ケスバラレイム

鏡原ノイミ

第1話 探偵貴婦人 ケスバラレイム

 苦しみに満ちたお前を見た

 そして若く優美なお前を見た

 高貴なる黄金のように

 変わることのない気持ちが

 心の中で大きくなっていく


 詩人 カール・イシドール・ベック




 夕暮れ時のウィーンの街を行き交う人々は、薔薇の香りに酔っていた。というのも、今日は、妙に街中がバラ臭いのである。しかも、この香りを嗅ぐと、なぜか今にも舞い上がりそうな程に、気分が晴れやかになってしまうのだ。これは、魔法か。それとも麻薬か。それは、人々の思考を麻痺させてゆく、不思議な匂いであった。

 ウィーンの街中で遊ぶ貧しい労働者階級の子どもたちは、軽やかにスキップをしている。花屋の娘は、通行人に花を配りながら、楽しそうに歌っている。ショッピングを楽しむ貴婦人たちは、訳もなく、両手を広げて踊り出す。そして、見知らぬ男たちに手を差し伸べ、陽気なステップを踏んで、ダンスを始めようとしている。


 この奇妙な行動は、全て、あの女の肉体から放たれた、薔薇の香りのせいであった。


 鬱蒼とした針葉樹に囲まれた崖の上に聳え立つ古城を目指して、一台の馬車が、ウィーンの街を颯爽と駆け抜けていた。馬車の中では、黒薔薇を上着のポケットに差した端正な顔立ちをした青年が、不機嫌そうに頬杖をして、窓の外に広がるウィーンの美しい街並みを眺めている。

「ウィーンの人たちって、本当に踊るのが好きなのね」

 赤い薔薇が胸元についたイブニングドレスを着こなす、国籍不詳の探偵貴婦人、ケスバラレイムが、助手のクロバラメイムの顔を見て、にこりと笑う。

「違いますよ。先生が放つ薔薇の香りのせいで、この街の人々の頭がおかしくなっただけです」

 クロバラメイムが刺々しい口調で言い放ち、彼女を睨みつける。

「まぁ、随分と機嫌が悪いのね、クロバラメイム」

「当然ですよ。また先生のお遊びに付き合わされるなんて、まっぴらごめんです」

「たまには息抜きも必要よ。それに、あなたもすぐに惚れ込むわ。このウィーンの美しさに」

 ケスバラレイムは、恍惚とした眼差しで、走馬灯のように移り変わる、豪奢な装飾が施された歴史的建造物に視線を向ける。

「息抜きって、先日もブタペストの舞踏会に参加したばかりではありませんか!?」

 生真面目で完璧主義者のクロバラメイムは、仕事よりも、娯楽を優先するケスバラレイムのやり方に納得が出来なかった。

「どうして、そんなに嫌がるの? あんなに楽しいところ、何回行っても全然飽きないわよ、私」

 ケスバラレイムの言葉に、クロバラメイムは大きな溜息をつく。

「言っておきますが、僕は男女の駆け引きなんて、全く興味がありません」

 クロバラメイムは、腕を組んで、はっきりと主張した。

「女を知らないまま、枯れ果ててしまう、あなたのことが心配なのよ」

 ケスバラレイムの嫌味が、クロバラメイムをさらに苛立たせる。

「大きなお世話ですよ、先生。それに僕は、あなたの遊びに付き合うために、ここに来ているわけではありませんからね」

「本当に真面目な子ね、クロバラメイムは。だけど、あなたのような頭が固くてバラ臭い男は、社交界では疎まれるわよ」

「バラ臭いのは、お互い様でしょう?」

 クロバラメイムは、そう言って、鼻で笑う。

 実際、馬車の中は、二人の肉体から放たれた強烈な薔薇の香りが充満していた。もし、普通の人間がそこにいたならば、おそらく気絶してしまうだろう。

「同じ薔薇でも、私の香りは、人々を幸せな気分にするのよ。だって、ほら、みんな楽しそうに踊っていたじゃない?」

 ケスバラレイムが、得意げに話すと、また甘い薔薇の香りが、クロバラメイムの肉体から滲み出るほろ苦い香りと対峙する。

「それは、単なる幻想だ。僕は、あなたのそばにいても、一度だって幸せな気分になったことなど……」

「あら、見えてきたわよ。今夜の舞台が」

 パリのヴェルサイユ宮殿を思わせるような荘厳で華麗なバロック様式の城が見えてきた。ケスバラレイムは、胸を躍らせながら、その古城を愛おしそうに眺めていたが、一方のクロバラメイムは、不満に満ちた眼差しで、見据えていた。

 二人を乗せた馬車が、広壮にして壮麗な城門を通ると、百合のレリーフが彫られた、黄金の扉の前で止まった。白いアイマスクをつけた、使用人の男たちが、ゆっくりと扉を開けて、ケスバラレイムたちを出迎えてくれた。すでに、ホールの中からは、賑やかな笑い声が聞こえていた。

「さぁ、思う存分、踊り狂いましょう」

 ケスバラレイムは、不敵な笑みを浮かべながら、新鮮な獲物を狙うハンターのような鋭い目つきを覆い隠すように、銀色のアイマスクを装着した。そして、馬車の中から降りて、ドレスの裾を靡かせ、颯爽と歩み出した。その姿は、まさに燃え盛る炎のようであった。


 ダンスホールの扉が開くと、そこには、仮面をつけ、身分や職業を隠した男女たちが、ワイングラスを片手に、挨拶を交わしていた。そして、女主人と談笑をしている紳士たちとは対照的に、優雅に扇子を仰ぎながら、今宵のパートナーを物色する貴婦人たちの姿があった。広々とした板張りのダンスホールを照らす、シャンデリアの下では、男と女の駆け引きが、すでに始まろうとしていたのである。

「まぁ、素敵なホールね」

 今夜の仮面舞踏会に胸を躍らせていた、ケスバラレイムは、早速、フロアの中央に向かって、歩み出す。

「待ってください、先生! 勝手な行動は控えっ……」

「きゃあっ!」

 ケスバラレイムの後を慌てて追いかけようとした時、クロバラメイムは、青空を連想させる水色を基調にした爽やかなイブニングドレスを着た、一人の娘と肩をぶつけてしまう。

「おっと、すまない」

 クロバラメイムは、英語で謝罪した。すると、頭に水色のリボンをつけたプラチナ・ブロンドの娘は、彼を睨みつける。

「どこ見てんのよ!? この間抜け!」

 この会場では珍しく、仮面をつけず、目鼻立ちがはっきりした美しい素顔を曝け出す、娘は、見た目とは裏腹に、挑発的な言葉でクロバラメイムを威嚇した後、ドレスの裾を持ち上げて、ぎこちない足取りで走り去って行った。

(なんなんだよ、あの娘!? わざとじゃないのに!)

 華麗なる仮面舞踏会に来て早々、腸が煮えくり返ってしまった、クロバラメイムは、鼻息を荒くして、彼女の背中を思いっきり睨みつけてやった後、大きな溜息をついてしまう。

(ああ、早くホテルに帰りたい)

 ただでさえ、人が集まる賑やかな場所が苦手であった。クロバラメイムという青年は、無駄にお喋りなくせに、図書館や人気のないカフェなど、静かな場所を好む男であった。よって、このような仮面舞踏会は、彼にとって激しく苦痛であったのだ。

(これも仕事なのか? 本当に探偵の仕事なのか?)

 壁際に一人立ち尽くすクロバラメイムが、自問自答を繰り返していると、ケスバラレイムの周りには、すでにアイマスクをつけた男たちが次々とダンスの申し込みをするために集まっていた。

「僕と一緒に踊りませんか、マダム?」

 しかし、ケスバラレイムは、妖艶な微笑を浮かべながら、彼らの横を素通りする。残念なことに、彼女にふさわしいパートナーは、まだここには現れていないのだ。ケスバラレイムが、男たちの誘いを次々と断りながら、ダンスホールの中央に向かってゆっくりと歩み出すと、プロの楽団によるオーケストラの演奏が始まった。

 令嬢や貴婦人たちは、早速、壮麗な『カルメン幻想曲』の音楽に乗って、素性の分からぬ男たちと踊り始める。だが、ケスバラレイムは、演奏が始まっても、堂々と胸を張って、ダンスを楽しむ男女の間を歩み続ける。

「ふふふ、見つけた。私の王子様」

 ケスバラレイムが、そう言って足を止めると、軽やかなステップを踏む男女の隙間から、赤いマントを揺らしながら歩む、一人の長身の男が現れた。彼は、黄金の蝶のアイマスクをつけている。その風貌は、おとぎ話の中から突然現れたプリンスのようであった。男は、ケスバラレイムの姿を目にした瞬間、胸に手を当てて、こう言った。

「おお、なんて美しいご夫人なんだ」

 男は、透き通るような声で、ケスバラレイムの美貌を褒め称える。そして、彼は迷うことなく彼女の前で膝をついて、真珠のように色白の手を差し出す。

「是非、僕と一緒に踊ってください、マダム」

「もちろん」

 ケスバラレイムは、うっとりと微笑みながら、その美しい手を取った。すると、黄金の仮面の男は、静かに彼女の手の甲に軽いキスをして、ゆっくりと立ち上がった。

 早速、仮面の男は、ケスバラレイムをキレのあるステップでリードした。そして、ダンスを楽しむ男女たちの間を軽やかに通り抜け、赤いマントをひらひらと揺らしながら、二人だけの世界に浸ってゆく。

「私の名前は、ケスバラレイム。あなたの名前は?」

 だが、仮面の男は、すぐには答えなかった。まずは挨拶代わりに、躍動感のあるオーバーターンをした後、静かな声で名を明かす。

「ジェノバ」

「ジェノバって言うのね。素敵な名前じゃない?」

「ありがとう。これは、僕にとって、大切な名前なんだ」

「そう」

 ここで、ジェノバが、長剣を腰のベルトに差していることに気づく。

「ところで、あなたは、どこから来たの?」

 ケスバラレイムは、彼の耳元に唇を近づけ、さりげなく尋ねると、ジェノバは、ニヤリと笑ってはぐらかす。

「私だけに教えて」

 甘いおねだりに、仮面の男は、ようやく小さな声で囁いた。

「白百合が咲き誇る城からやって来たのさ」

 彼の答えに、ケスバラレイムは、思わず唇から笑みがこぼれる。

「なんてロマンチックな嘘なのかしら」

「ふふふ」

「あなたのこと、もっと知りたいわ」

「すまない、マダム。これ以上、僕の素性を明かすことは出来ない」

「そう。それは残念だわ」

 ジェノバは、なぜか自分の正体を明かすことを拒み続ける。だが、オーケストラの壮大な音色が響き渡る中で、ケスバラレイムは、この素性の分からない男に夢中になってゆく。

「ならその代わり、今夜だけは私だけの王子様でいて、ジェノバ」

「今だけは、あなただけの王子様でいましょう、マダム」

 約束を交わした二人は、フロアの中心で、大きなスイングをして見つめ合う。もちろん、この時のケスバラレイムは、自分に向けられた鋭い視線に気づくはずなどなかった。

「あれはジェノバだわ」

 ホールの壁際のソファに座る若い娘たちが、恨めしそうに二人を見つめていた。

「ああ、私のジェノバ様!」

 アイマスクをつけ、ダイヤモンドやルビー、そしてパールなどのアクセサリーで着飾った娘たちは、社交界のプリンス、ジェノバの姿に釘付けとなっていた。この時、ジェノバだけでなく、他の男にさえ相手にされない、壁の花となった彼女たちは、ケスバラレイムに対して、激しい嫉妬を抱いていたのである。

「なんなの、あの東洋人は?」

「さっきからジェノバ様を独り占めして。私だって彼と踊りたいのに」

「残念だけど、それは不可能よ」

「なぜ?」

「ジェノバは、社交界の絶対的なプリンス。彼が私たちみたいな小娘と一緒に踊るなんてありえないわ」

 ジェノバは、社交デビューしたばかりの娘にとっては、憧れの存在であった。このヴァレンタイン城にだけ現れる、初々しい娘たちを翻弄する謎の男。彼に関する全ての情報が謎のベールに包まれているにもかかわらず、紳士的な振る舞いと魅惑的なダンスのテクニック、そして醸し出されるミステリアスな雰囲気が、うら若きデビュタントの心を惹きつけてしまうのである。

 ジェノバ目当てで、この仮面舞踏会に参加した娘たちは、淡い期待を抱きながら、ジェノバの誘いを待ち焦がれていた。

「ところで、あの女は何者?」

 優雅に扇を仰ぐ一人の伯爵令嬢が、この辺りでは見かけない東洋人の女に興味を抱く。

「どこからどう見ても、東洋人の女よね?」

「東洋人が、こんなところで堂々と、よく踊れるわよね?」

 彼女たちの冷ややかな視線などおかまいなしに、ケスバラレイムは、堂々とジェノバと踊り続けている。

(ふん、ダンスのどこが楽しんだ? 僕には全く理解できん)

 陰口を言う娘たちのすぐそばで、クロバラメイムは、腕を組んで、ふてくされた表情を浮かべながら、軽蔑に満ちた視線を彼女に向けていた。ダンスが嫌いなクロバラメイムに出来ることと言えば、必死で不満や苛立ちを抑えながら、壁際で立ち尽くすことぐらいしかなかったのである。

「ねぇ、あなた、今一人?」

 ピンク色の蝶の羽がついた仮面を身につけた、まだあどけなさが残る銀髪の少女に、声をかけられた。

(珍しいな。女の方から話しかけてくるなんて。もしかして、ダンスの誘いか?)

 この時、クロバラメイムは密かに動揺した。と言うのも、社交界では普通、女性から男性を誘うのは、マナー違反であったからだ。

(ふん。どうせ、世間知らずのデビュタントだろう)

 クロバラメイムは、彼女から目を逸らし、聞こえないふりをする。

(そもそも、こんな娘の相手をするほど、僕は安上がりな男ではないのだよ)

 しばらくの間、クロバラメイムは、口を閉ざし、無視を続けていた。しかし、おそるおそる片目を少し開けてみると、彼女はまだ彼の前に立っていたのである。

(まだいるのか、この娘。全く、しぶといやつだな)

 嫌がるクロバラメイムとは対照的に、娘は、不思議そうに彼を見つめていた。どうやら、一人だけ仮面をつけていないクロバラメイムが物珍しいようだ。

「そんなところに立っていて、退屈じゃないの?」

 だが、クロバラメイムは、何も答えない。

「どこから来たの?」

 相変わらず、クロバラメイムは、彼女の問いに答えようとしない。すると、彼女は、自分の名前を明かして、安心させようとする。

「私は、ティファニー! もちろん、偽名じゃないわよ」

 しかし、これぐらいのことで、小難しいクロバラメイムが、心を開くはずなどない。

「英語、話せる?」

 もしかして、自分の言葉が通じていないのではないかと、ティファニーは不安になった。

「私の言葉、理解できる?」

「全く、うるさい小娘だ」

 クロバラメイムが、ようやく流暢な英語で返すと、ティファニーは頬を染めて、満面の笑みを浮かべ、喜んだ。

「あら、良かった! 私の言葉が理解できるのね?」

 安堵したティファニーから離れようと、クロバラメイムは突然歩み出す。

「ねぇ、一緒に踊らない?」

「断る。僕はダンスに興味がない」

 クロバラメイムは、刺々しい口調で断った。しかし、ティファニーは、慌てて彼の後を追う。

「じゃあ、なんでここにいるの?」

「君には関係ないだろ!」

 クロバラメイムは、このしつこい少女に付きまとわれて、すでにうんざりしていた。

(レディーの前で、生まれてから一度も女性と踊ったことがありませんなんて、言えるわけないだろ)

 かっこ悪いところを見られたくなかったクロバラメイムは、意地でも誘いを断るつもりであった。しかし、ティファニーは、まだ彼のことを諦めていない。

「あっ、分かったわ。もしかして、ダンスが下手すぎて、パートナーにフラれたんでしょ?」

 彼女の核心を突く質問にギクリとしながらも、クロバラメイムは、咳払いをして、気丈に振る舞う。

「ゴホン。失礼な! 勝手な憶測はやめっ……」

「元気出して! 私が一緒に踊ってあげるから」

 ティファニーは、クロバラメイムの腕を掴み、強引に引っ張りながら、優雅に踊るカップルたちのもとへ連れて行こうとする。

「君! ちょっと待ちたまえ!」

 クロバラメイムは、必死で彼女の手を振り払おうとしたり、足に力を入れて立ち止まろうとしたりして、とにかく絶対に人前で踊りたくないということを全身を使って表現をしてみた。しかし、ティファニーは嫌がる彼のことなどお構いなしに、にこりと可愛らしい笑みを浮かべながら、振り返る。

「安心して! 私がちゃんとリードするから!」

「待ってくれ! リードは普通、男がするものだろう?」

「細かいことは気にしないの! ダンスは楽しくなくちゃ、意味ないわ! さぁ、来て!」

「うがっ! あっ、足攣ったぁ!」

 こうして、持久戦に敗れたクロバラメイムは、ティファニーのパートナーとなってしまった。


 ダンスホールは、すでに妖しい熱気に包まれていた。ジェノバは、ケスバラレイムの身体から滲み出る甘い薔薇の香りを堪能しながら、巧みに歩調を合わせる。この時、ジェノバの素性などどうでも良くなっていたケスバラレイムは、ただ彼のリードに夢中で従っていた。

(不思議な王子様。どうして、こんなに私を夢中にさせてしまうのかしら……)

 ケスバラレイムは、ますます彼に興味を抱いていた。しかし、ジェノバは、彼女の熱い視線を浴びながら、淡々と踊り続けている。仮面越しの駆け引きを楽しむ二人の視界には、もはやクロバラメイムの悲鳴など入らなかった。

「イッ、イタッ! あう! イタタッ!」

 ダンス初心者のティファニーに何度も足を踏まれ、クロバラメイムは壊れたロボットのように、ぎこちないステップを踏んでいた。

 だが、踊ることに必死なティファニーには、もはや謝る余裕などない。まもなくして、クロバラメイムの膝に彼女のヒールのつま先が当たってしまう。

「あひっ! たっ、頼むから、ちゃんとリードしてえぇぇ!」

 ティファニーのひどすぎるリードによって、クロバラメイムは、英語を話す余裕さえなくしていた。

(なんで、僕がこんな酷い目に遭わなくちゃいけないんだ!)

 クロバラメイムが激しい屈辱を味わっていると、周囲から、男女の笑い声が聞こえてきた。挙げ句の果てに、壁の花たちにさえ、嘲笑されてしまう始末。お互いにダンスが下手すぎるせいで、いつの間にか、クロバラメイムとティファニーは舞踏会の笑い者になっていたのだ。

(恥ずかしい! 恥ずかしいよおぉっ! 恥ずかしすぎて、頭がおかしくなりそうだよ!)

 羞恥心と足の痛みで、身も心もボロボロのクロバラメイムとは対照的に、ティファニーは、真剣な表情を浮かべて、自分のステップに集中していた。レッスンの通りにコントラ・チェックをしようと、美しいボディラインを意識することに夢中になりすぎて、今、流れている音楽やクロバラメイムの悲鳴、そして、周囲の雑音も、彼女の耳には入ってこなかったのである。

「ひえぇっ! 誰でもいいから、僕を助けてえぇっ!」

 とにかく、この少女の忌まわしいステップから解放されたいと強く願った、クロバラメイムは周囲に助けを求めた。しかし、彼の声は、すぐにヨハン・シュトラウス二世の優雅なワルツの音色によって、掻き消されてしまう。

 すると、ここで、クロバラメイムとティファニーが、ケスバラレイムの後ろを通り過ぎた時、ジェノバは、突然、こんなことを言った。

「本当は、もっとあなたと一緒に踊り狂いたい。だが、しかし……」

 突然、ジェノバの顔から笑顔が消えた。ケスバラレイムは、すぐにその異変に気がついた。

「ジェノバ?」

「そろそろ時間だ」

「えっ?」

「さよなら、美しい薔薇の女神よ」

 ジェノバが、ケスバラレイムに別れの言葉を告げた瞬間、シャンデリアの光が次々と消えてしまったのである。ダンスホールは、たちまち深い闇に包まれ、華やかな演奏も止まってしまった。

「きゃあぁっ!」

「一体何が起こったんだ?」

「なぜ急に暗くなってしまったんだ?」

「暗くて、何も見えないわ!」

 ダンスホールは騒然とした。どうしていいか分からず、助けを求めて、若い令嬢がぎこちない足取りで走り回ったり、光を失ったシャンデリアを見上げて、困惑する有閑階級の紳士たちが呆然と立ち尽くしていた。この突然の闇を目の前に、舞踏会の参加者たちにはなす術がなかった。視界を奪われた彼らは、ただ動揺することしか出来なかったのである。

 一生懸命踊っていたティファニーも、さすがに足を止めて、天井を見上げた。とはいえ、彼女には、慌てた様子はない。

「停電か?」

 暗闇の中で、クロバラメイムがとっさに天井を見上げた時のことだった。

「うわっ! 眩しい!」

 ダンスホールが騒然とする中、突然、シャンデリアが眩い光を放ったのである。そして、中断していたオーケストラの演奏が何事もなかったかのように、いきなり再開したのである。すると、先程まで動揺していた男女たちは、再び踊り出した。

「ジェノバ……」

 だが、パートナーを一瞬のうちに失ったケスバラレイムは、ぽつんと一人立ち尽くしていた。

「先生!」

 クロバラメイムは、とっさにケスバラレイムの方を振り向いた。すると、彼女は、足早に扉の方に向かって歩み出したのである。

「えっ、あっ、ちょっ、先生! 先生、どちらに!?」

 クロバラメイムが慌ててティファニーの手を振り払って、彼女の後を追いかけようとした。

「ちょっと、どこに行くのよ?」

 ティファニーは、すかさずクロバラメイムを引き止めようとする。やっと見つけたパートナーをそう簡単に手放すはずがなかった。

「どきたまえ、小娘! 君と呑気に踊っている暇はないのだよ!」

 クロバラメイムはティファニーに吐き捨てるように言った後、人々の群れを掻き分けて、ダンスホールを出て行った。一人取り残されたティファニーは悲しむかと思いきや、なぜかにこりと笑っている。

「残念だけど、私、そんな簡単にあなたのこと諦めたりしないからね」







  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る