第10話 恋に翻弄された者
外が重苦しい闇に包まれると、エルヴィスが、第一発見者のクロバラメイムから知らせを受けて、急いでミイラ化した男が発見された隠し部屋に駆けつけた。そして、現場検証の前に、クロードとカーティスを呼び出した。すると、隠し部屋に足を踏み入れたクロードは、玉座の前に近づき、ミイラ化した男の手を握りしめ、泣き崩れてしまった。
「ああ、ジェノバ! 我が愛する息子よ! なんて変わり果てた姿になってしまったのだ!」
「旦那様」
クロードのそばに立っていたカーティスは、主人の悲しむ姿を見て、感極まり、目に涙を浮かべていた。
「ジェノバ? これが……」
クロバラメイムには、この死体があの社交界のプリンスだと信じられなかった。
「ヴァレンタイン侯爵、この方が、ジェノバ・ヴァレンタイン伯爵でお間違いないのですね?」
エルヴィスが、クロードに身元の確認を行うと、彼は素直に頷いた。
「ああ、間違いない。この深い堀に、首筋に出来た痣、そして、ヴァレンタイン家の紋章が刻印されたシルバーリング。間違いなく、この子は、私の愛する息子だ。ううっ、う……」
クロードが、再び咽び泣くと、真っ赤なバッスルスタイルのドレスを着た女が出入り口に立っていた。
「そして、クリスティーナの父親でもあるんでしょう? ヴァレンタイン侯爵」
「マダム」
突然現れたケスバラレイムの言葉に、クロバラメイムは驚愕してしまう。
「クリスティーナの?」
「いかにも。ジェノバはクリスティーナの父親だ」
クロードはそう言って、ジェノバの干からびた顔を見つめる。
「旦那様。やはり一連の事件を引き起こしていたのは、ジェノバ様の亡霊なのではないでしょうか」
この城にまつわる迷信や伝説を信じ込んでいたカーティスは、恐怖で顔を引き攣っていた。
「カーティス! くだらない憶測は慎みなさい!」
「しかし、ジェノバ様は、舞踏会で何度も目撃されておりますし、実際、数々の御夫人方と踊っておられたのですよ!」
「そういえば、先生もジェノバと思われる男と一緒に踊っていましたよね?」
「でも、あのジェノバが、この玉座に座る男であるという確証はどこにもないわ。彼は随分前に死んだ故人よ。物理的に、舞踏会に参加して、私と踊るなんて不可能よ」
「確かに。何者かがジェノバを装って、犯行を繰り返していたと仮定した方が説得力はあるが、では一体何のために、ジェノバに変装していたのか。疑問が残るな」
エルヴィスは、険しい表情を浮かべて言った。
「そういえば、あなたが持っているスケッチブック。ロドリゴのものじゃない?」
「クロバラメイム。どうしたんだ、それは?」
「この玉座のそばに落ちていたんですよ」
クロバラメイムはそう言って、スケッチブックのページをめくって、ケスバラレイムとエルヴィスたちに犯人が書いたと思われるメッセージを見せる。
「なんだ、これは? 犯人からのメッセージか?」
「ええ、これを見てください」
ケスバラレイムは、そのメッセージを声に出して、読んでみた。
「王子様は汚れてしまった。ふしだらな女たちの手によって。今こそ、王子様が失った純潔を取り返さなければならない。王子様って、ひょっとしてジェノバのことかしら?」
「おそらく」
「ティファニーから聞いたけど、生前のジェノバって、愛人と駆け落ちしたんでしょう」
「ケスバラレイムさん。ティファニーからジェノバのことを聞いたのですか?」
クロードは、ケスバラレイムの方を振り返る。
「ええ。ちょっとだけね」
「そうですか」
クロードはそう言って、思い詰めた表情を浮かべ、再びジェノバの死体に目を向ける。
「クロバラメイム。そのスケッチブックには、他に何も書かれていないのか?」
「ええ。この他のページは、ざっと見た感じでは白紙ですね」
「そうか」
「ねぇ、ヴァレンタイン侯爵」
「何でしょうか?」
「このライフル、お借りしてもいいかしら?」
ケスバラレイムは、深緑色の壁にかけられたライフルを手に取る。
「ええ、そんな古いライフルで良ければ、どうぞ」
「ありがとう」
「ケスバラレイム様、そんな物騒なものを使って何をなさるのですか?」
カーティスが不安そうな顔をして尋ねると、ケスバラレイムはニヤリと笑って、銃口をジェノバの死体に向けた。
「先生?」
「ちょっとね、どうしても仕留めなければならない獲物がいるのよ」
大広間には、クリスティーナがいた。彼女が座る長テーブルには、夕食の青海亀のコンソメスープが置かれていた。しかし、縁談の話のせいで、食欲が全くなかったクリスティーナは、思い詰めた表情を浮かべたまま、目の前の料理に手をつけようとしなかった。大広間の窓際に置かれた古時計の針が規則正しく動く音と暖炉で燃える薪のパチパチという音が妙に響いていた。
「あっ! クリスティーナ、そこにいたのね」
ティファニーが息を荒らげながら、大広間の扉を開けて、クリスティーナの前に突然現れた。
「ティファニー、どうしたの? そんなに慌てて」
「さっきガブリエルから聞いたんだけど、ジェノバ叔父様のご遺体が、地下にある隠し部屋から発見されたんですって」
その知らせを聞いた瞬間、クリスティーナは、目を大きく見開いた。
「えっ? お父様の遺体が……」
ティファニーは、彼女に駆け寄り、ジェノバの潔白を訴えた。
「ねぇ! やっぱり駆け落ちしたなんて嘘なんじゃない? あの優しいジェノバ叔父様が、クリスティーナを捨てるなんて有り得ないわ」
クリスティーナは恨みに満ちた眼差しで、ティファニーを見据える。
「ティファニー。それ、本気で言っているの?」
「えっ?」
二人の間に、重苦しい沈黙が流れた。
「ごめん、少し一人にさせて。心の整理がついていないから」
クリスティーナは席を立ち上がり、扉の方に向かって歩み出した。
「あっ、ごめんなさい。私」
「いいよ、ティファニー。お父様のこと、知らせてくれてありがとう」
クリスティーナは、無理矢理笑顔を作って、ティファニーの前から立ち去った。
「クリスティーナ」
クリスティーナの後ろ姿を見届けた後、一人、大広間に取り残されたティファニーは、彼女が自分を捨てた実の父親をひどく憎んでいることを改めて痛感したのであった。
雷が夜の闇を引き裂くように轟いた後、叩きつけるような激しい雨が降り出した。薄暗いポールの部屋には、脱ぎ捨てられた服が散乱していた。裸のポールは、荒々しい雷の音を聞きながら、ベッドの上で煙草を吸っていた。彼の隣には、同じく生まれたままの姿のマドレーヌが横たわっていた。まだ意識はあるが、一言も喋ろうとせずに、虚な目でベッドのそばに置かれた白百合の花瓶を見つめていた。
「ジェノバはな、俺が欲しいもんを全部持っていたんだ」
ポールが煙草を燻らせながら、ジェノバのことを語り出した瞬間、彼の右顔半分が雷の光で、暗闇の中から浮かび上がる。
「親父は、いつも本妻との間に生まれたジェノバとジョージを可愛がっていた。妾との間に生まれた俺のことなんて眼中になかった。兄貴たちの教育には力を入れて、俺のことなんて野放しさ。挙句の果てに、親父は俺を散々馬鹿にして、兄貴たちに優越感を抱かせるための見せ物に仕立て上げたのさ」
ポールの頭の中で、幼少期の辛い思い出が蘇っていた。クロードは、ポールを実の息子として正式に認知はしたものの、出来の悪い彼のことをひどく嫌っていた。
「でも、ジェノバだけは親父やジョージと違って、俺と対等に接してくれた、優しい兄貴だった。たとえ腹違いの弟でも、俺のことを可愛がってくれたんだぜ。本当に嬉しかった」
マドレーヌは何も言わずに、ポールの話を聞いていた。
「だけど、社交界デビューを果たした時から、俺たちの関係は変わっていった。ジェノバは、一躍、社交界の花形となり、俺は社交界の嫌われ者となった」
派手な女性関係の代償に、ポールは、舞踏会やサロンに出入りする男たちと度々トラブルを起こすようになっていた。寝取った女を巡って、ロドリゴと殴り合いの喧嘩をしたこともある。クロードと親交のある資産家の令嬢に手を出して、妊娠させてしまったこともあった。激昂したクロードに何度も殴られ、叱られた。しかし、それでもポールは悪びれることもなく、少しでも好みの女がいれば、たとえ既婚者だろうが、そんなことはお構いなしに片っ端から肉体関係を結んでいった。
「恋なんて遊びだと思っていた。だけど、ジュリアに出会った時、それはまやかしだと思った」
ヴァレンタイン城で開催された舞踏会で、ポールは、ジュリア・ド・ヴィルパンというフランスの下級貴族出身の若い娘に一目惚れをした。ジュリアは、聡明で快活な芯の強い女だった。ポールは、彼女に熱烈なアピールをした。
「初めて本気で愛した女だった。こいつだけは、生涯をかけて、守り抜いていこうと決めたんだ」
当時、ジェノバは若い娘たちの憧れの存在であった。ヴァレンタイン城の次期当主として、社交界ではいつも注目の的であった。ほとんどの女は、その莫大な資産と社会的なステータスのために彼に近づいていた。だが、一部の女たちは、資産よりもジェノバの愛を熱望していたのだ。その中には、もちろん、ポールが愛した女も含まれていたのである。
「それで、あなたの恋はどうなったの?」
マドレーヌはようやく口を開き、ポールの恋の行方を尋ねる。
「ジュリアは、俺ではなくジェノバを選んだ。そして、二人はまもなくして結婚した。だが、俺は当然、二人の結婚を心の底から祝福することは出来なかった。あんなに腐るほど女たちに囲まれていたのに、よりによって俺が愛した女と結婚したジェノバをどうしても許せなかった。このままじゃ、俺の恨みは晴れねぇ。だから、俺は誓ったんだ。たとえ、どんなに卑怯な手を使ってでも、ジェノバを地獄に突き落としてやろうってな」
ポールは、煙草の煙を吐き出した後、マドレーヌの頭を優しく撫でる。
「俺には、お前の気持ちが痛いほどよく分かるんだ。今のお前は、まさに過去の俺そのもの。だが、安心しろ。あと少しで、その苦しみから解放してやる」
ポールの言葉を聞いても、マドレーヌの瞳にはまだ迷いが溢れていた。
不気味な闇に落ちた真夜中、ティファニーがベッドで寝息を立てて、眠っていると、部屋の扉がゆっくりと開いた。黄金の派手な蝶のアイマスクをしたジェノバが、足音を忍ばせながら、ティファニーのベッドに近づいてゆく。だが、深い眠りについてしまったティファニーが、この侵入者の存在に気づくはずなどなかった。
ジェノバはベッドのそばで立ち止まると、彼女の寝顔を見下ろした。
「ああ、ティファニー」
ジェノバは、彼女の顎に触れ、その柔らかい唇を親指でなぞるようにそっと撫でた。
「いつになったら、僕は君だけの王子様になれるんだい?」
だが、返事は返って来ない。ジェノバは深い溜息をついた後、ティファニーに別れの接吻をして、再び部屋から出て行った。
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