8月15日(月)#2


 さわさわと風に揺らされる黒髪と、それを少し鬱陶しげにしていた横顔。物事に興味がなさそうで、それでいて何故かあたたかい温度の瞳。

―― 食べるかな?スイカ。

 差し入れ(何の差し入れかは置いておいて)と言って、おすそ分けすることはできないだろうか。いやでも、突然渡されたら引かれるかもしれない。まずスイカが好きなのかも知らないし、そもそもまた会えるとも限らないし……。

 なんてぐるぐると考えつつ、気持ちより体の方が素直なようで、手はシンク下の戸棚を開けて透明のタッパーを取り出していた。手際良く蓋を開けてざっと水ですすぐと綺麗に拭いて、三角形に切ったスイカを詰める。

 どうしよう、と頭では思いながら、渡しに行きたいと私の心は決まっているようだ。どちらかと言うと、彼の顔が見たいという気持ちの方が大きいかもしれないと思う。

 出会って数日しか経っていないのに、どこの誰かも知らないのに。なぜか私は、随分とあの彼に魅せられているらしい。

 カットしたスイカを入るだけ詰め、カチッと蓋をしたタッパー。何かのお土産をもらった時のものか、キッチン下に雑然と置かれていた紙袋を取り出してその中に入れる。

 そして急いでTシャツとショートパンツに着替えると、一応、家の窓を全て閉めて、玄関の鍵もしっかりかけた。

 帰ってきた日と何ら変わらない気温の中、相変わらず煩い蝉の声を聞きながらあの木に向かってサンダルをつっかけて走る。

 もしかしたらいないかも、と予防線を張りつつ。なぜか、いるような予感がした。

 きっと彼はいるはず。そう思って行ったら、やっぱり。

「あ、穂花」

―― いた。

 いや、正確にはいつもの位置にはいなかった。

 声が上の方から聞こえて気づく。木の下に入って少し視線を上げた先で、彼は太くてしっかりした枝の上に寝そべっていた。

「おはよー」

 私の顔を見て、にこっと笑う。

 猫みたいだ、と思った。眠そうで、丸みのある体躯を伸ばして、尻尾があったらひょんと揺れていそう。

「どしたの」

「あ……スイカ、好きですか?」

「スイカ?」

 興味を持ったのか、むくりと体を起こした彼。猫だったら鼻がひくんと動いているところだ。

 手に下げた紙袋からタッパーを出して見せると、太い幹に柔い手を置いて中を興味深そうに覗き込む。

「甘い?」

「え?あ、どうだろ……」

 そういえば、切ってそのまま持ってきてしまった。余った分は冷蔵庫に入れたから、食べようと思って切り分けたくせに味見をしていない。彼に渡そうと思いついた瞬間からそちらに意識がいってしまって、自分が一口も食べていないことに今さら気付いて我ながら呆れてしまう。

 でも、毎年あのおじいさんがくれるスイカは、太陽や土壌の自然豊かなエネルギーをたっぷり含んでいるものだから。

「いつも甘くて美味しいですよ。私が作ったわけじゃないけど」

「ふうん」

 口を尖らせて首を傾げる。いちいち仕草が可愛い。

「好き」

「え?」

「俺、甘いの好き」

 そう言うと、体重なんてないかのようにぴょんと身軽に枝から飛び降りた。

 初めて地に足をつけて立った姿を見て、身長差に思わずドキッとする。可愛い顔をしている上に、袖から覗いていた手は丸く、座っている姿の背格好からもっと小柄なイメージだと思っていたのに。

 想像していたよりも背は高く、同じ位置に目線はこなかった。

「食うならもっと涼しい場所行こー」

 そう言って、「あっち」と山の方を指す。

「あっち?」

「あっち」

 私の質問返しにも答えを変えず、具体的に何かを教えてくれるでもなく。木陰から出てトコトコと歩き始めた。

―― あれ、一緒に食べるの?

 渡すだけのつもりだった私は、いまいち状況が掴めずに意味もなくキョロキョロしてしまう。

 しかし、そのまま私が後からついてくることを疑いもしていない背中はどんどん遠ざかる一方。タッパーを紙袋に戻しつつ、慌てて追いかけた。

 これまでナマケモノのようにぐでんとした様子しか見たことがなかったせいか、動いている彼を見るのは新鮮だった。

 皺くちゃになった、白いシャツの裾。同じものを何着も持っているのだろうかとどうでもいいことを考えながら、彼について辿り着いた先。

 2日前にお墓参りをした場所の近くにある、ゆるやかな山を長い石段で切り開いた小さな神社だった。

「あ、ここ……」

「ん?」

「子どもの頃、よく来ました、友達と」

 階段の麓に建っている汚れた社号標には、柏神社と彫られている。

 正確には、〝柏〟と〝神社〟の間に何か文字があるようだ。しかし長年の風雨に削られ、さらに苔に覆われてハッキリと文字が読めなくなっていた。本当の名前を知る人は少なく、実際ここで生まれ育った私も知らない。

 ただ、境内には大きな柏の木もあるためこの町では「柏神社」の通称で親しまれていた。

 田植えが始まる頃に開かれる小さな祭りや、初詣で人が集まる年明けに、ひっそりと小さな屋台が出る広い神社。その時期以外はそんなに人が来ないため、普段の遊び場所にはぴったりだった。

 小学生の頃、授業が終わると家に帰らず、友達と一緒に一目散にあの赤い鳥居を目指していたことを思い出す。階段を駆け上がってこの神社に辿り着くと、一気に気温が低くなって夏でも随分と涼しかった。

 ランドセルを灯篭のそばに置き、色々な遊びをしたものだ。かくれんぼ、だるまさんがころんだ、はないちもんめ、缶けり。

 あれからもう、10年以上。

 彼と肩を並べて階段を上りながら、こんなに長かったっけ……と思う。小学生の頃は一段飛ばしで駆け上っていたから、あっという間に感じていたのかもしれない。

 石段を上り終えて中に足を踏み入れると、偶然そこにあった割れた石畳の欠片を蹴飛ばしてしまう。

 カラン、と乾いた音が木々に吸い込まれ、見上げた広い境内の中は深い緑が生い茂っていた。

 太い幹に蔦が絡み、突然やってきた人間を品定めするかのように葉たちがざわめく。

 本殿の前には、苔を被った石の狛犬が二匹。一瞬、目が合った気がしてドキリとした。

 思わず視線を彷徨わせると、伸びた枝葉が手水舎にかかり、水の無い桶には柄杓が伏せて置かれたまま。

 大人になった今来てみると、得体の知れない何かに遭遇しそうで、漠然とした不安感と若干の不気味さを感じる。

 こんなにも時間に置き去りにされたような空間だったっけ、と思いつつ、異世界に迷い込んだようなこのワクワクする感覚は、子どもの時に感じていたものと同じ。

「懐かしいなあ……」

 ここに帰ってきて、もう何度感じたか分からないこの気持ち。

 街中での、多くの人と無機質なモノに囲まれた生活に慣れてしまったせいか、ここに住んでいたのが遥か昔のことのように感じる。たった21年しか生きていないのに、ここで駆け回っていたのがまるで何十年も前かのような錯覚に陥るのだ。

 日没の早さで季節を感じていたあの頃。

 スマホなんてハイテクなものは無かったし、携帯電話も当然持っておらず、その上ここには時計もない。だから日が沈み始めたら帰るのが約束だった。

 古びた本殿を見上げて、記憶を追いながら視線をゆっくりと下げていく。

 立ち止まった私に構わず先に参道を歩いていた彼が、賽銭箱の前の小さな石段にどかっと座った。

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