8月17日(水)#1


 次の日は、昨日の雨が嘘のように晴れた。

 灰色の雲に隠されていた鬱憤を放出するかのように、眩い陽射しが部屋に差し込んでいる。

 豪雨のおかげで気温が下がったのか、かなり涼しい。

 昨日までは起きた時に肌が少し汗ばんでいたのに、今日の目覚めは爽快だった。



「ちょっと出かけてくるね」

 朝ご飯を終えて食器を洗い終わった私は、リビングでテレビを見ている母にそう声をかけた。

「はーい、気をつけてー」

 録画したドラマを見ながらコーヒーを啜っている母に手を振られ、サンダルに足を突っ込んでガラリと引き戸を開ける。

―― はくび……いるかな。

 向かう先は、いつもの場所。あの巨樹の下だ。

 昨日から、なんとなく気になっていた。子どもたちが叫んでいた「花火やりたい!」という声は無情にも天には届かず、夜になっても止まなかった雨。まさかあの天気の中、流石にあそこにいたはずはないけれど、普段なにをしているのか全く想像がつかない人だから。

 なんだろう、この感じ。毎日同じ場所で見かける野良猫の様子を見に行くような気持ちに近いのかもしれない。

 山の向こうに真っ白な入道雲がわき、昨日の名残で道のあちこちにできている水たまり。太陽が映りこみ、直視できないほどキラキラと輝いていた。

 道端で揺れる草にも雫が残っているようで、どこか空気が瑞々しい。久方ぶりの雨に、植物たちが喜んでいるように見える。

 底の薄いサンダルでパタパタと坂道を駆け下りる私の左手には、玄関の傘立てから引き抜いたビニール傘。こんなに快晴で降らないだろうとは思ったけれど、念のため持ってきた。

 風を後ろに流しながら足早に木の下に辿り着くと、いくら涼しいとはいえ真夏の炎天下。首の後ろを、じわりと汗が伝った。

「ふぅ……」

 袖でおでこの汗を拭くと、「はくびー?」と呼びかける。生い茂る葉に吸い込まれ、消えていく声。

 自分の足音が消え、ジーー……と蝉の声が聞こえるだけ。

 返答は無く、いつもの姿は見当たらない。幹の前に回り込んでも、太い枝を見上げてみても、その姿はなかった。

「…いない……」

 なぜか落胆している自分に驚く。

 毎日ここにいるとは限らないのに、一昨日もその前もそのまた前も当たり前のように会えていたから。今日も同じように、会えるかもと期待していたのだ。

「おーい」

 呼んでも意味がない事は分かっていたけれど。答える相手のない声は、静かにその場に反響して消えた。

「……帰ろ」

 いちいち口に出してしまうのは、「いつまでひとりでしゃべってんの」と笑いながらどこかから顔を出してくるのではと、期待しているからだ。

 しかし、虚しく私の声が響くだけだった。

「ほんとに帰りまーす」

 諦め悪くそれだけ宣言すると、とぼとぼと来た道を帰ろうとして、ふとひまわり畑の話を思い出す。


「ほんとに鮮やかな黄色で綺麗なのよ。別の町の方からわざわざ見に来る人もいるんだから」


 母の言葉が再生されて、ひまわり畑があるという小学校の方に目を向けた。

―― せっかく外に出てきたんだし、いい天気だし。

 見てみるか。

 そう思って、家に向けた足先をくるりと反対方向に向けた。9年ぶりの母校へ、かつての通学路を通って向かう。

 私が使っていた時と何ら変わらない、田んぼに挟まれた畦道。風の通り道を阻むものは何も無く、ほんのりと熱を含んだそれが頬をさらりと撫でた。

 両側に広がる田んぼでは、春になると田植えが始まりガタガタと音を立てるトラクターが道に泥の轍をつくる。

 梅雨時はカエルの声が響き、雨上がりには大人になったばかりの小さなカエルがぴょこぴょことそこら中を飛んでいて、ランドセルを背負いながら踏まないように進むのが大変だった。

 そしてすくすく育った稲たちは、秋頃まで今のように緑の身体をしなやかに揺らす。見たところ、昨日の雨で一部の頭が倒れてしまっていたけれど根はしっかりと力強く張っているようだ。

 傘をコンコンと足の先で蹴飛ばしながら歩いていると、ぽちゃんと音がして石ころが田んぼに落ちた。波紋が広がってあめんぼが弾けるように動く。

 そうして10分ほど、田畑ばかりの変わりばえしない光景を見ながら懐かしい道を歩いた先。

 それは突然現れた。

「あ……」

 思わず立ち止まってしまう。

 先ほどまで稲しか見えなかった中にぽつんと浮いた、黄色に染まった景色。一面のひまわり畑が、古びた校舎の裏手に広がっていた。

 一度止めた足を踏み出して、駆け寄るように近づく。

―― まさか、こんなに。

 目の前に広がる、圧巻の光景。

 爽やかな青空の下、もくもくとわいた真っ白な雲を背景に揺れるひまわりたち。絵画のような風景に私は思わず息を呑む。

 まさか、こんなに綺麗だとは思わなかった。

 他の町から見に来ている人がいたと母が言っていたけれど、これは頷ける。今も、犬の散歩がてらひまわりの間を通っていく人や、カメラを構える人の姿がちらほらとあった。

 閉校の時の最後の思い出にと言っていたけれど、こんなところに咲き誇っているのがもったいないと思うほど。上を向いたひまわりたちが、昨日の豪雨の影響などまるで受けていないように風にあたって気持ちよさそうに揺れていた。

「すご……」

 私の背丈ほど、という例えは大げさかもしれないけれど……いや、どうだろう。場所によっては、私よりも背が高いものもありそうだ。

 その場に立ち尽くして見惚れていると、不意に鮮やかな黄色の隙間に見覚えのある白い背中が目に入った。

「あ」

 線路沿いに続くひまわり畑の、端。吸い寄せられるように視線が止まる。

 後ろ姿で、もう分かる。

「はくびー!」

 思わず人目を忘れて、勢いに任せて思いっきり叫んだ。

 蝉の鳴く声しか聞こえない空間に突然響いた私の声。その声がガツンとぶつかったのか、頭が上がった。

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