筋肉はかすっただけ

 今日も克哉が構うのではないか。

 杏はげんなりとした気持ちを顔いっぱいに出して、井戸の水を組み上げた。顔を洗い、頬の筋肉を両の手で持ち上げてみる。固まったように動こうとせず、すぐに元の位置に戻った。

 この顔のせいか、やたらと克哉が構って来るような気がする。駄賃だと焼き鳥を持たされたことから始まり、お重を回収に行けば菓子が入っていたという綺麗だが不要らしい缶を押し付けらた。二日空けて使いをした時には、プティングに伊予柑のシロップをかけたものを味見しろと口に差し込まれ、回収した時にはボウルを与えようとしてくるので必死で断った。そんな出来事が一週間で起きたという方が恐ろしい。

 犬の八つのようにほいほい寄越す克哉とは歳も身分も、財布の中身も違うのだと思い知らされる。杏は与えられた菓子を美味しく頂戴し、意見を言うことぐらいしかできない。気のきいた言葉を言えないと自覚している杏は、さらに落ち込む。

 桃の花が咲き始めたというのに、これっぽっちも晴れやかな気持ちにならない杏は裏口で延々とのの字を書いて気を紛らわした。母に名を呼ばれ、重い腰を上げる。

 一週間前なら喜んで駆け込んでくる姿を見せていたのに、今は顔をのぞかせるだけだ。

 心配していた母はちらりと視線で確かめた後、慣れた様子でお重を風呂敷で包む。苦い薬を飲まされたような顔をしているくせに、使いには行くという天邪鬼だとわかっているからだ。荷物を差し出し軽やかに言ってやる。


「本条様のところに桜餅を届けてちょうだい」

「……うん」

「やっぱり、母ちゃんが行こうか」


 杏は伏せた頭を勢いよく振った。まとめるのに苦労する髪がぶんぶんと後をついてくる。

 杏ちゃん、とたしなめるように言われた娘は顔を上げた。

 腰を落とした母は真剣な瞳で杏を見つめる。


「何があったかは知らないけど、お仕事はきちんとしないとだめよ?」

「届け、る、のは、仕事、じゃない、の?」

「届けるのも仕事よ。でも、届けるだけなら犬だってできるの」


 母のあたたかい双眸は春の日差しのようだ。固い声がやわらかいものに転じる。


「母ちゃんはね、笑顔で仕事してほしいな。あたたかい気持ちを届けるのも仕事のうちだと思うんだよ」

「笑顔も、仕事?」

「そう。仕事をするなら、責任持ってやらなくちゃ。杏ちゃんならできると思う」


 締めくくるようにつままれた鼻を杏は指先で押さえた。

 母の言葉を言い聞かせる娘の目に、茶目っ気を含んだ笑みが映る。


「帰ったら、一緒に大福を食べましょ」


 とっておきのように言われたが、作業台の上に乗るのは大小もまばらで、形の不格好な大福達だ。父の手ではこんなものは出来上がらない。

 ひと目でわかった杏は母を見上げる。


「兄ちゃんの、変な、形、だよ」

「口に入れて噛んじゃえば、大福は大福」


 気にしない気にしないと背を押された杏は納得したような納得していないような気持ちと風呂敷を抱えて家を後にした。

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