甘味伯爵 恋煩いとさくほろブレッド

かこ

本屋はかすっただけ

 勝手口から屋敷に入ったあんはボウルを脇に抱えた克哉かつやとかち会った。


「よく来たな、アン」


 気安く言われた杏は素直にお辞儀して持ってきた使いの品を女中に渡した。今日の品は青きな粉をまぶしたうぐいす餅だ。重箱の中には甘い香りと仄かな香ばしさをまとった菓子が春の訪れを祝うよう並んでいる。

 中身を確かめる女中の横から、ひとつ摘まんだ克哉は呆れ顔を向けられても何のそれ、粉のついた指を舐めて作業台にボウルに木べら、鉄板に小麦粉、牛酪バター、砂糖、塩壺を置いていく。


「ショートブレッドを作るが、アンもやるか」


 気さくに言われたが、杏にとっては何のことだかわからない。

 顔をしかめて返事に戸惑う杏の横から質問が飛んでくる。


「坊っちゃん、ブレッドというと麺麭パンのことですか」

「いや、洋菓子だよ。一番近いのはビスケットだが、それとも違うな。」


 料理長とのやり取りを聞いて、杏の中で興味が少しだけ上乗せされた。未知のものは恐いが、菓子は別だ。手慣れた様子の克哉からは絶対的な自信を感じられる。


「お手伝い、できる、こと、なら」


 杏のたどたどしい言葉に、克哉はにっと笑うと来いと手招きした。

 犬のような扱いに眉間のしわが深くなったが、文句の言えない杏はそろそろと近付く。


「まずは牛酪バターを練って、やわらかくする」


 ボウルに白い塊が入れられ、練りやすいように木べらでいくつかに割られた。幾分か練りやすくなったものが杏の前にくる。

 見上げれば、やってみろと言うように克哉は肩をすくめた。

 木べらを持った杏はこすように牛酪バターを押した。見た目よりはやわらかいが、すべりがよく押しつぶしきる前に逃げていく。こし餡のようになめらかにするまでには少々、時間がかかった。


「次は砂糖を入れて混ぜる」


 一息つく前に、砂糖がなだれ込んできた。杏は再び牛酪バターと砂糖を混ぜ合わせるが、すんなりと混ざり合う。根気よく練ったかいがあった。


「小麦粉と塩を入れて、次はざっくりでいいぞ」


 克哉の説明を不信に思いながら、杏は手を動かした。ざっくり、ということは大きく混ぜればいいのだろうか。恐る恐る回しても、横に立つ人はボウルの中を見ているだけだ。杏の挙動には気付くはずもない。


「チョコレイトやナッツを入れてもいいが、奴は偏食だからな。王道がいいだろう」


 克哉の言葉を耳に入れながら、粉が全体に回るよう木べらで円を描く。繰り返す内にボウルの中身は葛粉のように不規則な粒になっていた。粉っぽさの残る状態で声がかかる。


「そんなもんだろう。今度は手で練るぞ」


 手、と言われて杏は固まった。自分の両手を見て、横を見上げる。


「手を、洗うの、忘れて、まし、た」

「そういえばそうだったな。こっちのことはいいから、洗ってこい」


 頷いた杏はそそくさと手洗いを済ませ、克哉の元に戻った。ボウルの中をのぞきこめば、ほんのりと黄色い塊ができている。克哉の手の早さに迷惑をかけているのではと不安を覚えたが、迎えてくれたのは快活な笑顔だ。


「次、行くぞ」


 机に置かれていた綿棒が差し出され、杏は目を瞬きながら受け取った。打ち粉を終えた生地がまな板の上に置かれ、指ぐらいの厚みにのばせと言われる。

 指示通りに動いていると、克哉は一言もなく離れ、包丁を持ち出してきた。


「楽しみは取っておいてやるから、ちょっと待ってろ」


 そう言うな否や生地ののったまな板を取り上げる。小首を傾げる杏に笑った克哉は包丁を指一本分の大きさに切り始めた。


「ペチコートテイルもいいが、今回は摘まみやすいようにフィンガー――指の形にする、と。こんな感じだろう」


 男の人の指のような太めの長方形が手際よく鉄板に並べられた。等間隔に成立する姿に胸が波打つ。


「ここからが、楽しいんだ」


 地味だけどな、と付け加えた流し目が杏をとらえ、にやりと笑う。克哉はいつの間にかフォークを握っていた。

 フォークの三つに割れた先を生地に差し、一つに対して四回繰り返す。


「ビスケットみたい」


 ぽつりと漏れでた言葉は克哉を笑わせた。


「ほとんど一緒だが、少し違うな。だが、味わいが大きく変わってくる」


 フォークを差し出された杏は頭を捻る。見た目が同じように見えるのだから、材料が違うのだろうか。餅粉で作ったものと、餅米から作ったものは見た目は同じでも、食感も風味も違うことと同じことだろうか。

 食べてからのお楽しみだ、と促された杏はフォークを受け取った。ぷすりぷすりと穴を開けていく。全てが終わる頃には朝ごはんを食べたばかりだというのに空腹を訴え始めていた。

 端の崩れた部分も形を整えられ、仲間に加えられる。


「今から三十分焼くが、他に使いはないのか」


 克哉の気遣いに、心の中で雲のようなやわらかな気持ちが生まれる。杏が頭を振れば、じゃあ焼こうと鉄板は釜の手前に差し込まれた。

 焼き時間は片付けを済ませ、番茶を飲んでる内に過ぎていく。

 香ばしく芳醇な香りに今か今かと背筋をのばして釜の口を見てしまう。しばらく冷ましてからだぞと注意されても気にならなかった。

 焼きたての菓子は楽しくて美しくてずっと見ていられるからだ。


「ほら、いいぞ」


 小皿に取り分けられた二つの焼き菓子を端から端まで眺めて、穴の一つ一つを見つめてしまう。


「卵を入れないと、こうまで違うものになるんですなぁ」


 料理帳の感激した声に我に返った杏は一つを手に取った。粉が指につくのがこそばゆく思えて、口に運ぶのも勿体ない。さくりと聞こえた音に顔を上げれば、克哉が豪快に一口で平らげていた。あの勢いは兄と同じだ。自分の分まで取られては敵わないと杏はショートブレッドなるものをかじった。

 歯は確かに固さを感じたのに、口の中でほろりとほどける。舌で味わうほどに、甘みが広がり、牛酪バターのコクが広がった。濃厚な香りが口の中にいっぱいだと思ったが、くどさはない。後から来た塩味がすっきりとまとめ引き立てているのだ。

 ビスケットとはまた違う味わいだと言っていた。卵を入れてしまったら、どんな味がするのだろう。頭の中で描いてみるが、心が沸き立つだけで想像がつかない。


「思ったより、もろくなったな」


 おいしい菓子に対して、克哉が唸った。

 杏としては十分だと思えるが、追い求めるものと違うのだろう。和菓子を作る父も時折、頭を抱えている。


「材料の割合を変えてみますか」

「いや、固さが欲しいから繋ぎがいるだろう。卵はいらないんだが」


 苦しそうに顔を歪める克哉見た杏はつい口をすべらせてしまう。


「小麦の、作った、場所が、違う……とか」


 大豆も産地が違えば、風味が違う。北で作られた青きな粉の方が甘いと言えば、食べ比べて不思議そうにしていた兄は納得して、父には頭を撫でられた。

 克哉と料理長が押し黙る。ゆっくりと上げた杏の瞳には目をみはる二人が映り込んだ。

 身を引いて椅子から転び落ちそうになる杏の背をあたたかい手が叩く。


「同じ小麦でも、ねばりが違うからな。よく気が付いたな、アン」


 杏は途端に恥ずかしくなって、残りのショートブレッドをかじった。ほどけてとけていく味を感じると共に、克哉を笑顔に出来たのだとあたたかい気持ちが満ちていく。

 全て食べ終え、茶をふくんだ杏は克哉と視線がかち合った。


「本屋に行くんだ。アンもついてくるか」


 見られていたのだと気付いたのは、茶を飲み込んだ後だった。



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