8月15日(月)#3

 

 そういえば、と思う。

 この前聞いた名前を、まだ呼んだことがない。向こうは昔から知り合いだったみたいに呼び捨てしてくるのに。

―― 私はなんて呼んだらいいんだろう。いきなりくん付けは馴れ馴れしい?

 彼にじっと見られていることに気づいて、考えながら急いで私も石段に駆け寄る。

―― でも向こうはいきなりタメ口だったし……そういうの気にしないタイプかな。

 探るように、整った顔を見つめながらタッパーを開ける。透けて見える赤い中身に色素の薄い瞳が少し大きくなり、興味津々といったように身を乗り出した。

「あの……どうぞ」

 ここまで歩いてきたから、もう冷えていないかもしれない。

 蓋だけ紙袋に戻しつつ差し出すと、子どもみたいな大きさなのにやけに骨ばった手がぐんと伸びて、ひとつ掴んだ。そのままシャクッとかぶりついた彼のそばに座ろうとして、隣は遠慮して一段下に腰かける。

 いつも木を背もたれにして足を伸ばしている姿しか見ていなかったから、こんな風にガバッと足開いているのがかなり新鮮だった。格好は大人の男らしいのに、少年のような無邪気な顔でしゃくしゃくと咀嚼する。

「甘いですか?」

 そう聞いてみると、コクリとうなずいた後、ふふっと笑う。

「敬語いらない」

「え?」

「俺も呼び捨てしてるし」

 呼び方もはくびでいいよ、と。

 まさに私が先ほど考えていたことを、さほど大したことでもないようにサラリと解決し、またスイカにかぶりつく。

 口の端についた赤い汁をぺろっと舐める様子が、何だか見てはいけないものを見てしまった気がして慌てて目を逸らした。

「はくびでいいよ…って……」

―― そんな簡単に言うけども。

「なんか距離ある感じすんじゃん、敬語って」

「はあ……」

「だからやだ」

 俺が寂しいからやだ、と続けた理由が子どもっぽくて、思わず笑ってしまった。

 ふとした瞬間に見せる表情は、この人は一体何年生きているのだろうと戸惑うほど。内面から滲み出るオーラがあるのに、距離が近くなるにつれてどこか幼ささえ感じてしまう、やっぱり不思議な人。

「じゃあ敬語使ったら罰ゲームにしよ」

「えっ!」

「何にしようかなー」

「わ、分かりました、あっ」

「あ」

「い……今のは無し!」

 唇の端を親指で拭う彼に慌てて言うと、「…………はくび?」と躊躇いながら、小さく呼んでみる。

―― 何この、付き合いたてのカップル、みたいな。

 しかも言われた本人は照れもせず、満足そうにうなずいている。私だけやけに初々しい感じが余計に恥ずかしい。

「あ、あの、はくび……はスイカ好きなの?」

「好き」

 話題を逸らそうとして尋ねたら、アッサリ答えてもぐもぐと頬を動かす。「これめっちゃうまい」ともごもご言いながら、「んっ」と小さく声を上げ、べっと出した舌の上には黒い種が乗っていた。

「……出さなくていいよ」

「んー」

 ふふ、と笑う顔は可愛いのに、ぐっと反った喉仏が男らしく浮き出ていて、視線の置き場所が見つからない。

 しかし、驚いた。彼の言う通りだ。

 名前を呼んだだけなのに、一気に距離が縮んだ気がする。

「……はくび」

 練習するように口の中で小さく呟く私の気も知らず、タッパーから呑気に二つ目のスイカを取っていく。

「あ、あの、ここほんと涼しいね。」

 場を保たせるように言うと、「でしょ?」と何故かちょっと自慢げ。ご機嫌に揺れる膝が私の肩に当たる。

「小さい頃はよく来てたけど、全然変わってないなあって」

 10年以上前を思い出しながら呟いたら、それに答えるようにシャクッと爽快な咀嚼音がした。

 ニュースで話題になるぐらいの酷暑の中、木に囲まれたこの場所は昔と変わらず涼しい。あの頃より緑が濃くなっているような気はするけれど、目まぐるしくいろんなものが変わっていく現実から切り離されたように、ここだけピタリと時間が止まってしまったような。そんな雰囲気は変わっていない。

「懐かしい?」

 早くも二つ目のスイカを平らげて、そう尋ねてくる。

 頷きながら、この調子だと全部食べられてしまいそうで慌てて私もひとつ手に取った。

「懐かしい。友達とよくかくれんぼとか、鬼ごっことかしてたの」

 繰り返しになるけれど、ここは当時から蔦や苔が生い茂り、時間軸の違う異空間めいた気配漂う神社だった。それでも、かくれんぼをしていて誰かが行方不明になったりとか、鬼ごっこをしていて知らない子が混じっていたりとか、そんな超常現象が起きたことは一度もない。

 街の方の子どもたちが公園でワイワイ遊ぶように、私たちにとってはここが至って普通の遊び場だったのだ。

「ここだとね、神様が見守ってくれるから安心なんだって」

「へえ、神様」

「うん。よくおばあちゃんが言ってた」

 言いながら、スイカをひと口かじる。途端に甘みが口いっぱいに広がって、久しぶりの味にうっとりと目を細める。太陽をたっぷり吸い込んで熟した夏の味が喉をつぅ、と滑り落ちた。

「はくびたちはどんな事して遊んでたの?」

「ん?」

「鬼ごっことかしなかった?この辺に住んでたら遊び場所ここぐらいしかないし……」

 聞きながら、手に持ったままのスイカの汁が腕に垂れてきて慌てて口をつける。

「あーあー、子どもかよ」

 カラカラと笑い出す彼に何故か嬉しくなって、つられるように「あはは、だよねえ」と顔が綻んだ。

 初めは、精巧に造られたロボットなのかと思うほど淡々としていたのに、話してみると感情豊かで意外とよく笑う。

「あ、しまった……ティッシュ持ってくるの忘れちゃった」

 言いながら、服まで垂れないようスイカを一旦タッパーに置いて、前腕を持ち上げて軽く振る私。

 それに対して、「え?これでいいじゃん」と何でもないことのように私の手首を掴んだはくびは、なんとこれまた何でもないことのように自らの袖で拭こうとした。

「え!ちょ、はくびの服汚れちゃうって」

「いいよそんなの」

「だっ、だめだってばちょっと……!」

 唐突に掴まれた手首がまた、昨日と同様にじわっと熱を持つ。見かけ以上にがっしりとしていて、男を感じさせる力にドキリとした。

 同時に、本当に気にしていなさそうな彼の袖がそのまま赤い跡に触れそうで懸命にもがく。こんな綺麗な白シャツを汚すわけには、という純粋な遠慮と、この距離感ゼロの手は心臓に悪い!とあわてて逃げようとする気持ち。

「い、いいいいいよ、ほんと、目立つし白!に赤!」

 よく分からない日本語でどうにかして半ば強引に彼の手を解くと、急上昇した心拍数をなんとか抑え込もうとしたエネルギーが「乾くと思うから!すぐ!」とやたらボリュームある声となって外に出た。

 いまいち距離感が掴めず明らかに動揺しすぎな私。対して、「気にしなくていいのに」と一切温度感の変わらない彼。

―― 気にするとか気にしないとかの話じゃないんです!

 という心の声は、表に出ることはなかったけれど。

 手首から肘まで伝った、赤い跡。勢い任せにブンブン振ってどうにか乾かそうとしていた私は、斜め後ろにいる彼がどこか懐かしそうに目を細めていることに全く気が付かなかった。

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