第9話 王子様が失ったもの

 翌日、あいにくの曇り空が広がる中、ヴァレンタイン城のそばにある小さな教会で、アイラの葬儀がしめやかなに行われた。葬儀には、クロードやポール、ティファニー、クリスティーナなどの身内以外にも、エルンスト夫妻やドクターニーチェ、ガブリエル、マドレーヌ、ビアンカなどのサロンのメンバーたちが、光沢のない黒い喪服を着て参列していた。

 そして、アイラの棺が墓地に埋葬されている間、少し距離を置いた場所から、人目を引く真っ赤なデミ・トワレットを着こなすケスバラレイムと黒い喪服を着たクロバラメイム、それにエルヴィスが、その様子を見守っていた。

「まさか、舞踏会以外でも被害者が出るとは思っておりませんでしたよ、先生」

「今の私たちは、犯人の思う壺ね」

 ケスバラレイムは、愛用の赤い薔薇の刺繍が施された扇子を仰ぎながら言った。

「僕たちの爪の甘さを指摘されているような気がして、なんというか、すごくもどかしいです」

 クロバラメイムは、完全にジェノバに踊らされている、この状況にやるせなさを抱いていた。

「次の舞踏会まで、平和に過ごせるといいけどね」

 ケスバラレイムは、にこりと笑う。

「随分と楽しそうだな、マダム」

 エルヴィスが、少し呆れた口調で言うと、コートのポケットの中から一枚の折り畳まれた紙を取り出して、クロバラメイムに手渡した。

「これは?」

 クロバラメイムが、エルヴィスから受け取った紙を開くと、マップらしきものが描かれていた。

(えっ? 何これ? 何かの暗号? それとも前衛作品?)

 何かの呪文だと思ってしまうほどに汚い字とお世辞にも上手いとは言えないマップに、クロバラメイムは、しばしば解釈するのに苦戦してしまう。

「俺が、これまでの調査で集めた情報をもとに作成した、城の地下に広がる隠し通路のマップだ。少々、絵が下手だが、許してほしい」

「一人で調べたの?」

「ああ。地下は想像以上に広くて、何度も迷いかけた」

「ヴァレンタイン侯爵は、地下の隠し通路については把握しているんですか?」

「存在を把握しているだけで、詳しい構造などはよく分かっていない」

「だから、あなたに地下の隠し通路の調査を依頼したのね」

「そういうことだ」

「ロックフェラー警部。これ、いただいてもよろしいのですか?」

「もちろんだ。あの城の地下を探索していた時、ジェノバの痕跡があちこちで見つかった。もし行き詰まっているなら、ここを調べろ。何らかの手がかりが得られるかもしれない」

「ふむ。地下ですか」

 クロバラメイムは、この極めて分かりづらいマップを頼りに、ヴァレンタイン城の地下を重点的に調べることを決める。

「あら、もう行くの?」

「ああ。さすがに連日の捜査に疲れた。俺は一旦、ホテルに戻り、仮眠を取る」

「あっ、ちょっと待ってください、ロックフェラー警部!」

 クロバラメイムは、ホテルに戻ろうと歩み出したエルヴィスを慌てて引き止めた。

「ん?」

「実は昨日、ティファニーが楽屋でジェノバが使っていたローブを見つけたんですよ」

「何? それは本当か?」

「ええ」

「そのローブは今、どこにある?」

「私の部屋のベッドの下に隠してあるわよ」

 ケスバラレイムはそう言って、薄らと唇に笑みを浮かべた。




 アイラの葬儀が終わった後、アポロンの間には、サロンのメンバーが揃っていた。二人掛けのソファに座っていたイザベルは、喪服に合わせた黒い扇子を仰ぎながら、シュタインに寄り添い、仲睦まじい夫婦を演じていた。その様子を向かい側の一人掛けのソファに座るマドレーヌが、悩ましい眼差しで見つめている。そして、バーカウンターの席でウィスキーを飲むポールは、マドレーヌの横顔を見て、ニヤリと唇を歪ませ、密かに心躍らせていた。

 ドクターニーチェは、ビアンカとチェスをしながら、葉巻を吸っていた。

「それにしても、不憫よね。まさか本物の毒林檎を食べて死んでしまうなんて」

 ビアンカがクイーンの駒を動かすと、ドクターニーチェは葉巻を燻らせながら、言った。

「本人も想像すらしていなかっただろう。こんなにあっさりと殺されてしまうとはね」

「やはり、これもジェノバの仕業なのでしょうか?」

 マドレーヌが言うと、ビアンカが扇子を広げて言った。

「もしかしたら、アイラも、ジェノバの正体を知ってしまったのかもしれないわね」

「ジェノバの正体を知った女は、必ず殺される。ここ最近、そんな噂が流れているわね」

「ジェノバの正体か。私も少し興味があるね」

 ホルストは、不敵な笑みを浮かべる。

「彼の目的って、一体何なのでしょうか?」

「ただの快楽犯かもしれないぜ。ジェノバにとって、女なんて、ただの一夜限りの玩具に過ぎねぇんだから」

「じゃあ、ジェノバの正体は大方あんたで確定ね、ポール」

「あっ?」

 ポールは、獣のような目つきで、ビアンカを睨みつける。

「ちょっとビアンカ。ジェノバに失礼よ。彼は、ポールみたいなふしだらな男じゃないわ」

「イザベル。俺とジェノバを比較すんのはやめろ」

 同じ男として、ジェノバに密かに嫉妬を抱いている、ポールが口を尖らせながら言うと、ビリヤードを楽しむガブリエルが、これからのサロンについて言及した。

「そういえば、ポール。このサロンの女王様があの世に旅立ってしまったわけだけど、これから僕たちの活動はどうなるんだい?」

「ふん、俺の知ったことかよ」

 すっかり機嫌を損ねたポールは、頬杖を突いて、ウィスキーをグラスに注ぐ。

「まぁ、元々、アイラの暇つぶしのために作られたサロンだからね」

 ビアンカは、チェスの駒を動かす。

「所詮、我々は、ただの寄せ集めに過ぎないということだ」

 ホルストは葉巻を燻らせながら、言った。

「女王様不在のサロンなんて、退屈以外の何物でもないわ。ダーリンもそう思わない?」

 イザベルは、シュタインに目を向ける。

「アイラの代わりに、このサロンを引き継ぐ者がいないのであれば、解散も視野に入れなければならないね」

「やっぱり、今日限りで解散っていうこと?」

 ビアンカが言うと、マドレーヌは思い詰めた表情を浮かべる。

「ジェノバが、このサロンの主催者になったら、もっと面白い展開が待ち受けているとは思うがね」

「あはははっ、それはいいわね。もし、ジェノバにサロンを乗っ取られたら、私、毎晩のように、彼に会いに来ちゃうかも」

 イザベルの発言を聞いた、シュタインは思わず苦笑してしまう。

「なんて贅沢なマダムだ! こんなに素敵な旦那様がいるのに、まだ物足りないと言うのかい?」

 ガブリエルは、ビリヤードの手を止めて、イザベルの方を振り返った。

「あなたの方こそ、どうなの? ガブリエル。もうティファニーのハートを手に入れたの?」

「初めて出会った時から、ティファニーは、僕だけのヴィーナスさ!」

 ガブリエルは、自信満々に言い放つ。

「若いって、いいわね」

 イザベルはせせら笑う。

「私さ、前から思っていたんだけど、ティファニーって、ジェノバと繋がっているんじゃない?」

「なぜ、そう思うんだい、ビアンカ?」

「だって、あの子が社交界デビューを果たした頃から、ジェノバが現れたのよ」

「言われてみれば、あの令嬢が社交界に現れてから、次々と凄惨な事件が起きるようになったね」

 すると、ガブリエルは血相を変えて、ホルストたちにティファニーの潔白を訴える。

「ちょっと、待ってくれ! 君たちは、僕のティファニーが犯人だと言うのかい?」

 すると、ビアンカたちは互いの顔を見合わせた後、一斉に黙ってしまう。その様子を見ていたガブリエルは、彼らの前で決意表明をする。

「もういい! 君たちがそんなにティファニーを疑っているなら、この僕が、あのバラ臭い連中とともに、彼女の潔白を証明しようじゃないか!」

「というか、あなたも十分臭いわよ」

 イザベルは、眉を顰めながら言った。確かに、今日のガブリエルは妙にバラ臭かった。本人は気づいていなかったが、サロンのメンバーたちは終始、半径二メートル以上、彼と距離を置いていたのである。




 早速、クロバラメイムは、大広間でお茶を飲みながら、エルヴィスからもらった超絶読みづらい城の地下通路が描かれたマップと葛藤していた。

「線が蛇のようにくねくねしていて、見ているだけで気持ち悪くなってしまうよ。というか、よく、こんな汚い字でポリスになれたな」

 クロバラメイムは思わず感心してしまう。

「それにしても、地下の隠し通路がこんなに複雑に入り組んでいるとは」

 もちろん、ここには、地下の全貌が描かれているわけではない。ほんの一部に過ぎない。ヴァレンタイン城の地下には蜘蛛の巣のように広がる隠し通路が存在するのである。逃げ隠れするには絶好の場所であり、ジェノバはこの隠し通路を上手く利用して犯行を繰り返していると、エルヴィスは推測していた。

(とはいえ、一体、どこから調べれば良いんだ?)

 想像以上に広大なマップに途方に暮れていたクロバラメイムが、頭を抱えていると、扉の方から強烈なバラの香りが漂ってきた。

(ん? この匂いは……)

 クロバラメイムの体臭に反応してしまったガブリエルが、彼の前に現れた。

「随分と苛立っているみたいじゃないか、バラ臭い探偵よ!」

「何のようだ? 僕の同志!」

 クロバラメイムは、苛立ちながらも、新たな同志の誕生を歓迎する。

「同志というのはやめくれ! 僕は、自分の意志でバラ臭いポエマーになったのではないんだぞ!」

「ふっ、僕の同志になった記念に、この紙の後ろに、自分の体臭をテーマにした詩でも書きたまえ!」

 クロバラメイムは、そう言って、地下の隠し通路が描かれたマップをガブリエルに渡した。

「なんだい、これは?」

「この城の地下に広がる隠し通路のマップだ」

「これがマップだって?」

 ガブリエルは驚愕しながら、マップに目を通してみた。しかし、どちらが北で、どちらが南なのか判別がつかずに、マップを上下逆さまにして見ていると、クロバラメイムが鼻で笑い出した。

「ふっ。もしかして、君、方向音痴なのか?」

 クロバラメイムの挑発的な問いかけに、ガブリエルは頬を赤く染めて、彼を睨みつける。

「やっぱり、図星だな」

「なんで分かったんだ?」

「分かるさ! だって僕たちは……」

 クロバラメイムは、突然立ち上がり、蛙のごとく素早く跳ねて、ガブリエルに抱きつき、耳元で囁いた。

「同志だからさ」

「だから、いきなり抱きつくのはやめてくれ!」

 これ以上、バラ臭い体臭を擦り付けたら、あらゆる人々に避けられてしまい、人間関係どころか、日常生活にも支障をきたしかねない。社会生活における生存権を脅かされると判断したガブリエルは、クロバラメイムを暖炉の方に勢いよく突き飛ばした。

「あうっ!」

 クロバラメイムは、暖炉のそばで思いっきり転んでしまう。だが、ここで暖炉の奥から微風が吹いていることに気づく。

「ちょっと待て、これは」

 クロバラメイムは急いで起き上がり、暖炉の中を調べ始める。

「どっ、どうしたんだ? バラ臭い探偵」

 すると、クロバラメイムは、煤まみれになりながらも、目をギラギラと輝かせて、ガブリエルの方を振り返った。

「さすが僕の同志、ビンゴだよ!」

 ガブリエルには、その意味が分からなかった。




 部屋着に着替えたクロードは、クリスティーナを居間に呼び出した。

「話って何?」

 水色と白のストライプドレスを着たクリスティーナが、三人掛けのソファに座ると、クロードは本題を切り出す。

「実は、お前に縁談の話が来ている」

「えっ?」

 クリスティーナは、一瞬言葉を失ってしまった。しかし、クロードは話を続ける。

「クリスティーナ、お前はもう十七歳だ。そろそろ自分の行く末について、真剣に考える時ではないか」

「嫌だ。私は、嫁になんて行かない」

「クリスティーナ!」

「男の言いなりになるなんてごめんだよ。自分のパートナーは自分で決める。誰の指図も受けたりしない!」

 クリスティーナが、自分一人の力で生きてゆくと訴えると、クロードは深い溜息をつく。

「お前を捨てた父親も同じことを言っていたな。僕は、父さんの言いなりになんてならない。自分のことは自分で決める……とね」

「あんな家庭を捨てた男と私を一緒にしないで!」

 クリスティーナは、拳を握り締めながら、声を荒らげる。

「確かにジェノバは、お前たち親子を捨てて、失踪してしまった。しかし、お前の父親であることには変わりはないんだぞ」

「分かってる。分かっているけど、私は認めたくないの! あんな無責任な男が自分の父親なんて、絶対……」

「ああ、クリスティーナ。お前は、本当に哀れな子だ」

 クロードはそう言って、静かに目を閉じる。

「えっ」

 ここで扉の方からノック音が聞こえてきた。

「入りなさい」

「失礼します」

 カーティスが一礼して、入室した。

「旦那様、ロックフェラー様がお見えになりました」

「分かった。すぐに行く」

 クロードが立ち上がり、居間を出ようとすると、クリスティーナは慌てて引き止める。

「お祖父様、待って! まだ話が」 

「縁談の話、前向きに考えておきなさい」

「でもっ!」

 クロードは出て行ってしまった。一人、部屋に取り残されたクリスティーナは、胸が張り裂けそうな思いを抱いたまま、苦悶の表情を浮かべる。

「だめ。そんなの出来ない。私には、もう心に決めた人がいるんだから」




 雲の隙間から薄らと太陽の光が降り注ぐ午後、人気のない教会の墓地には、喪服姿のティファニーがいた。とある人物の墓の前で思い詰めた表情を浮かべていると、時々、乾いたそよ風が、ティファニーの頬に触れる。

「あら、まだそこにいたの?」

「マダム、どうして、ここに?」

 ティファニーの前に、ケスバラレイムが現れた。

「あまり外にいると、風を引いてしまうわよ」

「大丈夫よ。私はこう見えて、意外と丈夫なの」

 ティファニーは、無理矢理笑顔を作って、ケスバラレイムを安心させようとする。

「ところで、このお墓には誰が眠っているの?」

「これはクリスティーナのお父様、ジェノバ叔父様のお墓よ」

「クリスティーナのお父様がジェノバですって?」

 ケスバラレイムは驚く。

「あっ、まだマダムたちには言っていなかったわね。実は、私とクリスティーナは、本当の姉妹じゃないの」

 ティファニーはそう言って、ゆっくりと教会の門の方に歩み出した。

「あら。ということは、あなたたちは従姉妹同士ってこと?」

「そうよ。私たちが小さい頃にジェノバ叔父様が、愛人の女と一緒に駆け落ちしちゃって、行方が分からなくなってしまったの。元々、重い肺の病を患っていたクリスティーナのお母様もそのショックで病状がさらに悪化して、そのまますぐに亡くなってしまったのよ」

「ということは、彼女は孤児になってしまったのね」

「ええ。だけどクリスティーナのことを不憫に思った私のお父様が、養子として迎え入れたのよ」

「クリスティーナには、そんな過去があったのね」

「小さい頃に両親のことで色々とあったから、私の家で一緒に生活を始めた時は、なかなか私たちに心を開いてくれなくて……なんていうのかな。人間不信というか、周囲の人たちのことを拒絶していたのよ。だけど、お父様やお母様がクリスティーナを本当の娘として接してゆくうちに、少しずつ打ち解けていったわ。時間はかかったけど、今では、私たち家族の一員として、かけがえのない存在よ。少しぶっきらぼうなところがあるけど、いつも私のことを気にかけてくれる、優しいお姉さんなの」

 ティファニーは、嬉しそうに言った。

「良いお姉さんに恵まれたわね、ティファニー」

「ええ。本当にクリスティーナと姉妹になれて良かったわ」

 ケスバラレイムとティファニーは、夕暮れの日光に照らされ、オレンジ色に染まる墓地の中を歩いた後、教会の門の前で待つ黒い馬車に乗り込んだ。




 サロンでの話し合いを終えた後、マドレーヌは、ポールの部屋にいた。陽気に鼻歌を歌いながら、ポールが二人掛けのソファに座って、グラスにワインを注いでいる間、マドレーヌは彼を避けるように、窓際に立っていた。

「お前も、飲めよ」

 なぜか上機嫌のポールに、マドレーヌはひどく警戒していた。

「一体、何の用かしら?」

「安心しろよ。ロドリゴの時みたいに、変な薬は入っていねぇからさ」

 だが、マドレーヌは、ワインを飲むどころか、ソファに座ろうともしない。ポールは、ついに、なかなか自分に心を開いてくれない彼女を見かねてしまう。

「全く、世話が焼ける女だぜ」

 ポールは、ワインを一口飲んだ後、徐に立ち上がり、マドレーヌに近づいてその細長い腕を掴んだ。

「ちょっと何をするの?」

 ポールは、彼女の顎を掴んだまま、口移しでワインを強引に飲ませようとしたのである。ポールの口から注がれたビロードのようなワインの味が、口の中に広がってゆく。

「いやっ! 離して!」

 マドレーヌは顔を逸らし、激しく抵抗した後、ポールを平手打ちして、ワインで汚れた唇を手の甲で拭う。

「どうだ、ワインの味は?」

「ふざけないでっ!」

「ふはははっ!」

 マドレーヌの怒りで引き攣った顔を目の当たりにしたポールは、突然笑い出す。

「何、苛立っているんだよ、マドレーヌ。欲しいなら、奪っちゃえばいいじゃねぇか」

「何の話よ?」

「とぼけんなよ。欲しいんだろ、シュタインのことが」

 シュタインの名を耳にした瞬間、マドレーヌの顔色が変わった。

「なっ、なんで、それを……」

「みんな知っているぜ。お前がシュタインに惚れていることを」

「誰がそんな噂を」

「俺が流した」

 マドレーヌは再び険しい表情を浮かべて、ポールを睨みつける。

「おいおい、そんなに怖い顔をすんなよ、マドレーヌ。せっかくの美貌が台無しだぜ」

「ひどいわ、ポール。そんな噂が流れてしまったら、私、もうシュタインに近づくことすらできないじゃない」

 マドレーヌは、ショックのあまり、目に涙を滲ませてしまう。

「なぁ、マドレーヌ。俺と手を組まないか」

「誰が、あんたなんかと」

 マドレーヌが視線を逸らすと、ポールは、窓に手をつけて、彼女の耳元に唇を近づけ、甘い声で囁く。

「こんな絶好の機会を逃していいのか? イザベルを消せば、シュタインはお前のものになるんだぜ」

 すると、マドレーヌは、大きく目を見張って、ポールを見つめる。

「あなた、まさか……」

 ポールは何も言わずに、悪意に満ちた目でマドレーヌを見据えながら、ニヤリと不敵な笑みを浮かべた。




 暖炉の中の煉瓦の壁を崩して、隠し通路の入り口を作った後、クロバラメイムは早速、激しく嫌がる同志のガブリエルを連れて、内部に潜入した。そして、ランタンで暗闇に閉ざされた石畳の階段を照らしながら、慎重に下りてゆくと、ガブリエルが、クロバラメイムを突然引き止めた。

「ちょっと待ってくれ、バラ臭い探偵」

「どうした、僕の愛しい同志よ!」

 ガブリエルは、周囲を見渡しながら、震える声で言った。

「ぼっ、僕、あの、暗いところが苦手で、だから……」

 ガブリエルはそう言って、クロバラメイムの腕にしがみつく。

「方向音痴な上に、暗闇恐怖症なのか。全く、頼りない同志だな、君は」

「さっきも言ったが、ぼっ、僕は君の同志にもなった覚えはないぞ」

「君が否定しても、僕の体臭はその肉体に深く染み込んでいる。ちなみにその臭い、一生消えることはないから、よろしく!」

 クロバラメイムはウィンクをした。

「くそぅ、あとでこの後遺症の慰謝料、たっぷり請求してやるからな! 覚えていろ!」

 悔しさのあまり、ガブリエルが目に涙を溜めながら訴えると、クロバラメイムは彼の戯言など無視して、すでに階段を下り、さらに通路の奥の方に進んでいた。

「だから、人の話を聞けえぇぇっ!」

 ガブリエルが、先に行ってしまったクロバラメイムを慌てて追いかけた。しかし、しばらく走り続けると、クロバラメイムの背中に激突した。

「うおっ! いてぇっ! いきなり止まらないでくれ、危ないじゃないか!」

 クロバラメイムはなぜかその場に立ち尽くしたまま、ランタンで前方を照らして、注意深く暗闇の奥を、じっと見つめていた。

「どうした、バラ臭い探偵?」

「おい、よく見てみろ。あそこに扉があるぞ!」

「なんだって?」

 ガブリエルが目を凝らしてよく見てみると、確かに二人の前方に鉄の重厚な扉があった。

「確かに扉があるけど」

 ガブリエルがそう言いかけた瞬間、クロバラメイムは徐に扉の方に近づいて行った。

「ちょっと待て! やっぱり一旦戻って、ポリスたちを呼んだ方が」

「開けるぞ」

「えっ、嘘! 本当に開けちゃうのかい?」

 ガブリエルが動揺する中、クロバラメイムは、躊躇いもせずに扉をゆっくりと開けた。すると、扉の隙間から淡いオレンジ色の光が洩れてきたのである。

「なんだ、これは?」

「ひぃっ!」

 突然の眩しさに、思わず顔の前で手を翳したガブリエルは、目をぎゅっと閉じて、クロバラメイムの背後に隠れてしまった。

 だが、クロバラメイムは一瞬だけ目を細めた後、扉を開けて、部屋の中に足を踏み入れた。すると、彼の頭上には、シャンデリアが吊るされており、思わず目を奪われてしまった。

「シャンデリア?」

 そして、室内を見渡すと、彼の目の前には、レッドカーペッドが床に敷かれていた。クロバラメイムが、そのレッドカーペッドの先に目を向けると、黄金の玉座に座るミイラ化した男の死体を発見したのである。ミイラの頭蓋骨や頬骨には小さな凹みがいくつもあり、左腕と右足の骨は完全に折れていた。

「この部屋は一体……」

 クロバラメイムが周囲を警戒しながら、ゆっくりと歩みを進めると、ガブリエルは泣きそうな声で叫んだ。

「おっ、おい、バラ臭い探偵! そこに誰か座っているぞ!」

 ガブリエルは、ひどく怯えながら、胸に深い傷口がある男の死体を指差す。

「だが、彼は、もうこの世の人ではない」

 クロバラメイムは冷静な口調で答えた後、玉座に近づき、遺体の状態を確かめる。

「へっ?」

「ふむ。これは、随分前に亡くなった男性のご遺体だな」

「しっ、死体だって? なんでこんなところに?」

 死体という言葉を耳にした瞬間、ガブリエルの顔がますます青ざめてゆく。

「それは、こっちが聞きたいくらいだ。なぜ、彼の亡骸が、ジェノバと同じ格好をして、こんな華やかな部屋に葬られているのかってね」

 ガブリエルは、ミイラ化した男の死体を見た後、落ち着かない様子で部屋を見渡していた。

「気味が悪いよ、この部屋。あまりにも綺麗すぎる。誰かがついさっきまで使っていたみたいだ」

 不自然なほど美しい部屋に、クロバラメイムは違和感を抱いてしまう。たとえ、この部屋に犯人が潜んでいたとしても不思議ではない。

「もしかしたら、この部屋の主人が戻って来るんじゃないか? バラ臭い探偵、早くここから逃げよう! 主人に見つかったら、このミイラみたいに殺されてしまうよ」

 ガブリエルは取り乱しながら、クロバラメイムに訴える。しかし、クロバラメイムは、すでにジェノバの格好をしたミイラの足元に注目していた。

「これは、スケッチブック?」

 クロバラメイムは、スケッチブックを拾い、表紙をめくって中身を確認した。すると、そこには赤いインクで書き記されたメッセージが残っていたのである。



『王子様は汚れてしまった。ふしだらな女たちの手によって。今こそ、王子様が失った純潔を取り返さなければならない』



 読み終えた瞬間、クロバラメイムの表情は険しくなっていた。

「王子様の純潔?」











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