珈琲店にて

佐倉有栖

珈琲店

 目抜き通りを抜け、人がまばらな商店街の細道に入るとふっと息を吐いた。

 ガヤガヤとした雑踏を背に、緊張していた体をほぐす。人混みが苦手で、日ごろから人通りの多い道は避けているのだが、工事による通行止めまでは計算できなかった。


 気疲れした心を癒すべく、目についた喫茶店に入る。カランと軽い音でドアベルが鳴り、珈琲の濃厚な香りが全身を包み込んだ。

 狭い店内に客の姿はなく、不愛想な店員にカフェラテを頼むと窓際の席に着いた。

 小さくかかるクラシックに、食器がぶつかる音が重なる。時折窓の外を通り過ぎる人たちはみな、何かにせかされるように足早に通り過ぎていく。


「おまたせしました」


 カチャンと音を立てて置かれたカフェラテには、綺麗なリーフ模様のラテアートが施されていた。あの無表情でこの繊細な模様を描いたのかと思うと妙に可笑しくて、緩みそうになる口元を引き締めると小さく頭を下げてカップを持ち上げた。

 茶色い水面が揺れ、白い葉が躍る。崩さないように気を付けながら、しばらく葉が動くのを楽しんだ後で口をつけた。せっかくのアートを消してしまうのは名残惜しいが、珈琲が冷めてしまっては元も子もない。

 香ばしい豆の苦みと濃厚なミルクの甘みが合わさり、口いっぱいに広がる。ゆっくりと舌の上で転がしてから飲み込めば、ほのかな酸味が残った。後味がすっきりしていて飲みやすい。

 一口二口と続けて飲み、いったんカップを置くとカバンの中から紙の束を取り出してテーブルの上に広げた。


 入会キャンペーン中、ダイエットを応援、肉体改造、短時間でもOK。そんな言葉が並ぶチラシを、次から次へと眺めていく。引き締まった体を強調し、笑顔を見せるモデルたちの歯の白さがまぶしい。

 本格的なジムからヨガが主体のフィットネスジム、各種器具をそろえたスポーツクラブまで、この近くにあるほとんどのジムのパンフレットがここにはあった。価格帯もお手頃なところから、かなり無理をしないと難しいところまで、ピンキリだ。

 なるべくお財布に優しく、通いやすい場所にあって、続けやすい内容のところが良い。

 そう思いながらペラペラとパンフレットをめくっていると、背後から素っ頓狂な声が聞こえてきた。


「あらー! 凄いやる気ね!」


 よく響く低音に似合わない、しっとりとした女性のような口調だった。聞き覚えのない声に、自分に向けられた言葉だとは思わず、反応が遅れた。


「体動かすの、好きなの?」


 背の高い男性が、すぐ隣に立っていた。ターコイズ色の石がついたループタイが目に留まる。ゆらゆらと弧を描いて揺れるタイに視線を奪われ、真隣に座られたことに身構えることすらできなかった。


「いいえ」


 こんなに空いているのに、なぜわざわざ隣に来たのか。そんな疑問が浮かび、男性の質問に馬鹿正直に返してしまう。


「嫌いなのに、ジムに行くの?」

「あ、えっと……はい……」

「どうして?」


 ごく真っ当な疑問をぶつけられ、答えに窮してしまう。

 初対面の人に正直に言う必要はないと頭の片隅で思いながらも、真っすぐに向けられる目があまりにも綺麗で、適当な嘘を言うことが憚られた。


「友達が、ジムに行って……変わったんです。だから……」

「あなたも、何か変えたいことがあるのね」


 優しい口調に、数年来の友人の顔が脳裏をよぎった。

 自分と同じように、引っ込み思案で大人しく、いつも自信なさげに俯いていた友人が、たった数か月ジムに通って見事なプロポーションを手に入れただけで性格まで変わってしまったのだ。

 今まではダボっとした服が多かったのに、均整の取れた体つきを見せるかのように、ぴったりとした服を好むようになった。モノクロだった服はカラフルに変わり、暗かった顔つきも明るくなった。

 表情が明るくなると、自分に自信が出てくる。積極的に他人に声をかけ着々と友人を作っていき、輪の中心へと躍り出た友人の顔には、もう以前の面影はなかった。


「筋肉がすべてを変えるって本を読んで、実践してみたんだ」


 爽やかにそう言って微笑む友人の歯は、ジムのパンフレットに写るモデルのそれを同じくらいに白かった。


「なるほどね。だからあなたも、筋肉ですべてを変えようとしているのね」


 抹茶ラテを十分すぎるほどスプーンでかき混ぜた後で、男性がカップを持ち上げた。


「体つきが引き締まれば、友達みたいに自分に自信が持てるかなって」

「まあ、綺麗な体を手に入れられれば自信が持てるようにはなるかもしれないわね。……ところで、そのお友達は体を動かすのが好きな子だったのかしら?」

「好き……かどうかは分からないですが、運動部に入っていたことがあるので、嫌いではないと思います」


 中学高校と、体育会系の部活に入っていたのは覚えている。高校で引退し、大学に入ってからは続けていないはずだ。


「でも、あなたは体を動かすのは嫌いなんでしょう? それって、意味ないんじゃないかしら」


 男性が抹茶ラテを一口飲み、美味しいと呟くと嬉しそうに口元を綻ばせた。口の端についた泡を指先でぬぐい、二口目を飲む。


「意味がない、ですか?」

「だってあなた、美しい肉体を手に入れたいためじゃなくて、自分に自信をつけたいから行こうとしてるんでしょう? 運動が好きならまだしも、嫌いなら逆効果じゃないかしら。絶対に途中で嫌になって、自己嫌悪に陥るわよ。実際に想像してみたら良いわ、自分がジムに行っている場面を」


 細長い男性の指が、肉体改造と書かれたパンフレットを叩く。本格的な器具が紹介されているページが開かれ、実際にその場にいる自分を想像してみる。

 ランニングマシーンに乗って苦しんでいる姿、ベンチプレスが全く上がらずに苦悶の表情を浮かべている姿、ヨガの呼吸がうまくできずに酸欠になっている姿。

 リアルに想像すればするほど、ジムに行きたい気持ちが萎んでいく。最初の一日目に張り切りすぎて筋肉痛になり、痛みを堪えながら二日三日とやるうちに悪化し、数日休んだのちに再開するものの次第に足が遠のき、行けない言い訳ばかりがうまくなり、最後にはもっともらしい退会の理由をでっちあげることに躍起になる姿が想像できてしまった。

 思わず眉根を寄せると、男性が上品な笑い声をあげてパンフレットを一まとめにしてテーブルの端に手で押しやってしまった。


「全ての本は誰かのために書かれたものだけれど、全ての本は自分のために書かれたものではないのよ。人が本を選ぶように、本も人を選ぶの。お友達にぴったりだった本が、自分にぴったりだとは限らないのよ」


 パンフレットを集めている間に高まっていたやる気は、もう跡形もなくなっていた。お金を無駄にしなくて良かったと思う反面、自信をつけることの難しさに直面して気が滅入る。自信をつけるための本は数あれど、自分のために書かれた一冊を見つけるのは容易ではない。


「あなた、何か好きなことや興味のあることはないの? 趣味レベルでも良いのよ。それを極めてみれば、自然と自信がついてくるんじゃないかしら?」


 そうは言われても、これといって特別な趣味があるわけではない。音楽を聴くことや漫画を読むことは好きだが、極めたいほど好きかと言われれば首をかしげざるを得ない。暇つぶしとしての側面が強いように思う。

 何か一つでも極めたいと思えるようなものはないか。そう考えながら、カップに残ったカフェラテを飲み干す。温かかったときは、口から鼻に抜ける香ばしさと舌に残る酸味が心地よかったが、冷えた今はどちらも弱まり、代わりにミルクの濃厚な甘さが際立っていた。


「例えば、珈琲なんてどうかしら? 奥深いわよ」


 男性の言葉に顔を上げる。確かに珈琲は好きだが、極めたいかと言われれば分からない。美味しい珈琲を探して喫茶店を巡るのも好きだし、当店自慢のこだわりのブレンド豆なんて文言を見ると飲んでみたくなってしまう性質だ。しかし、自宅で飲むのはもっぱらお手軽なインスタントで、近所のスーパーでお買い得品として割引されているものを選んでいる。


「少しでも興味があると思ったら、思い切って踏み出してみるのも大事よ。何事も、やってみなければ始まらないんだから」


 そこで言葉を切ると、男性が少しだけ身を乗り出して耳元に口を寄せた。突然の行動に驚く間もなく、甘い低音が鼓膜を震わせた。


「私、ここのオーナーなんだけど、今人手が足りてなくてね。バイト、どうかしら?」


 斬新すぎるバイトのお誘いに、思わず声をあげて笑う。

 あの不愛想な店員の隣に立つ姿が、鮮やかに脳裏に浮かんだ。

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