セカ金の歴史の話。

眞壁 暁大

第1話

    *   *

 維新後に成立した明治の新政府はとにかく貧乏だった。

 地方財政も中央の財政も首が回らなくなった明治五年には世界標準グローバル・スタンダードに追いつくとの大義名分のもとに太陽暦(グレゴリオ暦)に改暦して、12月の日給月給制の雇員の給与支給額を1/15にする(なにしろ、明治五年12月はたったの二日しかない)というメチャクチャな手をうって乗り切ったりもした。しかしそれでも追いつかないくらいの勢いで支出が収入を上回るろくでもない財政が続き、明治十五年にはふたたび世界標準を追い抜く新たな暦へと改暦する。

 今度の改暦は政府支出の節約を主たる目的としたものではなかったが、ある意味最初の改暦よりも大衆に及ぼす影響は甚大だった。 

 これは、そんな新暦に振り回される人々のお話。 

    *   *


 明治政府が新暦〜世界暦〜の導入を決意したのは、本朝の会計制度の貧弱さが原因だった。従来のやり方から西洋に合わせていく上での最大のネックがこれで、政府も財界も全力を挙げてこの制度の整備し、普及させようと躍起になっていたがなかなか浸透しない。

 なかでも下への浸透を阻んでいたのが四半期の取り扱いである。

 太陽暦でもっとも長い四半期と短い四半期とでは、暦年では営業日にして最大2日の差が出ることもある。たかが二日の差だが、いまだ教育水準の貧弱な本朝において会計制度を下々まで浸透させるには大きな障壁と言えた。太陰暦の旧時代よりも遥かに広く会計制度を浸透させ、商業の振興を図ろうとしていた本朝政府にとっては頭痛の種であった。


 そこに登場したのがイタリア発祥の「世界暦」であった。

 四半期を91日(30日・30日・31日 の三ヶ月)に統一できるため、会計計算がずっと容易くなる。月の長さも二種類となり、旧時代に用いていた「大の月」「小の月」の感覚を援用できるのも好都合だった。

 問題は一年365日のうち割り切れぬ一日――「余日」「無曜日」と呼ばれる一日――の扱いだったが、ここでも本朝は一計を案じる。


 この日に限りすべての契約に公法が優越するという特例を発布したのである。


 中央政府が頭を悩ませていたもう一つが、金融の貧弱であった。貧弱というか、無秩序と言ったほうが良いか。銀行制度を導入して旧来の金融の仕組みから切り替えていくものの、そうしたかっちりした規模の大きな金融では掬い取れない人口・産業のほうがずっとずっと多いのが当時の日本である。信用も担保もない零細の事業者や個人に対する融資・投資はおなじく零細の個人金融を中心に任されていた。

 個人金融だから貸付金利もあってないようなもの。相手次第でいくらでも上下して基準がない。さすがにそれでは論外ということで中央政府は地方道政府とともに強調して上限金利を設定したものの、今度はそれで張りついて固定化されるという問題を生じた。

 信用が薄弱なぶん、高金利は不可避というのが零細金融の言い分であり、それは事実でもあった。しかしそうした過重な金利が横行しているようではカネの流通が活発化するのは難しい。


 そこで、中央政府は余日に目をつけた。

 その日にかぎり、すべての債務者は公定金利での返済で債務を完了したと見做されるということにしたのである。

 貸金業者にとってはこれ以上ない衝撃だった。反抗運動も展開されたが世論も議会も「たった一日じゃん」ということであまり真面目に取り合わず、あれよあれよという間に世界歴への改暦が決定された。


 そうして使ってみれば世界歴は便利なもので、会計処理も楽だし、毎年のようにカレンダーを新調する必要もないしでおおむね好評でもって受け入れられた。

 お天気商売の農林漁業については元々グレゴリオ暦に移行したときもずっと太陽太陰暦を維持していたから、今回の改暦でも大した影響はない。

 余日はお祭りの日として社会に浸透していくのもさして時間はかからなかった。



 そうした借金とは無縁の暮らしを送っている庶民が居る一方で、この余日前後を巡る攻防は年を追うごとに熾烈さを増していた。

 貸している側からすれば、余日が訪れる前に回収しなければ収入が激減する。たとえば、明治大正期の零細金融の平均金利はざっくりトサンが標準だったが、これが公定金利では上限がトイチに限定される。単純に余日まで回収できなければ収入は1/3になるということだ。それは金融業者も必死になる。

 一方で借りている側からすれば、当初契約の金利がトサンなりトーゴーでも余日に返しさえすれば支払う利息はトイチでよい。こんなボロい話はない。

 

 なので、十二月の三〇日は金融業者が駆け回り、翌日の余日には債務者が強引にカネを返そうと金融業者を追い回す。マトモな金融業者では起こり得ない事態であり、このように世界歴によって振り回される金融業者のことを、世間は「セカ金」と呼んだ。


 セカ金と債務者、この追いつ追われつの競争がピークに達したのは一九一六年の閏年だった。

 明治十五年の改暦以来、余日が二日ある閏年は債務者にとっては絶好の年であり、金融業者にとっては悪夢の年であった。


 改暦から四半世紀近い一九一六年にもなると金融業者も債務者も知恵をつけてくる。債務者なら月末の逃げ切りのために債務証書を韋駄天を誇る代理人に預けてみたり、金貸しならば余日の逃げ切りのために自動貨車を借り入れて書類ごと街から離れてみたりと競争が進化していた。

 互いに顔見知り同士のカネのやり取りで、個々の扱う金額も大きくなかった当初に比べれば双方とも気合の入り方がちがっていた。


 挙げ句、この年の六月末と閏日、十二月末と余日は死人があちこちで出るほどの過熱ぶりとなった。

 世界大戦で降って湧いた好況のため、貸す方も借りる方も需要はうなぎのぼりで、どちらも自身の稼ぎを最大化しようと命がけでおいかけっこした結果として、命を落とすものが現れたのである。

 とくに六月末の閏日は悲惨で、追い詰められた金貸しが債務者を返り討ちにする、相打ち覚悟で斬る、追っていた債務者が勢い余って金貸しを突き落とすなど、七月寸前の惨劇であったために「アンラッキーセブン」として新聞でも派手に取り上げられることになった。同じ閏日に逃げ切ってラッキーセブンを迎えた業者がほとんどなのだが、ニュースになるのは派手に死んだ方というのは相場が決まっていた。

 

 ここまで過熱になるとさすがに頭を冷やすものも増えてくる。

 互いに上限金利と下限金利、どちらかで自身の利益を最大化することだけを追求した挙げ句の血みどろの対立に発展したのだから、その金利幅の間で互いに妥協できる線を見つければ良い、という話だ。

 債務者も月末に逃げ回るのも骨だし、金融業者も余日や閏日に事業所の書類から印鑑からまるごと抱えて逃げ回るのも骨だった。

 どちらもその苦役から解放されるのなら多少の歩み寄りは難しくない。


 そうした債務・債権者の歩み寄りと合意によって、閏日や余日の追いかけっこは年を経るごとに減少していった。

 現代では閏日の惨劇を指して「アンラッキーセブン」と呼んだ当時の状況はすっかり忘れ去られ、ただ「7」という数字がなんとなく不吉な印象を与える数字という伝承だけがのこった。

 不吉な数字という印象が独り歩きしてそれは「閏年の七月直前の閏日」を指すのではなく、七のつくあらゆる名前について不吉であるかのように受け止められている。


 七がつく名前を持つことで迷惑している当事者には申し訳ないが、なにごとも極端に捉えがちな本邦ならではの伝説ではあった。

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セカ金の歴史の話。 眞壁 暁大 @afumai

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