雨上がり

傘立て

 

 自慢ではないが、筋肉には自信があるほうだ。子供の頃から運動で苦労したことはないし、高校から続けたラグビーのおかげで誰からも「大きいね」と言われるようになった。膝を痛めたのでラグビーは大学でやめたが、卒業後は武道を始め、今でも仕事の合間を縫ってのジム通いは欠かさない。走れば同期の誰よりも速い自信はある。「脳筋」と陰口を叩かれることもあるが、営業職など脳筋なぐらいでちょうどいいのだ。覇気も元気もないやつと、勢いのある溌剌としたやつがいたら、仕事を取れるのは後者のほうだ。生命力の強いものを好ましく思うのは、人間の生き物としての本能である。そもそも、ハードな仕事をこなすには相応の体力が要るし、それを支えるのは筋肉だ。

 

 ところで、意外だと言われることも多いが、俺の趣味は読書だ。「お前、文字が読めたのか」「まさか頭蓋骨の中に筋肉以外が詰まっているのか」などと失礼なことを言われたこともあるが、昔から本は好きだった。母親が本好きで、幼い頃から絵本であれ小説であれ、本だけは好きなように買ってもらえた。好きな作家はドストエフスキーだ。学生の頃に『悪霊』を読んでいたら「え、それ読めてるの? 食べてるんじゃなくて?」と心底不思議そうに訊かれ、読んでいるし内容が好きだと言ったら「まじかよ」とどん引きした顔で言われた。失礼だ。ともあれ、ドストエフスキーである。『カラマーゾフの兄弟』は十回は読んだし、カラマーゾフを五十回読んだとか百回読んだとかいうウィトゲンシュタインにも興味を持って著作を読んだ。──何を言っているかはさっぱり分からなかったが。

 最近、古い街並みが残る三鞘町で、少し変わった古本屋を見つけた。今にも崩れ落ちそうな外観をしていて、品揃えにもこれと言って特徴はないが、なぜか読みたい本が見つかる。とくに目的もなく立ち寄っても、何かしら興味をひかれるものがあり、そして実際読んでも非常に面白い。買うだけ買って読まずに積むだけに終わることも多い俺が、ここで買った本はすべて読みきっている。店内の本がきちんと分類されていないのは本来であれば欠点である筈だが、ここに限って言えば、混ぜこぜに置かれているおかげでかえって面白いものに出会う確率が高まっている気がする。そうなると、雑多な品揃えも、崩れそうな店構えも、宝探しの気分を高めてくれる気がしてくるのだ。

 この店には、柴犬ぐらいありそうな巨大な黒猫がいて、その奥で長髪の青年がいつも店番をしている。二十代前半ぐらいに見えるから、おそらく自分より少し歳下なのだと思う。もの静かだが愛想がよく、客の目障りにならない程度にてきぱきと仕事をこなしている。会計をするときの声が柔らかくて、とても心地が良い。目をひくのはその長い髪で、店先でいつもとぐろを巻いている黒猫と同じく真っ黒な色をしていて、薄暗い店内でも分かるほどにつやがある。彼はその髪を首のうしろでひとまとめにしているのだが、ふと横やうしろを向いたときに揺れるさまが、えもいわれぬほど美しいのだ。白状すれば、俺がその店に通うのは、その黒髪を見たいがため、というのが本音だ。客に応対するときの、素朴で控えめな笑顔も良い。道端でふと足を止めたところに、ひっそりと、しかし明るく強く咲く蒲公英の花のようだ。カラマーゾフ家の末っ子のアレクセイが長髪の青年だったが、父や兄たちにしきりに天使のようだと言われている彼が実在するとしたら、こんなふうなのかもしれないと思った。

 その店は営業時間も少し変わっていて、夜中に行っても大体開いている。残業の多い会社員にはありがたい限りだ。金曜の夜は仕事がひけるのが遅くジムにも行けないので、その店に立ち寄るのが恒例になっていた。


 その雨の夜は、びっくりするほど仕事が順調に片付き、定時であがることができた。時計を見てジムにいけるなと思ったが、結局、いつもと同じように古本屋に向かった。事故に遭ったのは、その途上だ。

 うしろから乗用車がつっこんできた。こんな狭い道では無謀だろうというほどにスピードを出して。雨でエンジンの音がかき消されていたのも良くなかった。気づいたときには遅く、背後から追突された。さして大きな怪我がなかったのは、体が異常に丈夫だったのと、ぶつかられながら咄嗟に受け身の姿勢をとれたからだ。武道をやっていて良かったと、このときほど思ったことはない。脳筋と笑われても鍛え続けたことが、我が身を救った。ありがとう筋肉。一生大事にする。

 一応、救急車で搬送されたものの、目立った怪我もなく、検査で異常も見つからなかったため、擦り傷の手当てだけですぐに帰された。体がなんともなかったので、歩いて帰った。すでに日付を越えて、雨はすっかりやんでいた。古本屋に行けなかったことだけが残念だった。あの美しい黒髪の青年に会う機会は、来週までお預けだ。いや、土曜も開いていると言っていたから、明日行けばいいのか、などと考えながら家路を急ぐ。

 途中、二人連れとすれ違った。こんな深夜に珍しい、と思って顔を上げると、古本屋の長髪の青年だった。時間から言っても、もう店を閉めて、帰るところなのだろう。駅とは反対側に向かって歩いているということは、近くに住んでいるのだろうか。店の外で見るのははじめてだったので、嬉しいというより、狼狽えた。彼は淡いグレーのシャツを着ていて、いつもは束ねている髪をおろして肩に垂らしている。こんな暗闇でも、黒い髪は闇を照らすように美しかった。一緒にいるのは会社員風の男で、随分と間の抜けた人のよさそうな顔をしている。夜なので声は控えているが、会話は弾んでいるようで、互いに小さく笑い声を立てあいながら近づいてきた。柔らかそうな細い髪の一本一本が、切れかけて点滅する街灯に照らされて、きらきらと光を放つ。

 彼は、俺に気づく様子もなく、すれ違い遠ざかっていく。振り返って灼きつけた、背中に揺れる長い髪が、暗がりの中でいつまでも目に残った。

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雨上がり 傘立て @kasawotatemasu

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