ぬいぐるみはかすっただけ

 杏一人では足を向けられない町はたいそう賑わっていた。人の波も克哉の後ろを歩けば恐れずに足らず、百貨店もある通りに悠然と立つ店にも問題なくたどり着いた。棚には様々な文具が並べられており色鮮やかな絵葉書まであった。母や先生に見せたら喜びそうだと心を弾ませる杏の隣から大きな声が飛ぶ。


「おい、圭輔けいすけ! いるだろう。出てこいよ」


 克哉の声に誰もが振り返った。客や店員の視線が恐い杏は克哉の影に隠れて、ことの成り行きに構える。

 店先に出てきた男はひどく迷惑そうな顔をしていた。


「騒々しい奴が商売の邪魔をするな」

「あれが圭輔だ。商才はあるが、文才はからっきしな男だぞ」


 隠れる杏に道端の犬など恐くないとでも言うように、克哉は男を指差した。

 額にかかった髪をかき上げた圭輔は背の中程まである髪を洗髪した後のようにゆるく結んでいた。神経質そうな顔にまとまり切らない横髪が垂れる。残ばらに見えなかったのは艶やかに流れていたからだろう。

 まとまらない髪を持つ杏は離れた場所で羨望の眼差しを向けた。

 薄の葉のようなまっすぐな髪の間には神経質そうな顔が杏を見つけ、胡散臭そうな目を克哉に向ける。


けなしながら雑な紹介をする奴がいるか。その子はなんだ。拾ったのか」


 物怖じした杏は横にずれて克哉の背に隠れた。


「用事があったから連れてきただけだ」


 どんと構えた克哉の的を得ない答えに、ふーんと鼻白んだ圭輔はじろりと克哉を睨む。


「僕の文才がなんだって?」

「だってそうだろう。お前が書いた小説と来たら、ぬいぐるみに毒を隠すとか書いてあって変な話だったぞ」

「推理小説を変な話と言うな」


 青筋を立てる圭輔に包みをずいと差し出すぐらいには克哉は無頓着だ。


「この前頼まれた分、終わったぞ」

「速いな」


 包みを受け取りながら、圭輔は驚く様子はなかった。先程の会話は挨拶代わりなのか、後を引いていない。包みを開き、数冊の中から一冊を見分して、問題ないとでも言うように頷く。


「暇なんだな」

「時間はあるからな」


 嫌みの通じない克哉に、圭輔は小さくため息をついた。


「次のも頼めるか」

「もちろん」


 克哉の返事を聞いた圭輔は店の奥へ消えた。文具ばかりだと思っていた店の続きに本が並んでいる。

 杏は物影に隠れるようにそろそろと動いて、棚の前に立った。

 並んだ克哉は顎を指で擦りながら左から右へと視線を流す。


「この前、言っていた本はあるか。題目を覚えてなくてな。また忘れるぐらいなら、お前をつれてきた方が速いだろう」


 瞬いた杏は克哉を見上げた。

 一月ほど前、先生におすすめだと言われた本を克哉に訊ねたことがある。思い当たると言えばそれぐらいで、まさか覚えているとは思わなかった。

 杏も一緒になって探したが、結局は見当たらなかった。もしかしたら、他の本屋で出版されたものかもしれない。

 肩を落とす杏に克哉はいたずらをする子供のように笑いかける。


「大丈夫だ。ちゃんと賄賂を持ってきているからな」


 首を傾げる杏をひと撫でした克哉はちょうど戻ってきた圭輔に顔を向ける。


「融通をきかしてほしい本があるんだが」

「なんだ」


 嫌な顔をするかと思えば、あっさりと応じられた。

 二人の掛け合いは杏の予想を越えている。


「シェルロの洋菓子辞典と――ほら、どの本だ」


 克哉に促されたが、杏は固まった。さっき会ったばかりの男に物を申す度胸は持ち合わせていない。ほらと太陽のように眩しい瞳に促され、拳を握った。手汗を感じながら固く結んだ口を開く。


「しま、ねこの、おんがく、たい」


 どもって、声も裏返ってみっともなかったが何とか言えた。


「一週間で用意しよう」


 返ってきたのは感情のこもっていない声だったが、杏はうれしくて飛び上がりそうだった。奇異な目を向けられなかったこともあるし、何より気になっていた本が読める。そこまで考えて、はたりと止まった。克哉の袖を引き、口ごもる。


「なんだ、アン」

「……お金」

「お前も賄賂に加担しただろう」


 何を言っていると語る顔に、杏の方も何を言っているとぶつけたいが、目の前の御曹司は明けっぴろげな性格で本気でそういうことを言うのだ。眉をひんまげ、口をへの時にする杏に一笑した克哉は圭輔の前の空いた棚上に風呂敷を広げた。


「書く時に摘まめるものがほしいとぼやいていただろう。これなら、つまっているから腹持ちがするぞ」


 腕を組んだ克哉は口端を上げ、ガキ大将のように続ける。


「俺とアンからのお代だ」

「これっぽっちか」


 つまらなそうな目を向けられ、さすがの杏もムッとした。見もせず食べもせず、ケチをつけるなんてもっての他だ。

 克哉は何故か、ははと可笑しそうに笑い声を上げる。


「湿気たら美味くないんだよ。また作ってやる」


 するとどういうわけか、圭輔は包みを手に取った。重さを確認するように持ち上げ、鼻に近付け、ふむと唸った。

 克哉の唇が綺麗な弧を描く。


「交渉成立だな」


 圭輔の肩を叩く克哉の行動が杏には奇天烈に見えた。



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