第14話 日記
あの凄惨な連続殺人事件が起こった仮面舞踏会が終わってから二日が経過した。ヴァレンタイン城では、ポリスたちが昼夜を問わず、城の中を巡回し、厳しい警備態勢が続いていた。そんな緊張感が漂う中、ドクターニーチェによる検死の結果が記された書類を手に持ったエルヴィスが、足早に応接室に入って行った。
「あら、刑事さんじゃない。いらっしゃい」
優雅にローズティーを味わいながら、ソファで寛いでいたケスバラレイムは、手を軽く振って、エルヴィスを出迎える。だが、ケスバラレイムとクロバラメイムのバラの体臭が充満した室内に足を踏み入れた瞬間、エルヴィスは思わず咽せてしまった。
「ゲホッ、ゲホッ。ふっ、二人とも、ここにいたか」
「待ちくたびれちゃったわ、刑事さん。ほらっ、クロバラメイムもすっかりご機嫌斜め」
ケスバラレイムはそう言って、ブラック・ローズティーを飲むクロバラメイムを指差す。
「機嫌が悪いのは、先生のせいでしょう。さっきからティファニーのことで僕を揶揄い続けるから」
「ティファニーさんのことで何かあったのか?」
「そんなところに突っ立っていないで、早くお座りになって、刑事さん」
「あっ、ああ」
エルヴィスは、ぎこちない返事をした後、クロバラメイムが座る二人掛けのソファに腰を下ろし、封筒の中から分厚い書類を取り出して、ケスバラレイムに渡した。すると、ケスバラレイムは感心した様子で、書類に目を通す。
「さすが、ドクターニーチェ。法医学がまだまだ未熟な時代なのに、あらゆる角度から細かく死因や体の特徴について調べ上げられているわ。おそらく欧州のどこを探しても、彼を超える解剖医はいないでしょうね」
「やはり、クロバラメイムの予想通り、ビアンカ・カメリーノはジェノバと手を組んでいた可能性が高い。エルンスト夫人を殺害するための時間稼ぎをするために、お前の前に現れ、逃走劇を繰り広げたんだ」
「つまり、僕とビアンカさんはその時間稼ぎに利用されたというわけですね」
クロバラメイムは悔しさを滲ませながら、太ももの上で拳を握り締める。
「あら、イザベルさんって妊娠していたの?」
「ああ、そこに書いてあるように、エルンスト夫人は身籠っていたんだが、夫のシュタインさんに確認したところ、ここ最近はエルンスト夫人の度重なる不倫のせいで夫婦仲はかなり冷めていたらしい」
「なるほど。ということは」
「他の男との間に出来た可能性が高いですね」
「まぁ、そういうことになるな」
「エルンスト夫人のお腹を突き刺したということは、もしかしたら、ジェノバも被害者の妊娠を知っていたということですよね。ということは、やはり……」
クロバラメイムは息を呑んで、エルヴィスに目を向ける。
「ジェノバとの間に出来た子どもであるとも考えられる」
しかし、ケスバラレイムは二人の見解を否定する。
「でも、ジェノバが必ずしも男であるとは限らないわ。実際、あなたが見たジェノバだって、男装したビアンカさんだったじゃない」
「まぁ、それはそうですけど」
「それにこれまで私たちが目撃したジェノバって、亡くなった被害者たちが変装していた可能性だってあり得るわ。実際、本物のジェノバ・ヴァレンタイン伯爵はずっと前に殺されているわけなんだから」
「ヴァレンタイン伯爵の殺害を実行した犯人が、サロンを出入りしているご夫人たちに命じて犯行を繰り返していたとしたら、マドレーヌ・ブルドンも例外ではないぞ」
「実際、マドレーヌさんが愛用している香水瓶が落ちていましたからね」
「彼女は今、どこにいるのかしら?」
「この城の客室に軟禁している」
「軟禁? でも、まだ犯人であると決まったわけでは」
「ブルドン嬢の香水瓶が、エルンスト夫人のそばに落ちていただけでも十分な証拠になる。それに、彼女にはアリバイがない。俺の指示を無視して、姿をくらました上に、どこで何をしていたのかも、はっきりしていない。ジェノバと繋がっている疑いがあるなら、なおさらこの城から出すわけにはいかないだろう」
「そんな」
ケスバラレイムは、テーブルの上に書類を置いて、ローズティーを一口飲んだ。
「刑事さん、彼女に少し会ってもいいかしら?」
「別に構わない。ただし、事件のせいで彼女の精神状態はやや不安定だ。刺激的な言葉は控えた方がいい」
「分かったわ」
「それでは、俺はこれで失礼する」
「あら、もう帰っちゃうの?」
ケスバラレイムは寂しそうな目で、ソファから立ち上がったエルヴィスを見つめる。
「明日、この城で行われるマドレーヌ・ブルドンの尋問に向けて、色々と証拠品を揃えて、準備をしなくてはならないんだ」
「相変わらず、忙しいのね」
「ああ。なかなか女と遊ぶ暇もない」
エルヴィスは冗談を言った後、書類を手に持って、応接室を出て行ったのであった。
清らかに澄み切った青空が広がる午後、ハンタースーツを着たクリスティーナが馬屋に向かう途中、幻想の回廊でティファニーに呼び止められた。
「クリスティーナ」
ティファニーが呼び止めると、クリスティーナは少し躊躇いながらも、ゆっくりと振り向いた。ティファニーは、どんな顔をすれば良いのか分からず、ぎこちない笑みを浮かべて、クリスティーナに近づく。この時、二人は、あの出来事以来、初めて顔を合わせたので、どこか気まずい雰囲気が漂っていた。
「あの……この前は、ごめんなさい」
「なんで謝るの?」
「だって、その、誤解されたら困るし」
「誤解?」
クリスティーナには、ティファニーの謝罪の意味がよく分からなかった。
「言っておくけど、私、クロバラメイムとそういう仲じゃないからね」
「そういう仲って、どういう意味?」
「だから、クリスティーナの好きな人、横取りなんてしていないってこと!」
クリスティーナは、ティファニーの言葉に唖然としてしまう。
「はぁっ? 私があのバラ臭い男に興味があると思ってんの?」
「もう、変な意地張っちゃって」
だが、ティファニーは未だに、クリスティーナがクロバラメイムに気があると思い込んでいたのである。
「あのね、ティファニー。私は」
「お祖父様にあとで言っておくわ。クリスティーナに好きな人が出来たって」
「えっ、ちょっと、ティファニー!」
「上手くいけば、今回の縁談の話、なくなるかもしれないわ!」
クリスティーナは、慌ててティファニーを引き止めたが、彼女はそそくさと行ってしまった。
「はぁ、なんでこういう展開になるの?」
クリスティーナは、思わず頭を抱えてしまった。
マドレーヌが軟禁されている客室の前には、二人のポリスが立っていた。ケスバラレイムは、ポリスにエルヴィスから許可をもらっていることを伝えると、少しの間だけ面会を許された。ケスバラレイムが扉をノックすると、室内からマドレーヌの力ない声が聞こえてきた。
「入るわよ」
ケスバラレイムが入室すると、窓際に立っていたマドレーヌは警戒した様子で、彼女を見据えていた。マドレーヌは疲れと緊張のせいで、少し頬がこけて、やつれていた。
「あなたは探偵の……」
「ケスバラレイムと呼んでちょうだい」
ケスバラレイムは、にこりと笑う。
「何しに来たんですか?」
「こんなところに一人で居ても退屈でしょうから、少しおしゃべりでもして気分転換でもしません?」
「今は、誰とも喋りたくないわ」
精神的にも追い詰められていたマドレーヌは、ケスバラレイムを完全に拒絶していた。そんな彼女に、ケスバラレイムはある人物の名を言った。
「シュタインとも?」
「えっ」
「入ってちょうだい」
ケスバラレイムがフィンガースナップをすると、扉が開いた。そこにはシュタインとクロバラメイムが立っていた。
「シュタイン、どうして?」
マドレーヌは目を大きく見開いた。
「彼がいれば、もっと気軽にお話し出来るんじゃないかと思ってね」
「マドレーヌ」
シュタインに名前を呼ばれた瞬間、ひどく動揺したマドレーヌは、思わず彼から目を逸らしてしまう。
「ごめんなさい、私」
マドレーヌは、いつものように化粧や美しいドレスで着飾っていない自分の姿を、シュタインに見られているのがたまらなく恥ずかしかった。しかし、その一方で、思いの外、元気そうなマドレーヌを見て、シュタインは安堵していた。
「さぁ、こんなところに突っ立っていないで、一緒にお茶でも飲みましょう」
ケスバラレイムがそう言うと、イタリア製のキッチンワゴンを押したメイドが室内に入ってきた。
ケスバラレイムたちがマドレーヌと面会していた頃、アポロンの間には、ポールと一緒に焼け酒を飲む、ガブリエルの姿があった。
「ほら、もっと飲め」
ポールは、酔いが回ってきたガブリエルのグラスにウィスキーを注ぐ。
「うっうう……」
自分よりクロバラメイムを選んだティファニーのことを思い出し、顔を両手で覆い、泣き腫らしていたのである。
「別にティファニーにこだわらなくてもいいじゃねぇか。女なんて酒場に行けば、いくらでもいるぜ」
ガブリエルは、一気にグラスに入ったウィスキーを飲み干した後、勢いよくバーカウンターの上に置いた。
「ぷはぁっ! 悔しい、僕は悔しいよ。あんなバラ臭い男にティファニーの愛を取られてしまうなんてぇぇっ!」
ガブリエルは悔し涙を浮かべて叫んだ後、そのままぐったりと酔い潰れてしまった。
「相変わらず、やかましい青年だな、君は……」
窓際の一人掛けのソファに座り、新聞を読むドクターニーチェが呆れた様子で言った。
「そういや、あの馬鹿女の腹の中はどうなってた?」
ポールの質問を聞いたドクターニーチェは、ニヤリと不敵な笑みを浮かべて、彼の方に目を向けた。
「君の予想通り、胎児の亡骸が出てきたよ」
「へっ、どうせ父親はシュタインじゃねぇんだろ?」
「もしかしたら、父親はジェノバかもしれないよ」
「はははっ! もしそれが本当だったら、今頃、あの馬鹿女もあの世で大喜びだな」
ポールはグラスを軽く揺らした後、ウィスキーを一気に飲み干した。
ケスバラレイムが、大好きなローズティーを味わっていると、シュタインは、思い詰めた表情を浮かべて、向かい側の二人掛けのソファに座るマドレーヌを見つめていた。だが、その一方でマドレーヌは、シュタインに会ったせいか、先程のような感情の乱れはなくなり、すっかり落ち着き払っていた。
「こんな時に、いきなり君の部屋に押しかけてすまない」
シュタインが謝罪をすると、マドレーヌは慌てて首を横に振る。
「謝らないで、シュタイン。まさか、あなたが来てくれるなんて、私、夢にも思わなかったから、つい驚いてしまっただけ」
「明日、ロックフェラー警部から尋問があると聞いて、君のことが心配でたまらなくなってしまったんだ」
すると、マドレーヌは無理矢理笑顔を作って、シュタインにこう言った。
「私の心配より、あなたの可愛い子どもたちのことを心配してあげて」
「マドレーヌ。君は、なんて強い女性なんだ」
シュタインが感銘していると、彼の隣に座っていたクロバラメイムが口を開く。
「マドレーヌさん。すでに分かっているとは思いますが、警察は、あなたのことを疑っています。もし明日、先日の仮面舞踏会でのアリバイを証明することが出来なければ、あなたを連続殺人事件の実行犯として逮捕するつもりです」
クロバラメイムの話を聞いていたマドレーヌは、ますます顔をこわばらせてゆく。
「何か思い当たることがあれば、遠慮なく言った方がいいわ」
「あの……やっぱり、皆さんは、私のことを犯人だと疑っているんですよね?」
「現時点ではなんとも言えないわ。ただ一つ言えることは、ジェノバが以前から、サロンに出入りしていた、あなたを目につけていたはずよ。今回の事件で、ジェノバはあなたに牙を向けた。そして、どんな手を使ってでも、あなたを連続殺人事件の犯人に仕立て上げるつもりでしょうね」
「そんな……」
マドレーヌはひどく落胆した。
「マドレーヌ。僕は、君が無実だと信じている。たとえ、どんなことがあっても、僕は最後まで君の味方でいたい」
すると、マドレーヌは目に涙を浮かべて、シュタインを真っ直ぐ見つめる。
「シュタイン」
マドレーヌは、シュタインの言葉を聞いて、思わず胸が熱くなってしまった。
夕方になると、空に分厚い雲が広がり、にわか雨が降って来た。ハンティングを中断して、急いで城に戻ったクリスティーナは、衣裳部屋でずぶ濡れになったハンタースーツを脱いで、紺色のツーピース・ドレスに着替えた。そして、愛用のライフルを手に持って、自分の部屋に向かった。
白を基調にした壁に囲まれた清潔感が漂う室内に、足を踏み入れたクリスティーナが、オーク材で出来たミラーバックサイドボードの上に、ライフルを置こうとした時、鏡の前に古びた日記帳が置かれていることに気づく。
「これは?」
誰かが自分の許可なしに、部屋の中に侵入したのだろうか。不気味に思ったクリスティーナはライフルを置いた後、周囲を見渡してみた。耳を澄ませてみたが、何の気配もない。
(どうやら、この部屋には私しかいないみたいだけど)
クリスティーナは、目の前に不自然に置かれた日記帳が気になって仕方なかった。彼女は、周囲に警戒しながらも、おそるおそる日記帳に手を触れて、ページをパラパラとめくってみた。すると、日記を読み進めてゆくうちに、彼女の顔色が一気に変わる。
「そんな……私はずっと騙されていたの」
日記を読み終えたクリスティーナは、鏡に写る自分の顔を見据えた。そのエメラルドの瞳には、激しい憎しみと復讐心が満ちていた。
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