第5話 悪夢は一杯のワインから始まる
次の日の昼下がり、突然、エルヴィスに呼び出されたケスバラレイムは、クロバラメイムとともに、談話室に向かっていた。
「ちょっと離したまえ」
クロバラメイムは窮屈そうに、強引に腕を組むティファニーに目を向ける。しかし、ティファニーは、嬉しそうに笑みを浮かべて、クロバラメイムから離れようとしない。ここでクロバラメイムが、ちらりと後ろを振り向くと、あのクリスティーナが目を吊り上げて、歩いているではないか。思わず、目が合うと、彼女の殺意に満ちた眼差しが突き刺さる。
(やばい。このままだと殺されちゃう!)
荘厳なシャンデリアが吊るされた鏡の回廊に差し掛かった瞬間、クリスティーナの視線に耐えられなくなったクロバラメイムは、ケスバラレイムに問いかける。
「あの、なんで彼女がいるんですか?」
すると、クロバラメイムのすぐ後ろを歩くクリスティーナが答えた。
「あんたが、ティファニーに変なことをしないか、見張っているんだよ!」
彼女の発言に腹立ったクロバラメイムは、再び後ろを振り返る。
「失礼な! 僕がこんな小娘に手を出すわけないだろ!」
「やだ、クロバラメイム。また変な意地張っちゃって」
ティファニーは、頬を染めながら、嬉しそうに照れていた。
「ちょっと待て。今の流れからして、ここは落ち込む場面のはずだが」
「本当に仲睦まじいわね。まるで本当の夫婦みたい」
ケスバラレイムのこの発言に、クロバラメイムは機敏に反論する。
「先生! 不謹慎な発言はやめてください! そういうことを言うから、変な誤解が……」
「言っておくけど、ティファニーに手を出したら、その胸の黒薔薇、むしり取っちゃうからね」
「ひょえぇぇっ! この黒薔薇は、僕の命より大事なものだから、それだけはやめてえぇぇっ!」
ケスバラレイムたちが談話室に到着すると、クロードが、すでにカーティスとともに待機していた。
「どうぞ、こちらにお座りください」
カーティスの案内で、全員が着席したのを確認すると、エルヴィスは、連続殺人事件の中間報告を始めた。
「皆さん、お集まりいただきありがとうございます。今回は、昨日、私がヴァレンタイン城の地下にある牢獄で発見いたしました、ジェノバが所持していたと思われる、凶器をお見せしながら、捜査の進捗状況についてお伝えしたい」
エルヴィスがそう言って、テーブルの中央に置かれた赤紫色の布を取ると、赤黒い血がこびりついた短剣と黄金の蝶のアイマスクが現れた。席についていた全員が、一斉にこの不穏な凶器に注目する。
「これは……」
クロードは、険しい表情を浮かべて、短剣を見下ろす。
「クリスティーナ」
血が苦手なティファニーは、思わず怯えた表情を浮かべて、隣に座っているクリスティーナを見つめた。すると、クリスティーナは、ティファニーを安心させようと、そっと彼女の手を握りしめる。
「おそらく、ジェノバは犯行を終えた後、普段、誰も立ち入ることのない地下牢獄に潜伏していた可能性があります」
「私、この城に地下室があるなんて知らなかったわ」
「私も初めて知ったよ」
ティファニーとクリスティーナは、ここで新事実を知ることとなった。
「つまり、犯人はこの城の内部構造に詳しい人物ってことね」
「実際、この地下牢獄に入るためには、鍵が必要だ。おそらくジェノバは、この城の関係者である可能性が高い」
「我々の中に、ジェノバが潜んでいるとおっしゃるのですね、ロックフェラー警部」
「そうです」
「旦那様、こんな一大事にもかかわらず、仮面舞踏会を開催なさるのですか」
「うむ……」
クロードは、難しい顔をして、押し黙ってしまう。
「ですが、仮面舞踏会はジェノバを誘き寄せる絶好のチャンスです。今回は、ポリスの数を増やし、前回以上に警備体制を強化し、城の出入り口だけではなく、あの地下牢獄にも配置いたします」
ジェノバを一刻も早く捕まえたいという思いから、エルヴィスは仮面舞踏会の開催を強く望んでいた。
「しかし、それで、また新たな被害者が出てしまいましたら……」
「多少の犠牲は免れないわ」
「先生?」
「皆さんもご存知の通り、ジェノバは生温い王子様ではないわ。彼はすでに七人もの罪のないご夫人方を殺害しているのよ」
「以前から疑問に思っていたのですが、罪のないご夫人方を次々と殺して、一体ジェノバに何の得があるというのでしょうか?」
クロバラメイムは、なぜジェノバが女たちだけを狙うのか、全く理解出来なかった。
「まだお前たちには言っていなかったが、実は殺害されたご夫人方には共通点がある」
「共通点?」
「ああ。それは、殺害されたご夫人たちは全員、アイラ夫人が主催する文芸サロンのメンバーであったことだ」
「あの、アイラって誰ですか?」
ここでクロバラメイムは手を上げて、質問する。
「アイラは、私の恋人だ」
「えっ? 恋人がいたんですか?」
クロバラメイムは驚く。
「旦那様、もしかしたら、アイラ様が事件に関わっているのでは?」
「カーティス! いいかげんなことを言うな!」
クロードは、テーブルを叩き、激しい剣幕で声を張り上げた。
「もっ、申し訳ございません」
この時、ケスバラレイムは、態度を急変させたクロードに違和感を覚える。
「言葉には気をつけなさい。アイラを侮辱する者は、たとえお前であっても、許すわけにはいかんのだ」
「はぁ」
カーティスが納得のいかない様子で返事をした後、クロードは、気丈な態度でケスバラレイムとエルヴィスの方に目を向けて、協力を仰いだ。
「週末の仮面舞踏会は、万全の体制で開催したいと思っている。エルヴィス君、そしてケスバラレイムさん。どうか、ご協力のほどよろしくお願いします」
こうして仮面舞踏会は予定通り開催されることとなった。
仮面舞踏会当日、ヴァレンタイン城はいつになく厳戒態勢であった。ポリスたちが城内を巡回する中、多くの貴族たちが続々とパーティー会場に入ってゆく。そして、燦然と輝くシャンデリアの下で、楽団による壮大なオーケストラの演奏が始まった頃、クロークルームでは、ワイン・レッドのエレファント・スリーブの舞踏会用ドレスを着たケスバラレイムが、鏡の前で銀色のアイマスクを装着していた。
「今夜も、素敵なパーティーになりそうね」
鏡に写った自分に向かって言った後、ケスバラレイムは意気揚々とクロークルームを出た。すると、廊下では、すでにパーティーを楽しもうとしているケスバラレイムに苛立つクロバラメイムが待っていた。
「先生、まさか呑気に踊るつもりじゃないですよね?」
「あら、いけない?」
ケスバラレイムが澄ました顔をして、ダンスホールに向かって足を進めると、クロバラメイムは彼女に詰め寄り、自分たちがこの城にやって来た目的について語り出す。
「いいですか? 僕たちは遊びに来ているのではないのですよ!」
「分かっているわよ」
「本当に分かっているのですか?」
「しつこいわね」
「なっ!」
「あーいたいた。クロバラメイム、お待たせ!」
前方から薄紫色のフル・ドレスを着たティファニーが、クリスティーナの手を引っ張りながら、近づいて来た。
「あら、可愛いじゃない」
「クリスティーナ!」
クロバラメイムの視線の先には、薔薇とパールの髪飾りをつけ、パステルブルーのフル・ドレスを着たクリスティーナが恥ずかしそうに立っていた。いつもより厚化粧をしているせいか、妙な色気を醸し出していた。そんな彼女の姿に、クロバラメイムは思わず目を奪われてしまう。
「ちょっと、さっきから厭らしい目でジロジロと見ないでよ、この変態!」
クリスティーナは、頬を赤く染めながら、クロバラメイムに言った。
「なっ!」
「クリスティーナったら、クロバラメイムを意識して、珍しくおめかししたのよ」
「ちっ、違うわよ! 私はあくまで目付け役。あんたがこいつみたいな変な男に捕まらないか、心配してついて来ただけよ!」
「うふふ、照れなくてもいいわよ」
「そうよ。二人ともとてもお似合いだわ」
「えっ?」
ケスバラレイムの言葉に、クロバラメイムとクリスティーナは動揺する。
「わっ、私、先に行っているからね」
クリスティーナは、ぎこちない口調で言った後、そそくさとダンスホールの方に向かって歩き出してしまった。
「せっ、先生! これ以上変なこと言ったら、本当に怒りますよ!」
「ああいう気の強い子の方が相性いいと思うわよ」
「言っておきますけど、僕はあのクリスティーナに殺されかけたんですよ!」
「あなたみたいな騒々しい男は、一回殺された方がいいわよ」
「なっ!」
その一方で、ケスバラレイムとクロバラレイムのやりとりを聞いていたティファニーは、どこか浮かない表情をしていた。
ダンスホールでは、すでに仮装したイザベルが、見知らぬ男と一緒に楽しそうに踊っていた。一方のマドレーヌは、窓際のソファに座り、扇子を仰いで、三人のご夫人たちと談笑をしていた。
「あら、もうこんなに盛り上がっているのね」
ケスバラレイムたちが会場の中に入ると、すでに盛大な仮面舞踏会が開催されていた。
「私、クリスティーナを探してくるわね」
「おっ、おい、ティファニー!」
ティファニーは、ケスバラレイムたちから離れ、クリスティーナを探しに行ってしまった。
「あらあら、置いてかれちゃったわね」
「べっ、別に寂しいとかそういう気持ちはないですから」
「うふふ、また意地を張っちゃって」
「だから、僕は意地なんて張っては……」
クロバラメイムがそう言いかけた時、アイラと腕を組んで歩くポールが、ケスバラレイムに声をかけてきた。
「よう、マダムじゃねぇか」
「ポール。あなたも参加していたの?」
「まぁな」
「誰なの? この女……」
アイラが尋ねると、ポールはケスバラレイムを紹介した。
「この人は、凄腕の探偵貴婦人、ケスバラレイムさんだ。今回の連続殺人事件の犯人を突き止めるために、しばらくこの城に滞在することになったんだ」
「ふうん、そうなの」
アイラは興味がなさそうに、ポールの話に耳を傾けていた。
「もしかして、この方が、アイラさん?」
「おう。こいつは俺の……」
「ちょっと勝手に、他の女に私の紹介をするのはやめてくれない」
ポールと親そうに話すケスバラレイムにすっかり嫉妬してしまったアイラは、ますます不機嫌になってゆく。
「おいおい、そんなにカリカリすんなよ、アイラ」
「ふん」
「おっ、そうだ、マダム。もし相手がいないなら、あとで一緒に踊らねぇか?」
すると、アイラがポールの頬をつねる。
「いててっ!」
「だめよ、ポール。今夜は私と一緒に踊るのよ」
ケスバラレイムに敵意を剥き出すアイラは、ポールを強引に連れて、立ち去ってしまった。
彼らのやりとりを聞いていたクロバラメイムは、ケスバラレイムに問いかける。
「あの男と知り合いなんですか、先生?」
「まぁね」
ケスバラレイムは手短な返事をした後、ポールとアイラの後ろ姿をじっと見つめていた。
その頃、ロドリゴは、二階のティー・ルームでソファに座り、レモネードを飲みながら、ビスケットやパウンド・ケーキを次々と頬張るエルシアを描いていた。
「今夜も、白馬の王子様は来ないのかしら?」
食欲旺盛なエルシアは、目の前のテーブルに置かれたお菓子やパンを食べながら、ジェノバの登場を待ち侘びていたのである。彼女は、ジェノバを本気で白馬の王子様と信じ込む、ロマンチストであった。
「ジェノバのどこがいいんだ?」
いつもはあまり喋らないロドリゴが、珍しく口を開いた。だが、その口調には嫉妬が混じっている。
「だって、ジェノバに抱かれた女は、皆、永遠の若さを手に入れるのよ」
「くだらん。そんなの迷信だ」
ロドリゴは、あっさりと否定する。
「もしかして嫉妬しているの?」
「ああ、もちろんだ。エルシアは俺だけのミューズだ。誰にも渡さん」
「あはははっ! 相変わらず、ジェラシーの塊だね、ロドリゴは」
「馬鹿にしたいのなら、馬鹿にすればいいさ」
すっかり不貞腐れてしまったロドリゴに、エルシアはクラレット・カップを差し出した。
「私の可愛い子猫ちゃん。いつまでも描いていないで、私と一緒に飲みましょ?」
「エルシア」
愛しい女の誘惑に負けてしまったロドリゴは、スケッチブックをテーブルの上に置いて、一人掛けのチェスターフィールドソファに腰を下ろす。そして、エルシアからクラレット・カップを受け取ると、そのまま一気に飲んだ。
(なっ、なんだ、これは?)
突然、頭の中がクラクラして、目の前がぼんやりと霞んでゆく。
「エッ、エルシア……」
全身から力が抜けて、手に持っていたクラレット・カップを落としてしまった。砕け散るグラスの乾いた音が響き渡る。だが、すでにその音ですら、彼の耳には届いていなかった。視界もぼやけて、次第に何も考えられなくなってしまったロドリゴは、そのまま意識を失ってしまったのである。
ケスバラレイムは、イザベルの夫、シュタイン・エルンストと一緒に踊っていた。ゲルマン人らしい、端正な顔立ちをした青い瞳のシュタインは、ケスバラレイムを華麗にリードしていたが、時折、周囲を見渡したり、誰かを探しているような仕草をしていて、どこか落ち着かない様子であった。シュタインの不自然な行動に気がついたケスバラレイムは、彼にそっと囁く。
「あのご夫人が気になるの?」
シュタインの視線の先には、若い男と意気揚々と踊るイザベルの姿があった。
「ああ。あの女のステップが、僕の妻にそっくりなんだ」
「あら、奥様がいらっしゃるの?」
「まぁね」
「こんなところで踊っていて、大丈夫なの?」
ケスバラレイムの問いかけに、シュタインは苦笑する。
「大丈夫だよ。彼女はいつも他の男にばかり目を向けているからね」
シュタインは、寂しそうにイザベルのことを語った。すると、二人から少し距離を置いて踊っていたマドレーヌが、悩ましい目つきで、シュタインを見つめていた。
クロバラメイムは、ケスバラレイムが踊っている間、何もすることがなく、壁際で退屈そうに突っ立っていると、クリスティーナに声をかけられる。
「こんなところで何してんの?」
「クリスティーナか。さっきティファニーが君を探していたが、会っていないのか」
「えっ? ううん、会っていないけど」
クリスティーナは首を横に振る。
「そうか」
「クロバラメイムは、誰かと踊らないの?」
「君こそ、誰かと一緒に踊らないのか?」
「さっき言ったでしょ。私は、ただの目付け役」
「あんまり強がっていると、本当に壁の花になってしまうぞ」
クロバラメイムはそう言って、出入り口の方に歩み出した。
「どこに行くの?」
「やっぱり、僕には華やかな社交界は肌に合わない」
「ちょっと待ちな! 私も一緒に……」
クリスティーナが慌ててクロバラメイムを追いかけようとすると、三人の仮装した貴族の男に声をかけられる。
「そこの美しいレディ、一緒に踊りませんか?」
「一人でこんなところにいては、退屈でしょう」
「僕たちと少しお喋りでもどうですか?」
「えっ、いや、あの、私、ちょっと」
クリスティーナは、仮面の男たちに囲まれてしまい、強引に連れて行かれてしまった。
その頃、クロバラメイムは、目的もなく、壁際に荘厳な大燭台がいくつも配置された、長い回廊を歩いていた。
(ジェノバはまだ現れていないようだし、とりあえず気分転換にテラスにでも行こうかな)
仮面舞踏会のむさ苦しい熱気から解放され、ホッと一息をつきながら、清々しい気分で人気のない回廊を進むと、クロバラメイムの前方に展示された風景画の前を赤いマントの男が颯爽と通り過ぎて行った。
「ん? あれは、まさか……」
ジェノバらしき男を発見したクロバラメイムが、急いで駆け出すと、後ろからピストルを手に持ったエルヴィスに声をかけられる。
「クロバラメイム!」
「ロックフェラー警部! 何かあったのですか?」
「ジェノバらしき男を見かけなかったか?」
「ジェノバ?」
「ああ、先程、こちらの方向に向かって走ってゆく姿を目撃したんだが」
「まさか、あいつが……」
「心当たりがあるのか?」
「さっきあの絵の前を通り過ぎて行きましたよ!」
「なんだと? あっちの方向には、確か、ティー・ルームがあるはずだ」
「ロックフェラー警部! 一緒に追いかけましょう!」
「おう!」
こうしてクロバラメイムは、急遽、エルヴィスとともに、ジェノバらしき男を追いかけることとなった。
ポールの部屋から、アイラの淫猥な喘ぎ声が洩れていた。彼女は、ベッドの上に仰向けになるポールの上に跨り、額や背筋に汗を滲ませながら、騎乗位の体勢で腰を悩ましく前後に動かしていた。ポールが、アイラの豊満な乳房を両手で乱暴に揉み込んでゆくと、ピンク色の乳首がコリッと固くしこってきた。アイラは、卑猥な声を上げて、反り返った後、ポールの唇に細長い手を伸ばしてきた。
「はぁっ、はぁっ、ん……もしかして、あの女のことが気になるの?」
「おいおい、俺は、そんなに女にだらしない男に見えるのか?」
アイラの問いかけに、ポールは思わず苦笑してしまう。
「だって、すぐに他の女と仲良くなっちゃうんだもの」
アイラが嫉妬混じりの口調で言うと、ポールは彼女の頬に手を伸ばし、起き上がった。そして、アイラに口づけをすると、耳元で囁いた。
「俺は、いつだってお前のことで頭がいっぱいさ」
すると、アイラは鼻で笑う。
「ふっ。嘘つきはジェノバに殺されるわよ」
「脅しのつもりか、アイラ」
「ええ、もちろん」
アイラがそう言って、ポールを見つめる。
「残念だが、ジェノバは俺を殺すことは出来ないぜ」
「どうして?」
アイラが問いかけると、ポールは口角を歪ませて、ニヤリと笑う。
「ジェノバは、すでに俺の手の中にいる」
「つまり、あなたも私も無敵ってことね」
アイラは、ポールを見つめながら、嬉しそうに微笑んだ。
クロバラメイムたちが薔薇の回廊に差し掛かった時、再びジェノバらしき男を発見した。
「ジェノバ!」
「ジェノバ! 逃さんぞ!」
すると、ジェノバは突然走り出し、薔薇の回廊を突き進んでゆく。
「挑発しているつもりか?」
エルヴィスも、勢いよく追いかけて行った。
「まっ、待って!」
走るのが苦手なクロバラメイムは、徐々に二人と距離が開いてゆく。しかし、負けず嫌いのクロバラメイムは、必死で薔薇の回廊を抜けて、階段を駆け上がって行った。そして、薄暗い廊下を進んで、最初の角を右に曲がると、すでにティー・ルームの扉が開いていたのである。
「はぁっ、はぁっ、あっ、あそこか?」
クロバラメイムが息を切らせながら、入室すると、そこには凄惨な光景が広がっていた。
「なんだ、これは……」
クロバラメイムの目に映ったのは、パステルイエローのドレスを真っ赤な夥しい血で染めた、仮面の少女の惨殺死体であった。彼女はソファに座った状態で亡くなっており、口から血を流している。そして、胸を何度も突き刺された跡が生々しく残っていた。
「クロバラメイム!」
ジェノバを見失ったエルヴィスが、ティー・ルームに現れた。
「ロックフェラー警部……」
「くそっ、やつの仕業か」
エルシアの無残な死体を目の当たりにした瞬間、エルヴィスは衝撃を受ける。
「まさか、僕たちをこの部屋に誘き寄せるために」
「ふっ、随分と親切な王子様だな」
テーブルに置かれた一本の白百合の花を目にしたエルヴィスは、自分たちがジェノバに弄ばれていたことを知って、怒りに震えた。
「ぐぅ、ぐぅ……」
ここでクロバラメイムたちは、エルシアの死体のそばで呑気にいびきを掻いて眠る男に気がついた。
「なんでこんなところで寝ているんですか? こいつは」
「おい、起きろ! おいっ!」
エルヴィスはソファを乱暴に蹴飛ばして、ロドリゴを起こす。
「んがっ!」
ロドリゴは、ゆっくりと目を開けるが、まだ少し寝ぼけている様子であった。
「あれ? 俺、寝ちゃった?」
ロドリゴが目を擦りながら、すぐそばにある、惨殺されたエルシアの死体を見ると、眼球が飛び出してしまいそうなくらいに驚いてしまった。
「ひいぃぃっ! エッ、エルシア! エルシア! あっ、あああっ! なんてことだ! これは悪夢だ! ああ、神よ、どうしてこんな酷いことを……」
ロドリゴは、あまりのショックに気が動転しまい、完全に取り乱してしまった。
「ロックフェラー警部! 椅子のそばに短剣が落ちています」
クロバラメイムは、ロドリゴの足元に落ちている血まみれの短剣を発見した。
「お前がやったのか?」
「ちっ、違う! 俺はやっていない! ワインを飲んだら、急に眠くなって……」
「じゃあ、その短剣はなんだ? お前がその短剣で被害者を突き刺したんじゃないのか?」
「俺がエルシアを殺すわけないだろ!」
ロドリゴが目に涙を溜めながら、必死に自分の無実を訴えていると、三人のポリスたちが駆けつけた。
「警部!」
「事件が発生した。今すぐ、この男を殺人の容疑で連行しろ」
「おいっ! ちょっと待ってくれよ! 本当に俺は何もやってねぇ! やってねぇんだ!」
「おらっ! さっさと歩け!」
激しく抵抗していたロドリゴであったが、二人のポリスに両腕を掴まれ、引きずられるように部屋から連れ出されてしまう。
「ボールドウィン! ジェノバがまだすぐそばにいるかもしれない。応援を呼んで、今すぐ行方を追え」
「はっ!」
「それから、クロバラメイム。今すぐマダムを呼んで来てくれ」
エルヴィスはフロックコートの内ポケットにピストルをしまいながら、クロバラメイムに命令した。
「分かりました!」
クロバラメイムは、急いで部屋を出て、ケスバラレイムを迎えに行った。一人部屋に残ったエルヴィスは、再び床に落ちた短剣に目を向けて、眉間にしわを寄せる。
「この短剣、まさか牢獄に落ちていたものと同じか?」
クロバラメイムから事件の知らせを聞いたケスバラレイムが、彼とともにティー・ルームに向かうと、すでにポリスたちによる現場検証が進んでいた。
「あら、可哀想に」
ケスバラレイムは、未来ある若い娘の死に心を痛めた。そして鮮血に染まるエルシアの死体を見た後、テーブルに置かれた一本の白百合の花に目を向ける。
(また白百合の花があるわ。どういうことかしら?)
ケスバラレイムが白百合を見ていると、エルヴィスが近づいてきた。
「ロックフェラー警部!」
「クロバラメイム、被害者の名前が判明した。彼女の名前は、エルシア・ゲーテ。ドイツのゲーテ男爵の次女で、サロンのメンバーの一人だ」
「先生、やはりサロンの関係者のようです」
「みたいね」
ケスバラレイムはそう言って、エルヴィスの方を振り返った。
「マダム。今回の事件は、ジェノバの仕業ではない可能性がある」
「なんですって?」
「あの男のことですか」
「ああ。俺たちがこの部屋に入った時、被害者のそばで居眠りをしている男をいたんだ。彼の名前は、ロドリゴ・グロピウス。ゲーテ嬢と同じくドイツ出身の画家だが、酒癖が悪いせいで、よく酒場でトラブルを起こし、暴力事件を何度か起こしている。おまけに過去に逮捕歴がある」
「彼のそばには、血がこびりついた短剣が落ちていたんです」
「これが凶器だ」
エルヴィスは、布を広げて、ケスバラレイムに短剣を見せる。
「地下牢獄に落ちていたものと一緒ね」
「そうだ。おそらく、ジェノバと繋がりが……」
「今すぐ、彼を解放してあげて」
ケスバラレイムの言葉に、エルヴィスとクロバラメイムは耳を疑ってしまう。
「何を言っているんだ、マダム。やつはジェノバの凶器を持っていたんだぞ」
「そうですよ、先生! あの画家、酒に酔うと、人に暴力を振るう人間なんですよ」
「彼の服は血に染まっていた?」
「いっ、いいえ! こぼしたワインのしみがついていただけで、血は全くついていませんでした」
クロバラメイムは、ロドリゴを発見した時の様子を振り返る。
「確かに、返り血を浴びた様子はなかったな」
エルヴィスは、エルシアの死体を見ながら、事件現場で遭遇したロドリゴのことを思い出す。
「これだけの刺し傷があるなら、返り血を浴びてもおかしくないわ。なのに、顔にも、服にも血が全くついていないなんて、不自然でしょう」
「先生は、ロドリゴがジェノバではないと考えているのですか?」
「あら、これは鉛筆?」
ケスバラレイムは、クロバラメイムの質問に答えないまま、床に落ちていた鉛筆を拾う。
「鉛筆がどうかしたのか、マダム?」
すると、ケスバラレイムは周囲を見渡した。
「スケッチ・ブックはどこにいってしまったのかしら?」
殺人事件の噂はすぐに参加者たちの間に広まった。騒ぎを聞きつけた仮面舞踏会の参加者たちが、事件現場の部屋の前に集まり始めていた。
「ごめんなさい、ちょっとどいて!」
人混みの中を押し分けて、ティファニーとクリスティーナが現場の部屋に近づこうとすると、ポリスたちに止められた。
「いけません、お嬢様。早く自室にお戻りください。まだ近くに犯人がいる可能性があります」
しかし、ティファニーが、ポリスたちの言葉に納得するはずなどなかった。
「どうして、だめなの!? 私たちはヴァレンタイン侯爵の孫娘よ」
「ヴァレンタイン侯爵のお孫様であっても、今は通すわけにはいかないのです。どうぞ、ご理解してください」
「でもっ!」
ティファニーがポリスたちと揉めていると、そこにポールがふらりと現れた。
「ティファニー、ここはお前たちみたいな苦労知らずのガキどもが来る場所じゃねぇぞ」
「ポール!」
「失礼ね! ポール! 私は立派なレディーよ!」
「へへへっ、社交デビューしてから、随分と生意気になったな、ティファニー」
「一体何があったの、ポール?」
クリスティーナがポールに問いかけると、彼の顔から気さくな笑顔が消える。
「サロンのメンバーが、また一人、殺されたみたいだぜ」
「サロンの? 次は誰が殺されたの?」
次の瞬間、布で覆われた死体が部屋から運び出されてきた。三人が道を開けると、ポールは言った。
「エルシアみたいだ」
「えっ!? エルシアがっ!?」
その瞬間、ティファニーはショックのあまり崩れ落ちる。
「ティファニー!?」
クリスティーナが急いでティファニーに駆け寄り、彼女の体を支えた。
「そんな、エルシアが殺されたなんて」
ティファニーは、その事実を受け入れることが出来なかった。エルシアとは、幼い頃から親交がある友人であった。彼女がイギリスのタウンハウスに滞在している時は、アフタヌーン・ティーやガーデン・パーティーによく招待されたものだ。そんな彼女の死を、受け入れることは出来なかった。
ティファニーが落胆する中、ポールとクリスティーナは、険しい目つきで、ポリスたちに運ばれるエルシアの遺体を見つめていた。
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