第145話

 演奏が終わり、出席客たちの拍手に包まれた後、あゆらは化粧直しをしたいと口実を作り会場を出た。

 一番近くにあったお手洗いに駆け込み、胸を押さえると深く息を吐いた。

 ずいぶんな度胸を見せ、窮地を脱したあゆらは一人になりようやく緊張を解くことができた。

 心を落ち着かせてから洗面台で手を洗い、鏡に映った自身と向き合うと、あゆらは廊下に出た。

 するとすぐ前の壁を背もたれに立っている人物と目が合う。

 清志郎は穏やかに微笑みながら、あゆらに歩み寄って来た。

 一瞬身の危険を案じたあゆらだったが、すぐ側の会場では多数の客たちが会食を始めており、死角になる部分もないためこのまま話を受けて立つことにした。


「いやあ、すごいね、してやられたよ」

「なんのことかしら、私は円滑にことを進めだけよ」

「……やっぱりきみは他の子たちとは違う。きみだけが僕に相応しい。きみが嫁いで来てくれたなら、母さんもきっと帰って来てくれるはずだ」


 喜ばしそうに言う清志郎を、あゆらは奇妙に思った。


「……何を言っているの? あなたのお母様なら、一緒にパーティーにいらしていたじゃない」

「違う。僕の母親は皐月さつきただ一人だ」


 そう切り返した清志郎の顔は真剣そのものだった。

 ふと、あゆらは去年クラスが同じだった生徒に聞いたことを思い出した。

 清志郎の父は再婚しており、実母は彼が小さな頃に行方不明になり、未だ消息不明だということを。

 あゆらは清志郎と高校で知り合ったが、その生徒は幼稚園から一緒だったため詳しかったのだ。

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