『異音』

寝袋男

第1話

これは10年ほど前、私が東京に出てきた頃の話だ。

当時土地勘もないがお金もなく、兎に角安い物件を探して回っていた。物件探しも手広くやればお金も時間も掛かってしまう。終盤は面倒臭さも感じていて、結局神奈川寄りの、少し辺鄙な物件に決めてしまった。風呂もトイレもあるのに、家賃はかなり安い。曰く付きかを疑ったが、それを聴いて仕舞えばこの部屋には住めなくなってしまう。私は黙ってその部屋、203号室を借りることにした。


貧しいなりに一丁前に備わっているプライドで、隣人用に菓子折りを二つ調達した。


202号室には女が住んでいた。美人なのかもしれない。しかし艶のない髪、やつれた頬とよれて草臥れたTシャツがその認識を阻ませる。ゆるんだ襟元から不健康に荒れた肌を無駄に露出させており、見たくもないが目のやり場に困った。

菓子折りを渡すと、「お茶でも飲んでいったら?」と尋ねられ、少し怖かった。

丁重にお断りする。もっと警戒すべきだろう。東京に対して思い描いていたものが徐々に傷んでいくような気がして、反対側の205号室(古いアパートで204号室は欠番)へ向かうのが億劫になった私は、メモ書きを添えた菓子折りをドアノブにかけて自室に戻った。


独り暮らし最初の夜。まだ調理具も持ち合わせていない為、近所で買った総菜を口に運ぶ。家族もテレビもない部屋で、たまに聞こえるのは隣の生活音。総菜がやけに味気なく感じる。それどころか、202号室の女がちらついて、嫌な風味すら感じつつあった。酒でも買って来れば良かった。酒さえあればもっと楽しかったんじゃないかという思いが徐々に侵食してきて、箸を持つ手が止まる。こうなったら買わずにはいられない自分のわがままさに辟易しながら、コートに小銭を突っ込んで部屋を出る。

階段を降りる時にふと205号室を見ると、引っ掛けておいた菓子折りがなくなっていた。


コンビニで発泡酒を二本買い求め、帰路につく。まだ少し肌寒い。

月が綺麗なことが救いの様に思えた。

アパートに着くと前に男が立っていた。サラリーマン風、30代だろうか。

中肉中背で色が白く印象が薄い感じの男だ。

住人か管理会社の人間かもしれないと一応挨拶するが、男は一瞥もせずアパートを見つめている。自分の部屋に戻り、気持ち強くドアを閉めた。東京はこんな変な人ばかりなのだろうか。警戒心が無かったり、冷たくてドライだったり。不動産屋はまともに見えたが、流石に二人連続で気味の悪い人間に出遭うとどうしても心配が募っていく。コートも脱がず立ったまま発泡酒のプルタブに指を掛ける。カシュッ。言いたい文句や不安を腹の底に沈める様に一気に煽る。1本目を飲み干した頃には、自分は何をしているんだろうという思いに駆られ、2本目を飲み終えた頃には何もしたくなくなって丸くなって眠った。


嫌な夢を見た。


布団が必要だ。それが朝目覚めた時の感想だった。寒くて起きたし身体は痛かった。近所のホームセンターの開店時間に向かい、布団一式のセットを買い、せっせと自宅に運んだ。少しは部屋らしくなった気がする。お陰でその晩、アルバイトからの帰路も、今日は温かい布団で眠れると、部屋に帰るのが楽しみだった。


深夜に差し掛かる頃帰宅し、食事を手早く済ませて布団に潜り込む。

温かさ、包まれていることの安心を改めて実感する。これでようやく人間らしい生活に近づいたと思った時だった。

カリカリと物音がした。虫か?鼠か?と思うが、音が移動している様子はない。

壁から聞こえる。何かを引っ掻く様な音。よくよく耳を澄ますとくぐもった女の声の様な物も聞こえてくる。

「・・・っ・・・ん・・・」

隣の女。202号室の女を連想する。最初は心配になったが、性的な物を連想し出すと沸々と怒りが湧いてきた。音はまだ続いている。起き上がって怒鳴りつけるか、壁でも叩こうかと思った。それこそ10年後の今の私ならなんらかアクションを起こしたかもしれない。しかし当時はそんな勇気がなかった。布団を深く被り目を閉じた。


朝。結局最初の2時間くらいは上手く寝られなかった。音のした方の壁を睨む。

そこであることに気がついた。まだ住み慣れない真っ暗な部屋にいたせいで方向を勘違いしていたが、壁は202号室ではなく205号室側の壁だった。怒鳴り付けなくてよかった。結局205号室の住人がどんな人物かも分かっていない。もし美人だったら、と邪な妄想が頭をもたげる。しかしそんな妄想も30分後には砕け散った。

部屋を出ると、同時に205号室から男が出て来た。「おはようございます」と声を掛けるが、無視された。よくよく見ると一昨日の夜、アパートの前にいた男だ。あの時と同様スーツだから見分けがついた。隣人だったとは。これで両隣変な人間に挟まれたことになる。ということはあの壁から聞こえる女の声は、この男の彼女か妻か。

階段を降りていく男の背中を睨む。菓子折りのお礼すらない。冷たくて小さい男だ。

無駄に消えた金を思って唇を噛む自分の小ささには、当時気付くことが出来なかった。


音は続いた。女の声も。


隣人が男となると更に弱気になっている自分に反吐が出る。

しかし何もできない。苛立ちが募る。

疲れた夜は気絶する様に眠ることが出来たが、そうじゃない夜は沸々とした感情を抑え込んで、携帯でネットサーフィンをしながら眠りに落ちるのを待った。


当時私はよく体験談投稿サイトに入り浸っていた。

怖がりの癖にお気に入りは心霊体験やオカルト系。

ほぼほぼ毎晩いるせいで、大抵の面白い話は読み尽くしてしまっている。

それでも新着体験談を求めて、その晩もサイトにアクセスした。

「4号室」

新着体験談はそんなタイトルだった。

投稿者は去年とあるアパートの【3号室】を借りたという。

数日経ったある晩、壁から女の声が聞こえる様になった。

最初は好奇心で聞いていたが、徐々にうるさいと感じるようになって大家に問い合わせると、隣の【5号室】は空室だと言う。

隣室に新しい入居者が来ても、女の声は続いた。

あるはずのない【4号室】から聞こえる声。


投稿者はすぐに引っ越したという。だから真相は分からない。

オチがあるわけでもないし、内容も使い古されたものと言える。

しかし今の自分には他人事とは思えなかった。

つい耳を澄ませてしまう。音から気を散らすために携帯に見入っていたはずなのに。

「・・・ぅ・・・ん・・・っ・・・」

女の声だ。間違いない。この体験談はこの部屋なんじゃないだろうか。

だから家賃も安かったんじゃないか。

まんじりともせずただただ聴覚に集中してしまう。

気付くと音に変化があった。いつの間にかカリカリではなく、ずず、ずずと何かが擦る音になっていた。

前に読んだひきこさん、カシマレイコといった都市伝説が脳裏に蘇ってくる。

血まみれの女が暗闇の中、ナニかを擦って動いてる。そして、少しずつこちらに向かってる。動くということは、そこに何かの意思がある。女は何を求めて、何処に向かってるんだ?目を瞑れば妄想が這って迫り、開ければ闇の中に女がいる様な気がした。照明をつけるにも、もし物音を立てて相手に感づかれたら?こちらの存在がバレていないから、毎晩の音で済んでいるのかもしれない。身体に比べて脳は目まぐるしく思考していた。気付くと呼気が荒い。自らの心音が聞こえる。心音がその音量を増していく。壁の音が聞こえないじゃないか!ヤツが何処にいるか分からなくなる!

心音に紛れて・・・っ・・・んっ・・・と湿った声がすぐそこで聞こえた。いつもより近くに。何処だ?息を止めて暗闇の中を見つめる。女の顔があった。


そこで目が覚めた。自分が血まみれなんじゃないかと思う程、汗でぐっしょり濡れていた。深く呼吸をして、現実と夢の判別をつける。いつ寝たのだろう。何処から夢で良いのだろう。その日は不安が拭えなかった。


私は体験談投稿者同様、101号室に住む大家を訪ねた。

あまり愛想が良いとは言えない、四角い印象の年配の男性だ。

「どちらさま?」

入居日に軽く挨拶した程度だ。覚えていなくとも無理はない。

「203号室に住んでる者です。先日ご挨拶した。」

「ああ、あの人ね。で、なに?」

手短に済ませたい様子なので、単刀直入に質問した。

「203号室なんですが、曰くつきの物件だったりしませんか?人が死んだりとか」

大家は目を大きく開くと、私を部屋に勢いよく引き入れた。

「そんなこと大きな声で言ってくださんな。これ以上家賃下がったら困るんだ。」

「じゃあやっぱり」

「違う。うちにそんな部屋ないよ。でもちょっとでもそういうの広まったら困るでしょ。悪いね急に引っ張ったりして。」

「え、じゃあ、本当に何もないんですか?」

「本当だよ。家賃が安いのは、単に古くて立地がね、良くないの。不動産屋がそんな風に言ってたよ。大家たって生活は楽じゃないんだから、変な噂立てないどくれ。」

私は体験談の投稿者を思い出して訊ねる。

「去年、入居してすぐに引っ越した人はいませんでしたか?」

「ん?いや、あんたが引っ越してくる1か月前まで住んでた人は、もう4年くらい住んでたね。いや、5年だったっけ?」

曰くつきの物件でもなく、体験談に投稿された部屋でもない。

じゃああの女の声は?やっぱりあの男の?

私が黙っていると、大家は痺れを切らしたように尋ねてきた。

「で、なにかあったの?203号室で。」

私は壁から聞こえる音と女の声について話した。

205号室の男への個人的な感情も籠っていた。

非難する大義名分を得たと、私はつらつらと話した。

「そりゃーお隣さん女性だもん。多少の声や音はしょうがないよ。古いアパートなんだし。若いんだから贅沢言っちゃいけない。」

「いや、202号室の方じゃなくて、205号室側の壁です。」

「いや、だから両方女性だよ、住んでるのは。202も205も女の人。」

「205号室は男が住んでるんじゃないんですか?」

「いや、正真正銘女性だよ。女性一人。」

なら、声がしたって当然じゃないか。何を自分はビクビクおびえていたんだろう。

急に力が抜けて、玄関に背中を預ける。

「ところであんた、さっき男って言ってたけど、205号室から男が出て来たの?」

「そうですけど…」

「どんな男?」

「どんなって…スーツを着ていて、色が白くて、あまり印象がない感じの」

「毎晩呻き声がした?」

私は頷く。

大家が急に苦い顔をして、私を押しのけて部屋を出る。

「どうしたんですか?」

階段を急ぎ足で昇っていくので後ろについていく。

大家は205号室のドアをノックした。

「大丈夫ですか?」

返事はない。

「大丈夫ですかって・・・。」

「あんた下がってて。」

大家は私を下がらせて鍵の束を取り出すと、205号室の鍵を開けた。


音と声の正体は、無惨な姿で発見された。

強か痛めつけられており、その顔は原型を留めない程殴打されていた。

歯は殆どが抜けるか折れていて、口腔内と喉は腫れてまともに発声出来る状態になかった。縛られた四肢も骨が砕けて、その先にある手の指先は爪が剝がれていた。

私が聴いていたカリカリと言う音は爪の音で、音が変わったのは、と考えるだけで胃液がこみ上げてくる。


私が見たスーツの男は女の夫だった。

女は凄惨なDVから身を守るために失踪、夫から身を隠すために安いアパートを転々としていたという。大家は事情を知った上で、偽名での契約に応じていた。

しかしそんな甲斐もなく、ついに男は彼女を見つけたらしい。私が越してきた晩だ。


警察からもマスコミからも「なんでもっと早く異音について調べなかったのか」と問い詰められた。その通りだ。私にはなんとか出来たのかもしれない。

冷たいのは自分じゃないかと思った。


男は結局見つかっていない。

印象のない男。スーツを着ている男がいれば、そいつな気がしてしまうくらいに。

私は償いに、未だにその男を追っている。

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