優しい世界
「ゼンゲン侯爵様から、毎週、貴女の……行動記録? どうも部下の方にお願いしてるんじゃないかしら。報告書みたいなものが届いていたの。だから、あなたが王宮に通ってたこととか、街に出て住居区を見て回っていたこととか、あくまで遠くから見たようなことをね、お知らせくださっていたのよ」
「な……」
すれすれなことを、聞いた気がする。
侯爵に監視されていた? 何のためだろう。怖い。
けれど、母はさらりと流している。いいのだろうか、とローゼは迷った。
だがあまりそこに拘ると、確実に恐ろしい羞恥に襲われると察知して、結局考えるのを止めた。
「詳しくはわからなかったけど、誰か好きな人ができたのね? そしていっぱい悩んでるのね?
いいじゃない、いいじゃない。悩むのはいいことよ。
でも、もう十分悩んだでしょう? 次は行動よ。もう好意は伝えたの? 自分から何もしてないなら、今度はグイグイ行けばいいのよ、大丈夫」
「もう、いつもそうして適当なことを言うんだから」
「だってえ、私が手塩にかけて育てたのよ。ローゼはいい娘だもの。大丈夫。それにどんな結果だって、会えなくなってから後悔するよりいいわ」
「……説得力、ありすぎ」
「ふふ、あら、なんで?」
「だってお母さん、きっとたくさん後悔したんでしょ?」
父の死は任務中の事故だったから、朝はいつも通りに見送っただけだったはずだ。
突然の別れに、予見のできない非力な人間は、大概なぜか自分を責め、絶望に打ちのめされる。
そして別れの後の母は、赤子のローゼに振り回されてきたはずだ。どうしてこうなったと、思ったに違いない――。
小さな頃からローゼの中に巣食うそのやるせなさを、母に見せたのは初めてだった。
「後悔なんて私はしてないわ。ローゼを侯爵家に養女に出すのを断ったのは、自分で育てたかった私の都合だもの。こうして、真剣に人を好きになる年まで育てられて、私は私の願いを果たしたのよ」
どきり、とローゼの深いところにいた小さなローゼが、顔を上げた。
本当に? わたし、邪魔じゃなかったの?
「前侯爵様にはね、私は若いから別の幸せを探すといいって言われたの。優しさのある方だったと思うわよ。でも、私には、ローゼが必要だった。ローゼを取り上げられてしまうとしか思えなくて、怒りしか感じられなかった。
だから、国王陛下に直訴してでも離さないつもりでこう言ったの。
『私の娘だから私が育てます。侯爵家で育ててもらってもローゼは幸せになれると思うけれど、私は幸せじゃありません。私が育てたら、私もローゼも、幸せになれます』
って。
だからね、ローゼ。お母さんは幸せ。後悔してないから。
ローゼも、幸せになるのよ!」
そこには、小さなローゼが想像していたような、傷ついて失って寂しそうに諦めて笑う母などいないし、諦めていたものをようやく得て、そのせいでローゼを邪魔にしている母も、もちろんいない。
ちょっと気の強そうで挑戦的な、幼い頃から見てきたままの母の笑顔が、真っ直ぐに自分に向いている。
どうして、見えてなかったのだろうと不思議に思って、ぼんやりとわかった。
ローゼこそが、その笑顔の上に薄いベールを重ねてきたのだ。
愛人の子だと指さされ、突き飛ばされるたびに。一枚また一枚と。
やっと意識の全てがはっきり目覚めたような感覚だ。
気力が湧き、食事を増やすと、体も回復した。
母は安心して南の街へ帰り、ローゼは心身を整えてアルバインの遠征からの帰りを待つことにした。
もう一度だけ、会って、話をしようと。
冬の終わりには、アルバインが帰ってくるはずだから。
「ローゼリア、すまん……」
また、ランドリックがそんなことを言ってきた。
片手で顔を覆って、嘆くようにして。今度は何をしたというのが、懲りない従兄弟だ。
「悪い知らせだ。アルバインが、怪我をして意識がないって。搬送されて、部隊よりひと足先に王宮に帰ってくる」
ほら、また碌でもない。驚かそうとしているに違いないのだ。
「……意識がない?」
また薄ら笑って、ごめん間違えた、などと言うはずだ。それにしたって、よくない冗談だ。
「詳しくはまったくわからない。父上なら知ってるかもしれない」
よくない冗談。冗談のはず。
けれど。もし本当だったら。
ローゼはランドリックの横をすり抜け、侯爵家に来て以来ずっと避けていた、当主執務室へと走り出した。
後悔は、こんな形の後悔は絶対にしたくない。
「伯父様!」
ゼンゲン侯爵が屋敷にいたのは幸運だった。
ローゼは、自分が何を喋っているのか、もうよくわかっていなかった。意識は全て、アルバインの元に飛んでいる。
「侯爵様、伯父様、どちらでもいいわ! アルバイン・コルティス様がお怪我をされたと聞きました」
普段は鋭い騎士総長の目が、丸く見開かれていた。
「伯父様、姪と思ってくださるなら、一生のお願いがあります」
これで頷かなかったら、騎士総長は騎士を使って一般人を無用に監視したと国王陛下に直訴する、と脅すつもりだった。
あるいは侯爵夫人に泣きつく、あるいはあるいは。
「言ってみなさい」
低い声が、思ったより穏やかに返事をくれた。
「あ、あ、わたし、アルバイン様が好きなのです」
「……うむ、知っている」
「そ、そうですか。……私は自分勝手にアルバイン様から逃げてしまいました。だけど勝手ですが、もう一度お会いしたいのです。そしてできることなら、添い遂げたい。アルバイン様のお心はまったくわかりませんけれど、私はアルバイン様の隣にいたいのです。
――だから、だけど怪我を、搬送されるほどの怪我を」
「もうよい」
「あの、でも、無理だと知っててもどうしても」
話を打ち切られる。なかったことにされてしまう。
怖くて、ローゼは必死に侯爵の目を覗き込んだ。ランドリックによく似た目が、思ったより穏やかにローゼを見返した。
「まずは王宮の騎士団本部に向かおう。一番情報があるだろう。支度をしなさい。十分後に玄関だ。いいね?」
ふと。
ローゼは、今まで自分が見ていた世界は、鏡合わせの別の世界だったんじゃないかと思った。
それくらい、思いがけず、そしてローゼに優しいことばかりが起きている。
それとも自分だけが、優しい世界を斜めに見ていた棘だらけの異分子だったのだろうか?
「あの」
「コルティスは遠征中のはずだ。大怪我なら空翔馬の救護団が空輸するだろうから、それでランドリックが知ったのだろうな。東部からなら、半日しかかからん。急いだほうがいい。
ああ、不思議に思っているのか。……そなたは、私を怖がって近寄って来なかった。その私に、今はこうして物怖じせず要求をぶつけてるんだ。娘のように見守ってきたそなたの、それほど大切な願いを、無下にはしたくない。だから私も動く。それだけのことだ」
「――あ、ありがとうございます!」
ローゼは自室へ走り出した。
もうその足元は、川に流され揺れる枯葉ではない。
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