8月17日(水)#2
振り返って少し彷徨った視線が、私を捉えて止まった。
目が合って、あの色白の頬がキュッと上がる。〝ま た 会 っ た〟とその口が動いた。
その表情の動きに、身体の奥がなんともいえない感情にくすぐられる。ぎゅ、と何かに掴まれたような、ふわりと足が浮き上がったような、言葉にしがたい感覚。
ポケットに手を突っ込んだまま立つ彼の元へ駆け寄ると、「穂花、毎日暇なの?」とバカにしたように言われた。
「それを言うならそっちもでしょ」
「俺わりと忙しいよ?そう見えないかもしれないけどー」
冗談めかして笑いながら、重たげな前髪を指で払う。そのあと私の手元を見て、「なんで傘?」と首を傾げた。
「あ……昨日すごい降りだったから。今日も降るかなって、一応」
「ふーん」
ただのビニール傘を見つめて可笑しそうに口角を上げる。
傘を持っていた事、言われるまですっかり忘れていた。こんなに晴れている中では確かに不自然だ。
「昨日みたいに突然降ってきても、私といれば濡れないから」
「まあ確かに。……そうだね」
猫のように目を細めるその表情に、ふと小さな引っかかりを覚えた。私を見ているようで、どこか遠くを見ているような。
しかしそれは思いがけず彼と会えた喜びに、私の中で違和感となる前にシャボン玉のようにぱちんと消えた。
「はくび、こんなところで何してるの?」
「ひまわり見てた」
「……いや、そりゃそうなんだけど」
当然だ。ひまわり畑にいるんだから。
「はくびもこういうの興味あるんだ?」
素直な感想をこぼした私に「どういう意味だよ」と苦笑いする。そして、波のない水面のような静かな瞳が、ふっと真横のひまわり畑に向いた。
「好きなんだよね、この色」
「色?」
「うん」
優しい匂いがする、と続けた彼に「へ、え……」と思わず返す答えに詰まってしまった。
思わぬ言葉と、今までにないほど優しい表情。「そんな意外?」と彼は心外そうな顔をしたけれど、その通り。
意外だ。花を見て、そんなおしゃれなことを言うタイプだとは思わなかった。
「それに昨日雨すごかったじゃん。倒れてないかなって気になって」
「……ますます意外」
「俺そんなドライに見えるかね」
「うー……ん?」
「否定しろや」
あはっ、とはくびが笑う。つられて私も声を上げて笑った。
意外、だけれど、新たな一面が見えたのは嬉しい。
こんなにも素直な笑顔を見せてくれる人だと最初は知らなかったように、数日前に抱いた印象とは違う顔を、きっと彼はまだまだたくさん持っている。
「……でも、分かる。綺麗だよね」
そう言うと、「うん」と短い返答。少し眩しそうに細まった目に鮮やかな色彩が反射して揺れる。
〝私はあなただけを見つめる〟
不意に、ひまわりの花言葉を思い出した。なんの前触れもなく唐突に。
「……向こうではこんなの見られないから貴重だなあ」
急に照れくさくなって、話題を切り替えるのに不自然なくらい明るい声が出た。
誤魔化すようにその場にしゃがむと、自らの大きさを目一杯アピールするように花開く彼らの影になる。
「向こう?」
「あ……大学の方ってこと。あっちにこんな広い土地ないし」
昨日の雨で少し糠踏んだ足元でも危なげなく、立派に育った緑の葉をいくつもまとって真っ直ぐに伸びている。言いながら、大学というワードで憂鬱な気分を急に思い出して小さくため息をついた。
「その『あっち』には、こういうの無いの?」
顔を上げると、立ったままでいる彼がこっちを見下ろしていた。次いで、私を覆い隠すように並ぶひまわりたちに目を向ける。
からだ全体で太陽から、地面から、あらゆる栄養をたっぷり吸っている彼ら。これはきっと、この環境だからこその産物だ。街中にたとえ同じようにこんな一帯があったとしても、ビル群がそびえ立つオフィス街や商業施設の立ち並ぶ中ではこんなに美しくは見れないと思う。
「街中じゃ無理かな、こんな景色」
「へえ」
「…ますます帰りたくなくなってきた……」
久しぶりに、こんなにも和やかで穏やかな空気に触れてしまったから、殺伐とした集団生活の中に戻るのがひどく憂鬱。頭を抱えて思わず零した本音に、返事の代わりのように衣擦れの音がした。
―― え?
頭に手を置いたまま顔を上げると、私の隣にしゃがんだ彼。肩が触れ合いそうで、しかもふわりといい匂いがして、急激に心拍数が上がる。
「あの、はくび……」
「ん?」
「……いや、なんでも」
本人は何も気にしていないのだろう。この人、本当に距離感がバグっていると思う。
私が言葉を濁しても特に気にしていなさそうで、近くにあった木の枝を手に取る。軽くピンと指で弾くとそのまま地面に向け、先でガリガリと土を掻いた。
「……どうしたの?」
私の質問には答えず、地面に目を向けたままぐるりと手を動かす彼。
その動きをなぞるように視線で追いかけると、今にも折れそうな枝でぐるりと大きな曲線を描いた。
―― ……?
何を描き始めたのかと見つめていると、曲線の下に続いたのは大雑把なギザギザとした形。そして、真ん中から縦に伸ばした、端だけゆるくカーブを描いたアルファベットの〝J〟のような一本線。
「……まさか、傘?」
「正解」
―― へったくそ。
と思ったけれど、かろうじて口には出さなかった。なんとなくの勘で形がいちばん近いものを言ってみただけだったのに、まさか当たるとは。
黙ったままの私に構わず、今度は傘の周りにまばらにいくつも短い線を描く。
「これは……」
―― 雨…かな?
絵しりとりでもするのかと無言ではくびの顔を見ると、折りたたんだ膝にちょんと片手を乗せていた彼は、地面を見たままポツリと言った。
「穂花の心は雨もよう」
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