恋の淵に沈んで溺れ2


 重たい瞼を開けると、誰かが覗き込んでいた。

 優しい香りは、もうかなり馴染んできたもの。


「侯爵夫人……」

「あら、意識がはっきりしたのね。よかった。ほら、少しだけ口を潤しなさい」


 言われるがまま、匙から水を幾度かもらって、ローゼはやっと自分の状況を思い出した。


「こんな、看病していただいて。ご迷惑を」

「迷惑じゃありませんよ。心配で、したかったからしたまでのことです」

「でも」

「あなたは意地っ張りねえ。さっきまでは、お母君と間違えて、お母さんと呼んで甘えてくれていたのに」


 本当かどうか、ローゼにはわからない。

 恥ずかしがって赤くなるべきか、失礼を働いたと青くなるべきかもわからない。


「ふふ、揶揄ってごめんなさい。ほっとして、気持ちが軽くなっているの」


 そういうと、夫人は言葉の通り、疲れの見える顔に和やかな微笑みを浮かべて、あれこれとローゼの世話を焼いてくれた。薄めのスープを飲み、人心地がつくと、夫人はそっとローゼの手を取った。


「ねえ、今まではまだ急すぎると思って言わなかったのだけど。私のことは、伯母様でも侯爵夫人でも名前ででも、好きに呼んでくれていいわ。そしてね、あなたは成人していて、私とあなたは親子ではない。だから、社交界ではともかく屋敷の中でなら、人として対等に向かい合っていいと思うの。――女友達のようにね」


 だから何にも気にしないで、つらいこと、話せることだけでいいから話してみて。

 母より年上の女性に、そう言って優しく抱きしめられて。

 ローゼは気がつけばあらゆることを喋っていた。


「わかったわ、よくわかった。一人で抱えて限界だったわね」


 そうだ。ローゼは一人だった。

 南の街では中途半端な存在だったから。

 母と娘、与えられた屋敷、時々迎えに来る領主の紋章のついた馬車。愛人の子ではないかと囁かれていたのを知っている。表立っては誰もが優しいのに、誰も見ていないと突き飛ばされたり仲間外れにされた。

 だから、心許せる友人はいなかった。


 母にも、つらいと泣き言を言うこともなかった。心配をかけたくなかったから、代わりにニコリと笑って抱きついた。

 ただ何も言わずとも、友達と遊びにも行かずに仕事を手伝いたがるのには、察することもあったかもしれない。

 けれどその母ももう、ローゼよりも大事な人を得た。


 王都に来て、中途半端な立場で何をすることもなくいれば、友人はできない。

 ローゼは、誰にも胸の内を語ることができずに、心が膿みそうになっていた。


「よく耐えたわ。でもね、これは大事なことだから、きちんと聞かせて欲しいの。あなたは、どうしたいの? このところ準備をしているみたいに、一人で生きていきたいの? それとも?

 ――夢でも嘘でもいい、言ってみて」


 思いやりに満ちた言葉が、恋の淵に沈んで溺れていたローゼに、ほろほろと空気を与えた。

 息を吸う。

 息を吐く。

 息を吸って。


「アルバイン様に会いたい」吐く。


 息を吸って。


「アルバイン様と一緒にいたい」吐く。


 息を吸って。


「私、アルバイン様を好きになったの」吐いた。






 それから、駆けつけてくれた母にも涙ながらに不養生を窘められて、子供のように抱きしめられた。

 実は母は、ローゼの心が疲れてしまうことを心配して、侯爵家で休暇を取るように勧めたのだという。ローゼが旅立った後からずっと、ローゼが帰ってくるまでは反省するようにと、ギムレイと部屋を分けているのだそうだ。それを聞いた時は、つい笑ってしまったけれど、母は意外と真剣だった。

 ギムレイはギムレイで、ローゼがいないことを寂しがり、毎日今日帰ってくるかと聞くらしい。

 それだけなら、母に部屋も戻して欲しいからじゃないかと思うけれど、時々は床を拭き掃除しているというので、もしかすると本当に少し気にしているのかもしれない。


「一月くらいで帰ってくるかと思ってたら、なかなか帰ってこないし。このまま一人暮らししようとしていたんですって?」


「侯爵夫人……えっと、伯母様もご存知だったけど、どうしてわかったのかしら」


「……あのね、言いにくいんだけど」


「何?」


 意外と気風のいい母が言い渋るのは珍しい。

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