった。クリスティーナは、ジョージ・ヴァレンタインとともにイギリスに渡り、そこで正式に彼の養子となった。ジョージとティファニーは、クリスティーナを家族の一員として温かく迎え入れたのである。
とはいえ、生まれてから一度もウィーンから出たことがなかったクリスティーナにとって、ロンドンでの生活は戸惑いの連続であった。言葉の壁もあったため、最初の頃は上手く屋敷の使用人たちとコミュニケーションを取ることが出来なくて苦労をした。
やはり、ウィーンの城で祖父たちと一緒に暮らした方が良かったのだろうか。イギリスでの生活になかなか馴染むことが出来なかったクリスティーナは、自分の部屋に閉じ籠るようになっていった。だが、そんなクリスティーナを気にかけたジョージとティファニーは、彼女を積極的に外の世界に連れ出したのである。
天気が良い日には、クリスティーナと一緒にピクニックに出かけたり、演劇を鑑賞したり、ハンティングにも連れて行ってくれた。これが、クリスティーナとハンティングの出会いであった。ジョージが、乗馬とライフルの基本的な使い方を教えると、クリスティーナは、すぐにコツを掴み、ハンティングにのめり込んでいった。彼女のハンティングの才能は、父親のジェノバから受け継いだものだろう。だが、ジョージは、クリスティーナが、自分よりも、多くの獲物を仕留めるたびに、複雑な感情を抱くようになった。
「君が男の子だったら、僕は心の底から喜ぶことが出来たんだけどね」
当時のクリスティーナには、彼が言っていた言葉の意味をあまり理解することが出来なかった。彼女は、男よりも獲物を多く仕留められる自分に誇りを抱いていたのである。
とはいえ、ジョージは、それをクリスティーナの個性として受け入れてくれた。周囲が反対しても、ハンティングを続けさせた。彼は、クリスティーナを本当の娘として愛し、彼女の成長を見守り続けたのである。
彼女がクリスマス・パーティーで、ぎこちない手付きで、ヴァイオリンの演奏を披露した時、演奏の上手い下手関係なく、とても喜んでくれた。だが、語学の勉強をさぼって、日が暮れるまでハンティングから戻って来なかった時は、厳しく叱責してくれた。楽しいことがあれば、一緒に笑い、悲しいことがあれば、一緒に泣いてくれた。人見知りが激しかったクリスティーナは、次第にジョージたちに心を開いていったのである。
こうしてイギリスに来てから、一年後。ティファニーとクリスティーナは、年が近いせいもあって、本当の姉妹のように仲良くなっていた。誰にも本音を打ち明けたり、何か困ったことがあったら、お互い励まし合い、協力する。ティファニーは、クリスティーナを姉として慕ってくれた。そしてクリスティーナも、ティファニーをとても可愛がった。ティファニーに対する愛情は、クリスティーナが成長するにつれて、ますます強くなっていった。そして、ティファニーは、彼女にとってかけがえのない存在となっていったのである。
ティファニーは、とても明るくて、社交的な上に人懐っこい性格であった。そのため、彼女はいつも多くの友人に囲まれていたのである。だが、それがクリスティーナを苦しめることになってしまった。自分以外の誰かと楽しそうにお喋りをしているティファニーを見かけるたびに、なぜか胸が締め付けられるような不思議な気持ちを抱くようになってしまう。
(私、もしかしてティファニーのことを……)
クリスティーナは、内心、彼女に対する感情にひどく戸惑っていた。クリスティーナにとって、ティファニーはもはや単なる妹ではなく、一人の女であったのだ。つまり、恋愛の対象とみなしていたのである。だが、クリスティーナが愛してしまったのは、自分と同じ女。このことを誰かに知られたら、ティファニーのそばにいられなくなってしまう。
社会純潔運動が活発化していた十九世紀後半のイギリスにおいて、同性愛は禁忌であった。淫らな行為に耽る者は容赦ない偏見の目に晒されながら、厳しい制裁を受けてしまう、抑圧が支配する時代であったのだ。
(どんなに願っても、私はティファニーと結ばれることはない)
ティファニーを愛していたとしても、この恋は実ることはない。クリスティーナは、自らが置かれた、この残酷な環境に絶望していた。誰にも打ち明けられることなく、一人悩み続ける毎日。そんな苦しい思いを紛らわすかのように、クリスティーナはハンティングに夢中になる。いや、正確に言えば、ハンティングに逃げていたのだ。彼女は報われることのない恋を必死で忘れようと、ティファニーと距離を置くようになった。しかし、皮肉なことに、どんなにライフルの腕が上がっても、ティファニーへの想いはますます強くなっていったのである。
「ねぇ、クリスティーナ」
「なに?」
クリスティーナが、全身鏡の前で、ハンティングスーツに着替えていると、ティファニーが近づいてきた。
「また、ハンティングに出かけるの?」
ティファニーが心配そうな顔をして、鏡に映るクリスティーナを見つめていた。
「うん、そうだけど」
クリスティーナは、そっけない態度で答えた。
「ダンスのレッスン、いつ出るの? まだ一度も受けていないじゃない」
社交デビューに向けて、ダンスのレッスンが始まっていた。しかし、クリスティーナだけは参加していなかった。
「社交界なんて、興味ない。あんな動きにくいドレスを着て、男たちと踊るなんて、まっぴらごめんだよ。ダンスなんてしている暇があったら、外でハンティングをしていたほうが気楽だよ」
もともと社交界に良いイメージはなかった。父親のことがあったので、嫌悪感を抱いていた。とはいえ、ダンスは嫌いではなかった。この頃から、家族やメイドたちに隠れて、こっそりダンスの練習をしていたのである。ただ、クリスティーナは、男ではなく、ティファニーと踊りたかったのだ。
「でも、社交界に出ないと、女の幸せは手に入らないって、エルシアが言っていたわ」
すると、クリスティーナは、鼻で笑った。
「女の幸せね……」
「クリスティーナ?」
「そんなところに出なくても、私は、自分の力で自分の幸せってやつを手に入れたいの」
彼女の言葉を聞いた、ティファニーは目を大きく見開いた。
「ティファニーは、もっと広い世界を見たほうがいいよ。森の中を馬に乗って、走っているだけで、自分が今いるところが、いかに狭い場所かってことが分かるから」
ハンティングをしているうちに、クリスティーナは、気づいてしまったのだ。社交界だけが全てではないことを。
だが、社交界という絶対的なコミュニティが女の将来を左右した時代に、彼女のような考え方が受け入れられるはずなどなかった。
クリスティーナが十六歳になり、ティファニーとともに社交デビューが決まると、早速、クロードから手紙が届いた。手紙には、二人の社交界デビューをお祝いして、盛大な舞踏会を開催したいと書かれていた。あまり乗り気ではなかったクリスティーナとは対照的に、幼い頃から華やかな社交界に憧れていたティファニーは、その知らせを聞いた途端、胸を躍らせた。そして、すぐにロンドンの有名デザイナーに自分とクリスティーナのオートクチュールを作らせ、舞踏会に向けた準備に取り掛かった。
(そんな動きにくいドレス、着たくないな)
この頃から、クリスティーナは着ているドレスが窮屈でたまらなかった。なぜ女は、こんな動きにくいドレスを着なくてはならないのか。自分が着ているものに違和感を抱いていた彼女は、ハンティングスーツのような、もっと動きやすい格好をしたいと思っていた。
(出来れば、タキシードを着て、ティファニーと踊りたいな)
そして、彼女は、密かに淡い夢を抱いていたのである。
こうしてクリスティーナは、八年ぶりにティファニーとともにヴァレンタイン城に向かうことになった。だが、これがクリスティーナの人生の歯車が狂い出すきっかけとなってしまうことになることなど、本人は知る由もなかった。
舞踏会当日。ヴァレンタイン城には大勢の招待客が集まり、男たちはこぞって、ダンスカードにティファニーの名前を書いていた。ティファニーは、緊張で顔がこわばったクリスティーナとは違い、若い貴族の男たちの申し込みを受け入れた。もちろん、決してリズミカルなステップではなかったが、ティファニーは楽しそうに踊り、舞踏会を満喫していた。
だが、その一方で、壁際に立っていたクリスティーナは、そんな彼女の姿に熱い視線を向けていた。
(どうして私じゃないんだろう?)
クリスティーナは、ティファニーと踊っている男が羨ましくて仕方なかった。
(自分が男なら、ティファニーをもっと上手くリード出来るのに)
クリスティーナが歯痒い想いに駆られているうちに、初めての舞踏会はあっという間に終わってしまった。舞踏会が終わった後、踊り疲れたティファニーは、部屋に戻ると、すぐに眠ってしまった。クリスティーナも、ネグリジェに着替えて、ティファニーの向かい側の部屋に戻って行った。
(もう、みんな寝たよね)
しばらくすると、クリスティーナは突然ベッドから起き上がり、ベッドの下に隠していた茶色のトランクを取り出した。彼女がトランクをベッドの上に置いて開けると、中にはディナー・ジャケットが入っていた。クリスティーナは、すぐにネグリジェを脱いで、ディナー・ジャケットに着替えた。そして、鏡の前に立って、髪を一つに束ねる。
「やっぱり、この格好の方がしっくりするな」
男装をしている時は、基本的に部屋から一歩も出ることはなかった。誰かに見つかれば、面倒なことになってしまうからだ。しかし、このヴァレンタイン城には、ダンスホールがある。このディナー・ジャケットを着てティファニーと一緒に踊りたいという叶わぬ夢を抱いていたクリスティーナは、この城に来てから、夜な夜なダンスホールで一人、練習に励んでいたのである。
(イギリスの屋敷よりもずっと使用人の数は少ないし、ポールから昔聞いた地下の隠し通路を通れば見つかることはないだろう)
クリスティーナは、密かに部屋を出た後、周囲に警戒しながらも、一階の大広間を目指して、薔薇の回廊を歩いていた。すると、運が悪いことに、前方からランタンを持ったポールと遭遇してしまう。
「お前は……」
「ポール、どうしてこんなところに」
激しく動揺するクリスティーナをよそに、ポールは、不敵な笑みを浮かべながら、男装したクリスティーナを舐めるように見ていた。
「クリスティーナ。何をしているんだ、そんな格好をして」
「ポール」
「まさか、男装の趣味があるなんて。これは驚いたな」
「お願い、ポール。このことは……」
ポールに告げ口されるのを恐れたクリスティーナは、彼に懇願した。
「ああ、分かっているぜ。お前が俺の言うことを素直に聞き入れれば、誰にも告げ口はしないさ」
「えっ?」
「ついて来い。お前に見せたいもんがある」
ポールは、そう言って、クリスティーナを地下の隠し通路に連れて行った。
ポールの案内で、クリスティーナは、玉座の間に足を踏み入れた。
「ここは?」
「玉座の間だ」
「玉座の間?」
クリスティーナが燦然と輝くシャンデリアを見上げると、ポールはレッドカーペットの上を歩いて、玉座の前で立ち止まった。
「ねぇ、ポール、この人って……」
玉座に座る中年の男の死体を目にしたクリスティーナは、言葉を失ってしまう。
「ジェノバだ」
「ジェノバって、私の……」
「そうだ。お前の親父だ」
「これがお父様」
クリスティーナは、変わり果てた父親との突然の再会に困惑してしまう。
「どうして、こんなところにいるの?」
「俺が、女と一緒に逃げようとしたジェノバを捕まえて、この城の地下牢獄に十年間閉じ込めていたんだ。そして、娘の社交デビューの日にめでたく、あの世に送ってやったのさ」
「ポールが、お父様を殺したの?」
「ああ。俺がお前の代わりに、始末してやったんだぜ。ちゃんと感謝しろよ」
ポールは、ジェノバの髪を掴んで、頭を揺らしながら、ニタニタと微笑んだ。
「僕は、そのお礼に何をすればいいの?」
「お前がジェノバになって、こいつの純潔を証明するんだ」
「純潔を?」
ポールは、ジェノバの髪から手を離して、玉座のそばから離れた。
「お前は、自分と母親を捨てた親父を死ぬほど憎んでいるんだろう?」
すると、クリスティーナは、拳を強く握りしめて、ジェノバの亡骸を睨みつける。
「言っておくが、お前が憎むべき相手は、親父じゃねぇ。社交界に蔓延る卑しき女たちだ」
「どういうこと?」
「ジェノバは、享楽に溺れた女たちによって人生を狂わされちまったのさ。ふしだらな女たちに心も体も汚された挙句、愛する娘にまで恨まれてしまうなんて。ああ、なんて可哀想なジェノバ」
ポールは、サイドテーブルに置かれた花瓶から一輪の白百合を手に取り、その匂いを嗅いだ後、クリスティーナの方を振り返った。
「お前の親父を狂わせた淫乱な女どもを、お前の手で消してくれ」
「それって、僕が始末しろってこと?」
「そうだ」
「でっ、出来ないよ! そんな人を殺すなんて」
クリスティーナは激しく首を左右に振って、怯んでしまう。
「じゃあ、ジョージにバラすぞ。お前が、ティファニーに淫らな感情を抱いていると」
ポールはそう言って、白百合の花を床に落とし、足で踏み潰した後、再び玉座の方に向かった。
「なっ」
クリスティーナは、言葉を失う。
「知っているぞ。お前がティファニーを心の底から欲しがっていることを」
「どうして、それを……」
ポールは、すでにクリスティーナの気持ちを見透かしていた。クリスティーナは頬を染めて、彼から目を逸らしてしまう。
「俺は、お前のことなら何でも知っているぜ。夜な夜な男装をして、ダンスホールに向かい、一人でダンスの練習をしていることも。そして、ティファニーと踊った男たちに、二度と彼女に近づくなと脅しの手紙を密かに書いていることもな」
ポールはそう言って、クリスティーナが書いた手紙を上着のポケットの中から取り出した。
「僕のことを色々と嗅ぎ回っていたのか?」
「嗅ぎ回らなくても、すぐに分かるさ。ティファニーを見ている時のお前は、いつも余裕のない表情を浮かべているぜ」
「……」
「ティファニーを他の男に取られるのが怖いんだろ?」
「……それは」
「何かを得るためには、犠牲が付き物だぜ、クリスティーナ」
ポールは、ジェノバの胸に突き刺さった短剣を引き抜いた後、クリスティーナの方に向かって、歩み出した。
「ティファニーを自分のものにしたいなら、まずは自分自身を変えるんだ」
ポールはそう言って、クリスティーナに血が滴り落ちる短剣を差し出すと、彼女は一瞬、躊躇った。
(ティファニーの気持ちを僕に振り向かせるためには、僕自身が変わらないといけないってことか)
ようやく決心がついたクリスティーナは、ポールから短剣を受け取った。
「交渉成立だな」
クリスティーナは、本気でティファニーだけの王子様になりたいと願っていた。心から愛した女を誰にも渡したくはなかった。だが、自分が、ティファニーを愛し、男装していることも知られたくなかった。もし、ティファニーが、自分の想いを知れば、絶対に嫌われてしまうだろう。そうなってしまったら、生きることに意味など見出だせなくなる。彼女に嫌われた先に待ち受けているのは、深い絶望と喪失感だけ。
ティファニーと今まで通りの関係を続けるには、なんとしても、この想いを隠し通さなくてはならない。だから、クリスティーナは、ポールの駒となることを選んだのだ。
この日を境に、クリスティーナは、自らをジェノバと名乗り、鮮烈な社交界デビューを果たしたのである。ヴァレンタイン城の仮面舞踏会に突然現れた、正体不明の美貌の王子様に、令嬢たちは熱狂した。だが、この熱狂も、ポールと共謀して、クロードの財産を狙うアイラに仕組まれたものであった。
アイラは、自らが主催するサロンで、若さと美貌を追求する夫人たちに、ジェノバという王子様に抱かれた者は、永遠の若さを手に入れることが出来るという噂を流した。もちろん、最初は、こんな作り話のような噂を信じる女たちはいなかった。とはいえ、アイラとポールにとって、彼女たちの懐疑的な反応はすでに想定内であった。
ここでアイラは、サロンに夫人たちを集めて、二十年前に描かれた黄金の蝶のアイマスクをつけて、若い娘とダンスを楽しむジェノバ・ヴァレンタイン伯爵の肖像画を彼女たちに見せた。すると、女たちは互いの顔を見合わせて、騒然としてしまう。なぜなら、仮面舞踏会で見かけるジェノバが、肖像画に描かれた男とほぼ変わらぬ若さと美しさを保っていたからだ。
やはり、ジェノバにまつわる噂は本当なのかもしれない。飽くなき美と若さを求める女たちは、こぞってジェノバのパートナーを名乗り出た。ジェノバが、ダンスホールに現れただけで、女たちは自ら歩み寄り、彼に甘い囁きをしながら誘惑した。彼女にとって、それは苦痛でしかなかった。というのも、その中にジェノバの愛する女がいなかったからだ。
「あなたと一緒に、ワインを飲めて、光栄だわ」
アイラは、夜のアポロンの間で、ワインを飲んでいた。その様子を、向かい側に座っていた、ジェノバは、黙って見つめていた。教養も身分もない、貧しい田舎育ちの女は、社交界での絶対的な権力を欲しがっていた。彼は、この女が嫌いだった。
アイラと話すたびに、殺意が湧いてしまう。
「あなたのおかげで、私の仮面舞踏会は、とても賑やかよ」
「それで、僕に一体、何をして欲しいんだい?」
ジェノバは、足を組んで、仮面越しから、アイラを見据える。
「女が少し増えすぎたわ。駆除してちょうだい」
「どんな女を殺して欲しい?」
「そうねぇ。私よりも、若くて綺麗な女かしら」
アイラは、自分よりも若くて美しい貴族の娘たちを毛嫌いしていた。
「その中に、純潔の娘は含まれているのか?」
「もちろん」
「契約違反だ。僕は、デビュタントは殺さない」
すると、アイラは、不敵な笑みを浮かべた。
「そう。だったら、言っちゃうわよ、ティファニーに……」
ジェノバの背筋に冷たい汗が滲み出た。
「知っているのか、僕の正体を……」
「あなたは、ポールだけでなく、私の手の内の中にいることを忘れないでね」
この時、ジェノバは、アイラを殺すことを決意した。
ジェノバは、彼女に言われた通り、男性関係の激しい夫人や自分の正体を探ろうとする、若い娘たちを見つけたら、すぐに報告した。
すると、アイラは、そういった快楽に溺れた女たちをサロンに次々と勧誘し、仮面舞踏会が開催されるたびに、順番に殺害していった。だが、ポールは、より効率的に女たちを殺すために、サロンの中から最も信頼がおける女たちを選び出し、犯行の手助けをさせたのである。
クリスティーナが、アイラやポールの指示通り、女たちを殺していくたびに、自分が思い描いていた王子様のイメージから遠ざかっていった。こんなことをして、本当に天国にいる父は喜ぶのだろうか。そして、ジェノバに熱狂する彼女たちを殺してゆけば、本当に自分はティファニーだけの王子様になれるのか。殺した女のそばに、純潔の象徴である、白百合を供えるたびに、頭の中が混乱してゆく。
ティファニーは、ジェノバに対して、関心を示していなかった。むしろ、恐怖の対象になっていたのだ。クリスティーナが、ティファニーが求める王子様とは程遠い存在になっているのではないかと、思い始めた時には、すでに何もかも手遅れとなっていた。
ベッドに座っていたクリスティーナは、太ももの上で拳を握り締める。
「そして僕はお父様が書き残した日記を読んだ時、今まで聞かされていた話が全てポールの作り話だということを知ってしまったんだ。お父様は女と一緒に失踪したんじゃない。ポールの一方的な嫉妬によって、拉致され、長い間監禁された挙句、虐殺されてしまった」
クリスティーナは、目に涙を浮かべて、声を震わせる。
「僕がやっていたことは、純潔を守るための正義ではなく、ただの殺人だったんだ」
全てを語り終えたクリスティーナは、ベッドの上で上半身を起こしたケスバラレイムにある質問をする。
「ねぇ、マダム。どうして僕がジェノバだと分かったんだい?」
「あなたが、クリスティーナの姿で一度も男と踊ったことがないからよ。というより、踊れなかったというのが正しい表現ね。リーダー同士が踊れば、互いのステップは崩れてしまうわ。ジェノバとして社交界でリーダーを務めることが圧倒的に多かったあなたは、パートナーのステップに慣れていないでしょうから、まともに男となんて踊れるはずはないわよ」
「そう。マダムの言う通り、僕は男とワルツやポルカなんて踊れない。体にリーダーの動きが染み付いてしまっているんだ。女である僕が、公の場でリーダーを務めているなんて、社交界ではきっと僕くらいだからね」
クリスティーナが苦笑すると、クロバラメイムは彼女にポールの行方を尋ねた。
「ところでクリスティーナ。ポールは、今、どこにいるんだ?」
「ポールは、僕が倒したよ」
クリスティーナが、二の腕の傷口を手で摩りながら告白すると、クロードは驚愕した。
「まさか、ポールまで殺めたのか」
「ポールは死んだということか?」
「ポールの亡骸は、玉座の間にある」
「玉座の間って、確かあなたのお父様の亡骸が見つかったお部屋よね?」
「そう」
「たとえ死んでいようと、やつは紛れもない殺人犯だ。すぐに玉座の間に向かい、ポール・ヴァレンタインの遺体を回収しろ」
「はっ!」
エルヴィスは、扉のそばで待機していた二人のポリスたちに命令すると、クリスティーナは彼に声をかけた。
「ねぇ、刑事さん」
「ん? なんだ?」
「最後に一つだけ、お願いがあるんだ」
「お願い?」
クロバラメイムとエルヴィスが、ダンスホールの扉を開けると、ダンスホールの中央にシフォンの飾りが付いた、華やかなピンク色のドレスを着たティファニーが立っていた。
ダンスホールに足を踏み入れたクリスティーナは、ティファニーの前で立ち止まり、彼女に手を差し伸べる。
「レディ、僕と一緒に踊ってはくれませんか?」
すると、ティファニーは、にっこりと嬉しそうに微笑みながら、返事をした。
「ええ、もちろん」
クリスティーナが、ティファニーの腰に手を当てて、ステップを踏み始めると、オーケストラの演奏が始まった。ティファニーとクリスティーナは、ワルトトイフェルの『スケーターズ・ワルツ』に合わせて、ゆっくりと踊り出す。二人のステップは、まるで呼応するかのように、息が合っていた。クリスティーナは、体の重心を巧みに変えて、ティファニーをリードしてゆく。ティファニーは、クリスティーナに身を任せながら、体を緩やかにしならせる。こんなに一体感を感じられる心地よいダンスは、ティファニーにとって初めてであった。そして、このかけがえのない時間は、一生で一度きりしか味わえないだろうと、直感的に思った。
(このまま時間が止まればいいのに)
ティファニーがそう願った瞬間、クリスティーナの背後から銃声が鳴り響いた。
「クリスティーナ!」
コントラ・チェックを決めようとしたクリスティーナは、背中を撃たれ、その場に倒れてしまう。ティファニーが、彼女の名を叫ぶと、楽団の演奏家たちは演奏を止めてしまい、互いの顔を見合わせながら、不測の事態に動揺してしまう。
ポールは、拳銃を握りしめたまま、その場に崩れ落ちた。彼の腹部は、すでに真っ赤な血に染まっていた。
「へっ、こっ、これで……はぁっ、はぁっ、いっ、痛み分け……だな……」
「ポール・ヴァレンタイン!」
「生きていたのか!?」
エルヴィスとクロバラメイムが慌てて、出入り口の扉に寄りかかり、息絶えたポールの方を振り向いた。そして、すぐに駆け寄ると、ティファニーは傷口から血が滲み出すクリスティーナを抱き起こす。
「クリスティーナ! しっかりして、クリスティーナ!」
ティファニーは、涙を流しながら、意識が遠のいてゆくクリスティーナに何度も呼びかける。クリスティーナは、喉の奥から搾り出すように、小さな声を出して、彼女への愛の言葉を囁いた。
「ティ……ファニー……あっ、愛……してる」
クリスティーナはそのままティファニーの頬に手を触れた。
「クリスティーナ! 私も――私も愛してるわ! あなたは、世界でたった一人の私だけの王子様よ!」
ティファニーがクリスティーナの手を握りしめると、彼は目に涙を滲ませながら、嬉しそうに微笑んだ後、ゆっくりと瞼を閉じてゆく。
「クリスティーナ……あああああぁっ!」
壁際に立っていたケスバラレイムは、ティファニーがクリスティーナの亡骸を抱きしめながら、泣き咽ぶ姿を、なぜか嬉しそうな微笑みを浮かべて、見ていた。
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