第8話 死の林檎

午後の光が薄れ、空が紫色に暮れ出した頃、ケスバラレイムとポールは、愛の劇場に入り、舞台から少し離れた真ん中の観客席に座っていた。ケスバラレイムは、パリのオペラ座を彷彿とさせる、豪華な装飾が施された小劇場に感動していた。

「驚いたわ。こんな素晴らしい劇場があるなんて」

「アイラが、親父の金を使って作ったのさ」

 ポールは足を組んで、吐き捨てるように言った。

「侯爵の財産を好きに使えるなんて。もしかして、この城で一番偉いのは、彼女なんじゃない?」

 ケスバラレイムの言葉に、ポールは苦笑した。

「確かにな。一体、誰が城主なのか、俺にも分かんねぇや」

 ケスバラレイムが、ポールと雑談をしていると、ティファニーとガブリエルが観客席に現れた。

「あら、マダムに、ポールじゃない?」

 ティファニーは、ポールの席に近づいた。

「なんだ。お前も、招待されたのか?」

「ええ、ガブリエルに誘われて」

「さぁ、僕の可愛いティファニー。こちらに座りたまえ!」

「うふふ。では、また」

 ティファニーは、ケスバラレイムたちに会釈をした。そしてガブリエルは、彼女をエスコートして、前から二列目の席に座った。

 彼らの他にも、すでにドクターニーチェやイザベルが着席していて、舞台が始まるのを静かに待っていた。




 しばらくすると、舞台の幕が上がり、白雪姫の上演が始まった。白雪姫を演じることとなったアイラと継母役のビアンカ・カメリーノが舞台の上に颯爽と登場した時、ケスバラレイムは、小声でポールに話しかける。

「あら、演じる役、間違えていない?」

「確かに」

 明らかに配役ミスではないかと、その場にいたほとんどの観客たちが同じことを思っていた。厚化粧をして、白雪姫に完全になりきっているアイラを前に、ティファニー以外の観客たちは皆、冷ややかな笑みを浮かべながら、お芝居を鑑賞していた。だが、そんな軽蔑に満ちた視線を振り払うように、アイラは堂々と白雪姫を演じ続ける。

 アイラは、幼い頃から舞台女優に憧れていた。フランスの片田舎で育った彼女は、その夢を叶えるために、パリの劇団に入ったものの、女優としてなかなか芽が出なかった。自分より若い娘たちが次々と華々しい女優デビューを飾る中、彼女は、パリの小さなキャバレーで踊って、生計を立てていた。そして、常に不満を抱いていた。どうして、自分はこんな小さな舞台で踊っているのだろうか、と。

 だが、そんなアイラに転機が訪れた。たまたま旅行で訪れていたクロード・ヴァレンタインに見染められて、彼の恋人になったのである。幼い頃からずっと貧しい生活をしていた彼女は、クロードの資産に目が眩み、女優になる夢を諦め、この城に移り住んだ。もちろん、ここでの生活は、何一つ不自由のないものであったが、派手な世界で生きてきた彼女にとって、少々、刺激が足りない、退屈なものであった。そして、次第に、再び舞台に立ちたいと思うようになっていった。

 そこでアイラは、カーティスの反対を押し切って、クロードに小劇場を作らせたのである。アイラが、愛の劇場と名付けたこの場所は、鬱蒼とした森に囲まれたヴァレンタイン城で、唯一の娯楽施設となった。彼女は、時々、サロンのメンバーや城の関係者を招いて、お芝居を楽しむようになったのである。

 さて物語は、命を狙われながらも、白雪姫が、意地の悪い継母から必死に逃れ、小人たちが住む小屋を見つける場面に移った。

「今夜は、ここで眠りましょう」

 白雪姫がベッドで眠ると、小人役の俳優たちが七人登場した。彼らは白雪姫のベッドを取り囲むように立ち並んで、彼女の寝顔を覗き込む。

「なんて可愛らしい寝顔だろうか!」

「まるでヴィーナスのような美しさ」

 小人たちは、白雪姫の美しさに驚いてしまう。

「これはきっと神様からの贈り物だ!」

「そうだ! そうに違いない!」

「この美しい娘を守ろう! 命に変えてでも守るんだ!」

 小人たちは、台本通り、気持ちよさそうに眠る白雪姫の前で彼女の盾になることを誓った。すると、ここでドクターニーチェが一言呟く。

「あんな女、守る価値があるとは思えないがね」

「ぷっ、確かに」

 彼の鋭い指摘に、イザベルが思わず、吹き出してしまっている間、物語はさらに次の場面に移り、白雪姫の美貌に嫉妬した継母とフード付きの黒いローブを身にまとう魔女との恐ろしい会話が始まる。

「白雪姫を今すぐ殺してちょうだい」

 すると、魔女は籠の中から林檎を取り出して、継母に見せた。

「かしこまりました、奥様。私が、この猛毒を仕込んだ林檎で、白雪姫を、あの世に送って差し上げましょう」

 フードを深く被った魔女は、そう言って、ニヤリと不敵な笑みを浮かべたのであった。




 目覚めた白雪姫は、早速、七人の小人たちと一緒に暮らすことになった。

「白雪姫。僕らはこれから畑仕事に出かけるから、一人でお留守番をしていてくれ」

「はい、分かりました」

「誰かが来ても、絶対に家の中に招き入れてはいけないよ」

 白雪姫に忠告した後、畑に向かって出発した小人たちは、そのまま舞台から姿を消した。そして、白雪姫が小屋で一人、小人たちの帰りを待っていると、籠を持った魔女が舞台に現れる。

「あら、もう帰ってきたのかしら?」

 白雪姫が扉を開けると、そこには見知らぬ老婆が立っていた。

「あたしゃあ、林檎売りなんだがね。さっき、この辺でちょっと足を挫いてしまって、少しここで休ませてくれないかね?」

「ええ、もちろん、いいですよ」

 心優しい白雪姫は、小人たちと交わした約束を破って、魔女を小屋の中に招き入れてしまう。

「ありがとう」

 魔女はお礼を言った後、小屋の中に入り、椅子に座って休憩する。

「まぁ、美味しそうな林檎ですね」

 小腹が空いていた白雪姫は、籠の中に入った林檎に興味津々であった。

「お嬢さん、美味しい林檎はいかがかな?」

「えっ、いいんですか?」

「もちろん、休ませてくれたお礼だよ」

 魔女はそう言って、白雪姫に毒林檎を差し出した。

「ありがとう。私、ちょうどお腹が空いていたの」

 白雪姫が魔女の思惑通り、毒林檎を齧ると、激しく咳き込んだ。そして目に涙を浮かべながら悶え苦しんだ後、彼女はその場に倒れてしまったのである。

「ふっ、さようなら。アイラ……」

 魔女は、アイラに別れを告げた後、舞台から颯爽と姿を消してしまった。しばらくすると、畑仕事を終えた小人たちが小屋に戻ってきた。

「ただいま、白雪姫。いい子にしてっ……」

 ここで、小人たちは倒れた白雪姫を発見し、急いで駆け寄る。

「大変だ。白雪姫が倒れている!」

「早くベッドに運ばないと」

 小人役の一人が、慌てて抱きかかえようと、膝をついた時のことだった。白雪姫が白目を向いて、口から泡を噴き出していたのである。

「うわあぁっ! 死んでいる! 死んでいるぞ!」

 アイラの異変に気がついた小人が悲鳴を上げる。

「誰か、医者を! 早く医者を呼んで!」

 突然、舞台の上に城の使用人たちが現れ、倒れたアイラの周りに集まってきた。異変に気がついたポールは、すぐに席を立ち上がる。

「アイラ?」

「ポール! アイラがおかしいわ! 早く舞台に行きましょう!」

 ティファニーも、席を立って、舞台で倒れたアイラのもとに向かう。

「あっ、待ってくれ、ティファニー! 僕も行く!」

 彼女に続いて、ガブリエルも舞台に向かって走り出す。

「一体、何事だ?」

「嘘でしょ! 本当に死んじゃったの?」

 イザベルが唖然としたまま、舞台を見つめていると、ケスバラレイムは、急いで楽屋に向かった。

(まさか、あの魔女は……)




 劇場から飛び出したケスバラレイムが、薄暗い回廊を真っ直ぐ走って、楽屋に向かうと、すでにそこには誰もいなかった。テーブルの上には、林檎が入った籠と白百合が置かれていた。

「逃げ足が早いわね、ジェノバ」

 ケスバラレイムはすぐに楽屋から出て、小道具が置かれた薄暗い廊下を歩いていると、正面にある白百合の花瓶が置かれた棚の前に立つ、赤いマントの男と遭遇したのである。

「ジェノバ!」

 ケスバラレイムが彼の名を叫ぶと、ジェノバはニヤリと笑って、小劇場の裏口に向かって走り出した。

「待ちなさい、ジェノバ!」

 ケスバラレイムはすかさず、彼を追いかけた。ジェノバは、小劇場の裏口を出た後、中庭を通って、ヴァレンタイン城の中へと入って行った。

(私を誘導しているつもり?)

 ジェノバがあの仮面舞踏会が行われる、ダンスホールの中に入って行った。ケスバラレイムも、彼の後に続いて、ダンスホールに足を踏み込んだ。すると、シャンデリアの下には、すでに誰もいなかったのである。ケスバラレイムは、周囲を注意深く見渡しながら、ゆっくりとダンスホールの中央に向かって歩み出した。

「ジェノバ! どこにいるの? 出て来なさい」

 ケスバラレイムの言葉に反応するように、どこからともなく高らかな笑い声が聞こえてくる。

「ふははははっ!」

「ジェノバ」

 夕焼けの淡い太陽の光が、窓の外から差し込んで、ケスバラレイムの横顔を照らす。

「どうだった? 素晴らしい結末だっただろう?」

「ジェノバ、やっぱりあなたの仕業だったのね。どうして舞踏会でもないのに、あんなことをしたの?」

「これは警告だ、マダム」

「警告?」

「そうだ。これ以上、僕の邪魔をすれば、次はお前に死のキスをしなくてはならない」

「ふっ、次は私の命を狙うってことね」

「死にたくなければ、さっさとこの城から立ち去れ、マダム」

 ジェノバが話し終えた瞬間、森の方から乾いた銃声が聞こえてきた。だが、ジェノバに脅されたケスバラレイムは、なぜか不敵な笑みを浮かべていた。

「本当に物騒なお城ね、ここは……」




 日が傾いてきたので、クロバラメイムとクリスティーナは、狩猟を切り上げて、城の敷地内に戻って来た。

「はぁ、見事に惨敗だ」

 一匹も獲物を仕留めることが出来なかったクロバラメイムは、大きな溜息をついて落ち込んでいた。

「あはははっ、一匹も仕留められない男に出会ったのは初めてだよ」

クリスティーナはゲラゲラと笑う。

「仕方ないだろ! この馬、気性が荒くて、上手く標準が合わなかったんだよ」

「あんたの体臭が臭すぎて、機嫌が悪かっただけだよ」

「失礼な! 体臭で相手を差別するなんて、全くけしからん馬だっ!」

 クロバラメイムが、馬を叱っていると、ティファニーとガブリエルがやって来た。

「クロバラメイム!」

「おーい、クリスティーナ!」

「ティファニーじゃないか」

 クロバラメイムとクリスティーナは、慌てて駆け寄ってくるティファニーたちのそばで馬を止める。

「ティファニー、どうしたの? そんなに慌てて」

「二人とも大変よ! アイラが死んじゃったの!」

「なんだって!」

「えっ? アイラがっ」

 クロバラメイムとクリスティーナは、ティファニーの口から飛び出した衝撃的な知らせに、思わず顔を見合わせてしまった。




  肌寒い空気に包まれた夜、アイラの死体は、彼女の寝室に安置されていた。氷のように冷たくなったアイラが横たわるベッドの周りには、思い詰めた表情を浮かべるクロードと、執事のカーティスに、ポール、そして現場検証を終えたエルヴィスがいた。

「心よりご冥福をお祈りいたします、ヴァレンタイン侯爵」

 エルヴィスは、クロードにお悔やみの言葉を送った。しかし、彼らは誰一人、悲しむ素振りを見せていなかった。カーティスは表情一つ変えずに、ベッドのそばに立ち尽くし、ポールは退屈そうに時々、欠伸をしていた。この奇妙な光景を目の当たりにしたエルヴィスは、なんとなく彼らに違和感を抱いてしまう。

「いいえ。こちらこそ、度重なる不幸な事件の捜査に感謝をしているよ、エルヴィス君」

「やっぱり、あの林檎には毒が仕込まれていたんじゃねぇか」

 ポールがボサボサの髪を掻きながら、口を開いた。

「その件については、後日、薬学の専門家に調べてもらうことになっておりますが、ここで一つ、皆さんにお尋ねしたいことがあります」

「何だね?」

「舞台用の林檎を用意したのは、どなたですか?」

 エルヴィスの問いかけに、カーティスが、唇を微かに震わせながら名乗り出た。

「私でございます」

「入手経路について教えていただけませんか?」

「あの林檎は、私が市場から直接仕入れたものでございます」

「ホフマンさんが準備をした時、果物に変わったところはありませんでしたか?」

「いっ、いえ、特には……」

 この時、カーティスは一瞬、目を泳がせた。エルヴィスはその不自然な目の動きを見逃さなかった。

「そうですか」

「ところで刑事さんよぅ。アイラに林檎を差し出した、あの魔女の正体は分かったのか?」

「それは……」

「ジェノバよ」

 ケスバラレイムが、いつの間にか寝室にいた。何の気配もなかったので、その場にいた全員が彼女の登場に驚く。

「マダム! お前どこに行っていたんだよ? 心配してたんだぜ」

 ポールは両手を広げて、ケスバラレイムに近づいた。

「ジェノバが?」

 クロードは、その名を耳にした瞬間、ひどく動揺した。

「ちょっと待て、マダム。あいつが姿を現すのは、仮面舞踏会だけではないのか?」

「私も、そうだと思っていたわ。だけど、ジェノバは、誰にも気づかれることもなく、お芝居に参加していたのよ。そして、あの魔女に変装して、アイラさんを殺害した後、再び、私の前に姿を現した」

「ジェノバに会ったのか?」

「会ったけど、取り逃してしまったわ」

 すると、ポールはアイラの男癖の悪さを指摘した。

「アイラは、色んな男と肉体関係を持っていたからな。どうせ、あいつのことだ。きっと調子に乗って、ジェノバにも手を出そうとしていたんじゃねぇの」

「その中に、あなたもいるんでしょ? ポール」

「ポール、それは本当なのか?」

 その瞬間、クロードの顔色が変わった。

「おっ、おい、ちょっと待ってくれよ、親父」

「昔から女にだらしないとは思っていたが、まさかアイラにまで手を出していたとは」

 息子が、自分の恋人にまで手を出していたことを知ったクロードは、ポールの胸ぐらに掴みかかった。しかし、突然、胸に手を当てて、しゃがみ込んでしまったのである。

「旦那様!」

 慌てて駆け寄ったカーティスは、膝をついて、クロードの背中をさする。

「はぁっ、はぁっ」

「おいおい、あまりあの女のことで興奮すると心臓に良くないぜ」

 ポールは勝ち誇った笑みを浮かべながら、クロードを見下ろした。

「おのれ」

 クロードは、苦しそうに顔を歪ませながら、ポールを睨みつける。

「旦那様、お部屋で少しお休みになられた方が」

「うるさい! 病人扱いするな、カーティス」

 クロードはカーティスに怒鳴った後、彼の手を振り払い、杖をついて、ふらつきながらも、自力で立ち上がった。

「もっ、申し訳ございません、旦那様」

 このやりとりを見ていたエルヴィスとケスバラレイムは、この親子の関係が上手くいっていないことを改めて痛感した。




 警察の現場検証が終わった後、クロバラメイムは、白雪姫が上演されていた舞台の上に立っていた。彼のそばには、ティファニーとガブリエル、そしてアイボリーのイブニングドレスに着替えたクリスティーナもいた。

 クロバラメイムは、アイラが倒れた場所に近づく。

「アイラさんが、魔女からもらった林檎を齧った瞬間に、倒れてしまったというわけなんだね」

「そうよ」

「ちなみに、魔女の役は誰が演じていたんだい?」

 クロバラメイムは、ガブリエルに尋ねる。

「配役は全てアイラが決めていたからね。僕はその件に関しては何も聞いていないのだよ」

「なるほど。つまり、魔女役の俳優を知っていたのは、被害者だけか」

「あの魔女を演じていたのって、やっぱりジェノバなんじゃないの?」

「クリスティーナ。どうして、そう思うんだい?」

「だって、前からメイドたちの間で変な噂が流れていたし」

「噂?」

「うん。アイラが、ジェノバと繋がりがあるんじゃないかって」

「やっぱり、アイラって、ジェノバと恋仲だったのよ」

「大胆な憶測だな、ティファニー」

 ガブリエルは感心してしまう。

「だって、私、舞踏会で、アイラがよくジェノバらしき男と踊っていたのを何度か見たことがあるって、ポール叔父様から聞いたことがあるし」

「ポール? 誰だい?」

「あれ、クロバラメイムはまだポールに会っていないの?」

「ああ」

「ポール叔父様は、私たちのお父様の弟で、今もこのお城で暮らしているのよ」

「へぇ」

「ちなみに、彼はサロンのメンバーだ。と言っても、いつもウィスキーばかり飲んで、酔っ払っているがね」

「ふむ。だが、現場検証が終わってしまったせいで、手がかりとなるものが一切見つからないね」

 ポールの話題に興味がないクロバラメイムは、すぐにガブリエルから目を逸らす。

「ちょっ、最後まで聞いてよ! ねぇっ!」

 クロバラメイムが、ガブリエルを完全に無視すると、クリスティーナはある提案をした。

「楽屋の方にでも行ってみる?」

「楽屋?」

「それはいいわね! あそこなら何か手がかりがあるかもしれないわよ!」

 ティファニーはそう言って、クロバラメイムの腕に抱きつき、楽屋に案内する。その姿を見ていたガブリエルは、落胆してしまう。

「ああ、僕の愛しいティファニー! 僕の素晴らしい話を無視する、あんなバラ臭い男のどこがいいんだ?」

 クリスティーナは、ガブリエルのそばで、楽屋の方に向かって歩み出す二人の姿を、悩ましげな眼差しで見つめていた。





 窓の外から雷の音が聞こえてくる中、ケスバラレイムは、エルヴィスとともに、鏡の回廊を歩いていた。

「今回のジェノバの犯行は想定外だったな」

「ええ。私も驚いたわ。まさかこんな形で新たな被害者が出るなんて」

「城の関係者を油断させている間に、次の犯行に手を染めたとは」

「魔女に変装して、私たちの前に現れるとは想像もしていなかったわ」

「ということは、今も誰かに変装して、俺たちの動向を監視している場合もあるということか」

「それが事実だとしたら、ますます私たちは、危機的な状況に陥っているわね」

「俺たちは、すでに檻の中を彷徨う鼠かもしれないな」

「それで、あなたは今、誰を疑っているの?」

「カーティス・ホフマンだ」

 彼の名を言った瞬間、雨が降り始める。

「あら、ロドリゴはどうしたの?」

「やつは、白だ。返り血を浴びた形跡が全くない上に、やつは被害者に好意を抱いていた」

「そう。じゃあ、どうしてカーティスだと思ったの?」

「ボーモン夫人が殺害された際に、メイドたちから色々と聞き込みをしていた時、アイラさんとホフマンの話を聞いたんだ。彼らの関係は最悪で、サロンの早期解散を強く求めて、時々、激しい口論をしていたらしい。おまけにヴァレンタイン侯爵にも、早く城から追い出せと何度も訴えていたようだ」

「確かに、あの執事って、見た目からして、すごく生真面目そうだものね。アイラとは気が合わなそうよね」

「にもかかわらず、アイラの身の回りの世話を自ら買って出ていたんだ。今回の芝居で使われた小道具やドレス、それにあの林檎も、ホフマンが全て用意したんだ」

「ちなみに過去の事件については、アリバイは証明されているの?」

「仮面舞踏会の時は、ヴァレンタイン侯爵とともに居間で過ごしているようだが、侯爵は規則正しい生活を心がける方なので、午後八時になると、大抵はご就寝してしまうようなんだ」

「つまり、侯爵が眠った後のカーティスの行動がよく分かっていないのね」

「ああ。ホフマンは、自分の部屋で待機していたと言い張っているが、正直言って、誰も彼の姿を目にしていないんだ」

 エルヴィスはそう言って、険しい目つきで、壁に掛けられた鏡に写った自分を見つめていた。




 舞台を離れたクロバラメイムたちは、楽屋の中にいた。

「ここもポリスたちの手が入ってしまったか」

 すでに事件の証拠品になりそうなものは、全てポリスたちに回収されてしまっていた。クロバラメイムは、途方に暮れながら、何も置かれていないドレッサーや花瓶が置かれたコンソールを見渡す。

「本当にもぬけの殻じゃないか? こんなところを探しても、犯人の手がかりは見つからないんじゃないか、バラ臭い探偵」

 ここでクロバラメイムは、ガブリエルの方を振り返る。

「その呼び方はやめたまえ」

「本当のことを言ったまでだ、バラ臭い探偵よ。君のような、香水入らずの強烈な体臭を放つ男は、ヴィーナスたちの天敵だ」

「だから、バラ臭いって言わないでくれ! これについては、割と真剣に気にしているんだぞ!」

 実際、クロバラメイムは、自分の体臭をかなり気にしていた。だが、物心がついた時から、どんなに体を洗っても、この強烈なバラ臭さは消えなかったのである。ちなみに、色んな香水も試してみたこともあったが、やはり、どんな匂いも、自らのバラ臭さに打ち消されてしまった。彼は、今も密かに儚い抵抗をしながら、この強烈な体臭と共存しているのだ。

「そんなに体臭を気にしているなら、なおさら、僕のティファニーに近づかないでくれ。彼女の美しい体に、君のバラ臭い体臭が染み付いてしまうだろう」

 ここで、クロバラメイムは、自分の体臭を馬鹿にするガブリエルに薔薇族の洗礼を決行することにした。

「だったら、まずは君を、この世のヴィーナスたちに疎まれる体臭にしてあげよう」

 クロバラメイムは、いきなりガブリエルの体に抱きつき、ありったけのバラ臭さを皮膚から放出させて、服の上から彼の肉体の隅々にまで擦り付けていった。

「ひいぃっ! くっ、くさっ、臭すぎるうぅっ!」

 失神しそうなほどに、強烈なバラ臭さが、ガブリエルを蝕んでゆく。

「ありがたいと思いたまえ。君のような他人を侮辱する人間には、是非、僕の体臭をお裾分けしてやろう! さあ、存分にこの臭さを堪能したまえぇっ!」

「ぐほっ! げほっ、げほっ! 離れてっ、やっ、やめてくれえぇっ!」

 ガブリエルは咽せながらも、必死で抵抗する。しかし、クロバラメイムは、そう簡単に離れようとしなかった。彼は、ガブリエルをしっかりと抱きしめたまま、ソファに押し倒す。

 その様子を鼻を摘みながら見ていたクリスティーナは、呆れていた。

「あんたたち、何してんの?」

 ちょうどクロバラメイムが、ガブリエルに体臭を擦りつけていた頃、ティファニーは、猫脚の収納タンスの一番下の引き出しが、少しだけ開いていることに気がついた。

「あら? これは何かしら?」

 ティファニーが慎重に引き出しを開けると、丸められたローブが入っていたのである。

「ねぇ、クリスティーナ! ちょっとこれを見て!」

 ティファニーは、急いでクリスティーナを呼ぶ。

「どうしたの、ティファニー? 何か見つかったの?」

 クリスティーナは、すぐに彼女のそばに駆け寄る。

「何か入っているわ」

「何これ?」

 ティファニーが、おそるおそるローブを持ち上げてみると、先程の舞台でジェノバが着ていたものと同じものであった。

「これ、もしかして、あの魔女が着ていたローブかも」

「えっ? そうなの?」

「なんで、こんなところに入っているのかしら?」

「警察の連中は、この引き出しだけ調べていなかったってこと?」

「もしかしたら、警察の現場検証が終わった後に、誰かがこの中にこっそりと入れた可能性があるわ」

「一体、何のために、こんなことを……」

 ここでティファニーは、ローブに鼻を近づけて、匂いを嗅いだ。

「あれ、この香り……」

「ティファニー?」

「どこかで嗅いだことがある匂いだわ」

 ローブから漂う強烈なジャスミンの香りを嗅いだティファニーは、ある人物のことを思い出した。















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