第2話 王子様を愛した罰

「待ちなさい!」

 ケスバラレイムは、人通りのない静かな廊下を足早に歩いていた。冷たい空気が漂う薄暗い廊下は、迷路のようにどこまでも続いている。赤いイブニングドレスを着た彼女が歩く姿は、まさに暗闇の中を揺らめく真っ赤な炎のようであった。ケスバラレイムが廊下を進むと、螺旋階段を駆け上がるジェノバを発見した。

「ジェノバ! あなたの仕業なの?」

 ケスバラレイムは、すかさず叫んだ。しかし、彼は、何も答えようとはせずに、二階の大広間へと入って行った。ケスバラレイムは、急いで階段を駆け上がり、彼の後を追って、大広間の重厚な扉を開け、室内に足を踏み入れると、そこには、凄惨な光景が広がっていたのである。

「まぁ、なんてこと……」

 ケスバラレイムは、眉間に皺を寄せて、口元を扇子で隠した。まもなくして、血の匂いが鼻につき、ケスバラレイムの顔が歪んだ。しかし、彼女はただのバラ臭い女ではない。探偵貴婦人、ケスバラレイム。彼女は、気丈な態度で、ゆっくりと歩み出し、長テーブルの上に仰向けで横たわる仮面の夫人の遺体を注意深く見つめた。彼女の胸には、短剣が突き刺さっている。夫人が着ている薄緑色のドレスは、赤黒い血に染まっているが、争った形跡はなぜか見られない。長テーブルの上に置かれた燭台は、ゆらゆらと燃え、椅子は整然と並べられている。

(あら不思議。白百合の花が一本添えられているわ)

 ケスバラレイムは、夫人の死体のそばに置かれた白百合の花に注目した。

「罪滅ぼしのつもり?」

 現時点でケスバラレイムには、この白百合が添えられた理由は分からなかったものの、この場所で殺害された可能性は低いだろうと考えていた。というのも、首に絞められたような跡があることから、どこか別の場所で殺害した後、犯人がこの大広間に運んだのではないかと、ケスバラレイムは推測していた。

「あら、見事に心臓を貫いているわね」

 するとここで、ケスバラレイムは、頬に冷たい風を感じた。窓のカーテンが揺れていることに気づく。

(窓が開いている。もしかして、ここからジェノバが……)

 ケスバラレイムは、少し開いた窓から城の外を見渡した。しかし、周囲に明かりはなく、深い闇に閉ざされている。

「どこに行ってしまったのかしら、私の王子様……」

 ケスバラレイムが溜息をつくと、大広間の扉が勢いよく開いた。

「先生! ここでしたか!」

 ケスバラレイムを追ってきたクロバラメイムが、息を荒らげながら、大広間に姿を現した。

「なっ、これは……」

 クロバラメイムが、おそるおそる長テーブルに近づくと、銀色の仮面をつけた中年の夫人が横たわっている。

「もう死んでいるわ」

「それくらい、見れば分かりますよ」

 クロバラメイムは、険しい目つきで、ケスバラレイムを見据える。

「一体、誰が何のために、こんなことを?」

「きっと嫌われてしまったのよ。王子様に」

「先生は、犯人をご存知なのですか?」

 その質問をした時、ケスバラレイムは、口元を歪めながら、再び窓の外に目を向けた。

「ええ、知っているわ。だって、私の王子様だもの」

「はっ?」

クロバラメイムには、彼女の言うことが理解出来なかった。

「あの先生、それはどういう……」

 クロバラメイムが言いかけた時、また大広間の扉が開いた。

「何をしている?」

黒い燕尾服を着た金髪の男が、険しい表情を浮かべて、大広間を見渡した後、長テーブルに横たわる夫人の死体に目を向ける。

「お前が殺したのか?」

 凄みのある低い声で、長身の男が尋ねると、クロバラメイムはすぐに身の潔白を主張した。

「違う! 僕はやっていない!」

「動くな!」

 男は声を張り上げると、背広の内ポケットから拳銃を素早く取り出して、銃口をクロバラメイムに向ける。

「待ってくれ! 撃たないでくれ。僕は怪しい者ではない!」

 クロバラメイムが両手を上げて、必死で誤解を解こうとすると、男は眉をひそめながら、再び口を開いた。

「ご夫人のご遺体の前に立つ、バラ臭い男女。それだけでも、十分怪しいと思うがな」

「くそっ――僕たちが、バラ臭いせいで」

 絶体絶命のクロバラメイムは、己の体臭を激しく憎んだ。

「あなたこそ、どうして、そんな物騒なものを持って、うろついているの?」

 ここでようやく、ケスバラレイムが、物騒な男に問いかける。

「俺は、ポリスだ」

「ポリス?」

「ああ、これが証拠だ」

 警察だと名乗る男は、クロバラメイムたちに警察手帳を見せつける。

「なぜこんなところにポリスが?」

「お前には関係のないことだ。それより、そこの女、早く俺の質問に答えろ。さもなくば、この引き金を引くぞ」

「くっ……」

 明らかに不利な状況に、クロバラメイムは完全に追い詰められていた。下手に動けば、この男は迷うことなく引き金を引くだろう。対峙する二人の間には、張り詰めた空気が漂っていた。だが、そんな絶体絶命のピンチの時にもかかわらず、ケスバラレイムは穏やかな微笑を浮かべながら、警察の男に近づく。

「そんなに怒らないで、刑事さん。今夜は、華麗なる仮面舞踏会よ。あなたも、パーティーに参加しているなら、最後まで楽しむべきよ」

 ケスバラレイムが軽く回って、手を伸ばすと、警察の男は鼻で笑う。

「ふっ、人が死んでいるというのに、随分と呑気な女だな。残念だが、今の俺にはお前の相手をしている暇はない」

「だけど、あなたは私と一緒に踊ることになるわ」

「どういう意味だ?」

「私が、このご夫人を殺した犯人を知っているからよ」

「何?」

「先生!?」

「あなたも、すでに知っているはずよ、刑事さん」

 警察の男が目を逸らし、しばらく考え込んでいると、ケスバラレイムは夫人の死体にゆっくりと近づき、彼女の青ざめた顔を見下ろしながら、犯人の名を言った。

「ジェノバ」


 ヴァレンタイン城の三階にある薄暗い部屋で、この城の持ち主の息子であるポール・ヴァレンタインは、文学サロンの痴女と呼ばれるイザベル・エルンスト夫人と束の間の情事を楽しんでいた。イザベルは、卑猥な喘ぎ声を出しながら、ベッドの上で尻を突き上げ、四つん這いになり、淫らな獣に成り果てていた。ポールが背後から己の昂りを叩きつけるたびに、イザベルの若く、しなやかな肉体は厭らしく前後に動き出す。

「ジェノバが欲しいか?」

「はぁっ、はぁっ、あっ、当たり……前……じゃない。かっ、必ず……手に入れて……みせる……ふぁっ、わ。ジェノバの愛……んあっ、を……」

「あんなハンサムな夫がいるのに、どこまで貪欲な女なんだ」

「うふふっ、あんな……つまらなっ、んん……い、おっ、男に……はぁっ、はぁっ、興味はないわ」

 イザベルが髪を振り乱しながら、唇を歪ませると、ポールは、熱く火照る肉塊を勢いよく引き抜いて、彼女の体に覆いかぶさる。そして、舌を絡ませながら、濃密な口づけを交わした後、ポールはイザベルの頬を軽く撫でる。

「おいおい、まだやるのか?」

「だって、私、まだ満たされてないんだもの」

 イザベルは、ポールの首に色白の細い腕を回して、抱きつき、甘える。

「またガキが出来たら、どうすんだよ?」

「うふふ、大丈夫よ。あの人鈍感だから、バレないわ。それにもう一人、欲しいって言っていたし」

 イザベルは、余裕に満ちた表情を浮かべた。 


 

 城の西側にある客室には、ボーモン夫人の亡骸がベッドの上に横たわっていた。

「ああ、僕の愛しいマリー! 目を覚ましてくれぇっ!」

 彼女の訃報の知らせを聞いて駆けつけた、夫のダニエル・ボーモン男爵は、彼女の冷たくなった体を抱きしめて、泣き叫んでいた。

「旦那様……」

 初老の執事は、妻を失った主人にかける言葉が見つからず、目に涙を浮かべながら、二人の姿を見つめていた。

 その頃、ボーモン夫人の亡骸が安置された客室の隣にある、談話室では、エルヴィス・ロックフェラーが、ケスバラレイムとクロバラメイムに手短な自己紹介をしていた。

「俺は、エルヴィス・ロックフェラーだ。よろしく」

「わざわざイギリスからジェノバを追ってきたなんて、余程の執着ね」

 ケスバラレイムは、ソファに座り、薔薇の匂いが染み込んだ扇子を優雅に仰ぐ。そのせいで、部屋中に強烈な薔薇の香りが充満していた。エルヴィスは、思わず顔を歪ませる。

「先程から思っていたが、お前は臭くないのか? クロバラメイム」

「いや、全く」

「やはりお前も、この女と同類か、ごほっ、ごほっ!」

「失礼な! 僕の薔薇は、先生と違って、もっとほろ苦く、清潔感のある匂いだ!」

 クロバラメイムはそう言って、胸のポケットに差した黒薔薇を抜き取って、エルヴィスの鼻に近づける。

「存分に嗅ぎたまえ! 僕の匂いを!」

「ぐおっ! なんて酷い臭いだ」

 エルヴィスが、思わず後退りをしてしまうと、出入り口の扉からノック音が聞こえてきた。

「どうぞ、お入りください」

 ケスバラレイムが返事をすると、扉がゆっくりと開いた。

「お取り込み中のところ、誠に失礼いたします」

 執事のカーティス・ホフマンが、会釈をして室内に入ると、その後ろからすぐにこの城の主である、クロード・ヴァレンタイン侯爵が杖を突きながら、ケスバラレイムたちの前に現れた。

「おお、エルヴィス君、君も来ていたか」

「ええ、もちろん。今夜も必ずジェノバが現れると確信しておりましたから」

 エルヴィスがハンカチを口に当てながら挨拶をすると、カーティスはケスバラレイムに近づいた。

「ひょっとして、あなたが噂の探偵貴婦人でございますか?」

 すると、ケスバラレイムは、妖艶な笑みを浮かべながら、真っ赤な口紅を塗った唇を歪ませる。

「そうよ。私がケスバラレイム。ちょうど滞在先のホテルに招待状が届いたから、なんとなく参加してみただけ」

「旦那様! 本当にいらしてくださいましたよ!」

「なんと、あの数々の難事件を解決してきた、凄腕の探偵貴婦人、ケスバラレイムが我が城にやってくるとは」

 クロードは目を輝かせながら、ケスバラレイムを見つめた。

「いやいや、全然凄腕じゃないですよ。肩書きは探偵でも、実際は舞踏会で気に入った若い男とダンスに耽っているただのおばっ……」

「クロバラメイム、あまり余計なことを言うと、刺されるわよ。この短剣で」

 ケスバラレイムは、テーブルの上に置かれた短剣で、クロバラメイムを脅した。

「あなた様は、私どもの最後の希望でございます。どうか、あの残酷なプリンスを捕まえてください。お願いします」

 カーティスがクロードに代わって、深々と頭を下げると、ケスバラレイムは首を横に振る。

「そんなことを言ってはだめよ。ジェノバはとても素敵な王子様。その辺にいる男よりもずっとダンスは上手いし、私を華麗にリードして楽しませてくれたわ」

 ケスバラレイムの発言に、カーティスは、クロードと目を合わせて驚愕してしまう。

「まさか、ジェノバに会ったのですか!?」

「本当か、マダム!」

 エルヴィスも驚いていた。

「ええ、突然現れて、突然消えてしまったわ。まるで風のように」

 ケスバラレイムは、寂しそうにジェノバのことを語った。本当は、もっと彼と一緒に踊りたかったのだ。探偵としてではなく、一人の女として。

「なぜ、そのことをもっと早く言わないんだ!?」

 エルヴィスは、声を張り上げる。

「あの時、ジェノバを捕らえていれば、ボーモン夫人は死ななかったはずなのに」

 カーティスは、ジェノバを取り逃したケスバラレイムに落胆する。

「これ、カーティス。ケスバラレイムさんは、我々の最後の希望だぞ。彼女の身に何かあったら、大変ではないか!」

「あっ、あの、皆さん、ちょっといいですか?」

 ここでクロバラメイムが、エルヴィスやクロード、そしてケスバラレイムたちをちらちらと見渡しながら、ある質問をする。

「さっきからジェノバ、ジェノバって、一体、ジェノバって何者なんですか?」

 クロバラメイムは、完全にジェノバの話題から取り残されていた。ケスバラレイムは、そんな哀れな助手に溜息をつく。

「はぁ、完全に時代から取り残されるタイプよね、あなた」

「だっ、だってしょうがないじゃないですか!? 僕だけ事前情報なしで、ここに無理矢理連れて来られたわけだし」

 クロバラメイムが頬を赤く染めながら言うと、エルヴィスがジェノバのことを話し出す。

「ジェノバは、二年前からこのヴァレンタイン城で開催される仮面舞踏会に現れては、貴婦人たちを次々と残忍な手口で殺害してきた、王子の仮面を被った凶悪な殺人鬼だ」

「さっ、殺人鬼だって!?」

「ボーモン夫人を含めますと、すでに七人も殺害されております。これ以上、ジェノバを野放しにしておくわけには参りません」

「ジェノバを野放しにって、だったら、最初から舞踏会なんて開かなければいいじゃないですか? 僕みたいにダンスが超絶下手くそな連中のためにも。皆さんもそう思いません?」

 クロバラメイムが仮面舞踏会の即時中止を訴えると、クロードは首を横に振る。

「仮面舞踏会は、我がヴァレンタイン家の初代当主から続く由緒あるイベント。そう簡単に中止するわけにもいくまい。それに……」

「えっと、じゃあ、中止に出来ないなら、囮の娘たちを使って、ジェノバを誘き寄せたりすればいいじゃないですか?」

「その作戦も、前回の仮面舞踏会で実行したが、ジェノバは全く関係のない別の夫人と踊って、再び姿を消してしまった」

「つまり、王子様は、警察の動向をすでに把握しているということね」

「そうだ。ジェノバは、おそらく我々の動向を常に警戒し、なおかつこの城の内部に精通した人物の可能性が高い」

「ということは、ジェノバは、ヴァレンタイン城の関係者ということですか、先生?」

「現時点では、その説は有力かもしれないわね」

「ジェノバの正体を掴めば、捜査は大きく進展するはずだ。そのためにも、探偵貴婦人の異名を持つあんたに是非、我々の捜査に協力して欲しい」

 エルヴィスは、ハンカチを口から離して、ケスバラレイムの顔を力強い眼差しで見つめて、捜査への協力を要請する。

「別に構わないわ。けど、私、王子様にすでにマークされてしまったかもしれないわよ」

 ケスバラレイムは、自分の身に忍び寄る脅威をすでに感じ取っていた。












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