8月17日(水)#3


 ギクリとした。

 つぶやいた後、ふっと私の方を見た灰色の瞳に、何もかも見透かされていそうで。

 雨もよう、と例えた彼から再び傘の絵に視線を移す。

 久しぶりの休暇を楽しみつつも、どこか頭の片隅に憂鬱な気持ちが引っ掛かっていてずっと消えない。母がつくってくれた美味しいご飯を食べても、好きなだけ寝ても、怠惰に過ごしても、自然に触れても、子どもたちと遊んでも、この数日間どうしても完全には消えなかった。

 そして、彼とこうして会っていても。楽しく話している最中は一時忘れられたように思っても、ふとした拍子に顔を出す。

「えっ……と」

 なんと言うべきか。一緒にいてこんなにも楽しいのに、それは本心なのに。私はたぶん、心から笑えていない。

 そしてそのことを彼に見抜かれている気がした。

「その、もっと、雨多めでもいいかも」

 この人に誤魔化しはきかない。素直にそう言うと、彼は「ほう」と再び茶色のキャンバスに目を戻した。

「こんなもん?」

 言いながら、彼はザッザッと枝の先端で砂を掻いて雨の数を増やす。傘に重なるように描き足されたいくつもの縦線を見て、思わず「どしゃぶりだね……」と呟いた。

 同時に、ここに帰ってきてからずっと押さえつけていた感情が突然せり上がってきた。そんな自分に動揺して、落ち着かせようと大きく息を吸い込む。

「なんかあったの、大学で」

 そんなタイミングで、遠回しに尋ねることも、回りくどい聞き方も一切しない。直球ど真ん中な質問に、思わず吸い込んだ息をそのまま吐き出すように笑ってしまった。

「ストレートだね」

「それ以外の聞き方ある?」

「……ないねえ」

 本当に自分は面倒くさい性格をしているものだと思う。ひとりで鬱々として、ひとりで抱え込んで。

 人に話すことでスッキリするかもと思いつつ、経緯を話すことで今の鬱屈とした感情がさらに膨れ上がりそうで、理由が理由とはいえせっかく降ってきた休みにネガティブな感情ばかりに埋もれてしまうのが嫌だったから、ずっと自分の中に留めていた。

 でも、本当は誰かに聞いてほしかった。帰りたくない、と口にした時にきっと無意識に私は彼にそれを願ったのだ。

 そして、それを分かった上で彼は聞いてくれた。

「なんかねえ……拗れてるの、人間関係が」

 苦笑いして足元の草をプツンとちぎったら、隣で黙ったまま首を傾げる。

 言葉で続きを促すわけでもなく、かといって相槌があるわけでもなく。それでも、今の私には心地よかった。

「私、バスケ部だって前に話したよね?そこでね――」

 ぷちぷちと草をちぎりながら、今まで母にも話していなかった事の経緯をゼロから話した。

 事の始まりから、直近の大会の結果まで全て。

「ずっと前から気づいてたんだよね。うちの部活、雰囲気良くないなーって」

 はくびになら、何故か話せる。この人なら、聞いてくれる。

 その根拠のない、けれど絶対的な安心感から押さえつけるものがなくなった反動でまとまりのない言葉となって次から次へと口から出た。

「大学生にもなってさあ、そんな嫌がらせしてどうなのって」

「あと、周りもなんで加担しちゃうのかな。あることないこと噂して、ずーっとグチグチ言って何が面白いんだろ」

「…………でも私も、結局見て見ぬフリしてたわけだから」

「一緒なんだよね、安全圏から傍観してたの、我関せずで」

 時系列もバラバラで、内容もかなり愚痴っぽくて、ネガティブ全開で、聞いていて気持ちの良い話ではなかったはずだ。それでも、受け入れてくれていると感じるのは何故だろう。彼から、大きなリアクションは何ひとつ無かったのに。

 唯一あった反応は、全てを話し終わったあと。「ふぅーん」という、予想通りというかなんというか。

 とてつもなく、のんびりとした返答だった。

「いろいろあるんだね」

 他人事のような返事をするはくびの方を見ると、彼もまた地面の雑草で手遊びをしていた。根本から引っこ抜いた雑草を顔の前まで持ってくると、根についた土を飛ばすようにフッと息を吹く。

「……」

 普通なら「聞いてた?」と突っ込みたくなる反応。でも今は、こんな風に軽く聞いてくれることがありがたかった。

 この人には、今私がどういうリアクションをしてほしいかまで透けて見えているのだろうか。

「うん。いろいろあるの……」

 ため息と同時に呟いて俯いたとき、ふわっと何かが頭に乗った。咄嗟に顔を上げかけて、止まる。

 くしゃ、と髪を軽く崩すように優しく撫でてくれるそれが、隣にいる彼の手だと分かったから。

 片手でまだ雑草をぶらぶらさせながら、もう片方の手で私をまるであやすように。

「話してちょっとは楽になった?」

 私の頭をポンポンとあやすように撫でながら、自然な間で会話を続ける。

「……うん」

 ドキ、とも キュン、とも違う。

 子どもをあやすようなそれに、まるで毛布にくるまれたようにホッとした。

 触れられた部分から、じんわりとあたたかいものが染み込んでくるような気がして、何故か泣きそうになる。お尻がつかないようにしゃがんだまま、膝を抱えるように俯いた。

 その間も彼の手は、軽く頭を撫でるように動く。向こうがその行動に特に何もふれないから、私も何も言わなかった。

 今が見頃のひまわりたち。大きくも強い夏の化身たちが、まるで黄色い大きな傘のように。

 寄り添ってしゃがむ二人を、優しく覆い隠した。

 

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