アイトネ2012―お父さんは小市民ランナー

gaction9969

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 残すところ、あと二週間しか無いのであった。


 東京マラソン2012……十倍近い抽選を勝ち抜いて、GETした参加権……出場しないわけにはいかないと、ごくごく平凡な市民ランナー、クガ ガクトはようやく涼しくなってきた十月くらいからフルを走りきるための練習を自分なりにやってきたのであるが。


 二人目の子供が生まれてからは、真夜中に二時間おきくらいに起こされては、泣く赤子とそれにつられ不機嫌になる三歳児とそれらにピリつく妻とをどうにかあやしすかし宥めながら、読めない諸々の事象の中で何とか仕事と日常を回していくという、次第に頭蓋骨の中で自分のキャパを超えた脳みそが、熱を持ったり逆に冷え切ったりさらには不気味に蠕動し始めたりといった錯覚を呈するほどにキツい毎日を送っているさなかのことなのであった。


 これはかつてないしんどい戦いとなる……


 ぬるま湯で沐浴をさせた後の冷え切った体で乗った体重計の上で、何回表示を切り替えても<90.2kg>を呈す液晶を見下ろしながら、なまじの中年太りよりも中年太りを如実に体現している我が身を真顔で眺めるほかは無い33歳なのであった。


 しかしてこう見えてフルマラソンの経験は五回ほどあり、その全てをタイムはともあれ完走している。そして他ならぬ東京マラソンにおいては過去五回の大会のうち、記念すべき第一回目を含め三度も参加しているのであった。途轍もないクジ運であり、会社でもそれを得意げに吹聴していた手前、今回も参加しないわけにはいかない。だが、過去数年とは状況がまるで違う。上の子が生まれる前はいわんや、こども一人の時は何とか走る練習の時間を捻出できていたものの、今それをやるのは相当にきついというか、そもそもそんな事をやろうとすら思わないほどの大脳状態なのであった。なので秋口からは土日に上の子を自転車に乗せて近場の公園に向かい、そこにある遊具で子供の相手をする合間合間に筋トレをしたり常に足踏みしていたりするという、挙動がもう少しで不審レベルに振り切れてしまうだろう怪しさを醸し出すばかりの練習というのもおこがましいことしかやれていないのであった。


 このままでは、前の四の舞いだ。


 クジ運とは別に、マラソンとの相性はことごとく悪いクガなのであった。荒川河川敷では本当に歩くことも難しいほどの突風に見舞われ、両腕を顔の前にかざしながらじりじりと風の合間を見計らいながら進むという特撮映画のモブのような動きを強要されたり、都庁前のスタート前では折からの結構な本降りの中に小一時間ばかり直立不動を強要されるほどのぎゅう詰め状態で整列させられたまま走り始める前に完全に冷え切った体がハンガーノックというのか、完全に手足を繰り出すことが出来ずに固まってしまい、回復を求めひたすら給水・給食所で何か咀嚼している時間の方が長いのではというマラソンというよりは都内食べ歩きのような雰囲気を醸していたり、要らん快晴に伴い妙に暑かったり、逆に小雪がパラついて初っ端から心を折られにきたりと、あまり恵まれているとは言い難い。それでも、


 五時間を切りたい……!!


 小太りとしての最終目標はあるのであった。サブスリーでもサブフォーでも無いが、それをずっと目標としてやってきたところはあるのであった。


 取れない時間をどう取るか。まずは食事から変えていくことにするのであった。とにかく体重を減らさないと、膝へのダメージで途中で走ることが出来なくなるのがいちばんつらいのであった。納豆、豆腐、鶏ささみ、ゆで野菜、その辺りを中心に家族のとは別に自分の分を用意する。


 そして、走る。筋トレも確かに必要だが、とにかく実際に走らないことには走る筋肉が生成されないように感じるのであった。走る時間が無ければ、今ある時間を活用し、ズラして創り出す他は無い。会社からの帰り道、約十一キロを走って帰る。毎日。終業後、ロッカーで素早くジャージに着替えると、リュックを背負って正門から逃げるように駆け出すのであった。そして子供と共に寝て、早朝「誰もが寝ている時間」を狙って一時間ほど家の周りを走る。午前三時。早朝と言うにもおこがましい時間帯だが、これなら排ガスも流石に舞っていなく、凍てつく寒ささえ対処しておけば、最も走りに適した時空間と言えるのであった。


 こうして何とか身体を絞り、膝周りを中心に筋肉も鍛えたクガだったが。


 やはりツイていないことには曇りはないのであった。


 前日の前夜祭、本人登録とゼッケン等の受け取りをしに行ったビッグサイトでの催し、その一角で売られていたひとつの「靴下」にふと目を奪われてしまう。「X字に補強された伸縮する布地が、長距離を走るうちに落ちてくる土踏まずを優しくサポート」……そのような文句に何故か惹かれ買い求めてしまい、それをいきなり本番で履いてしまった。自業とも言えなくも無いが、走り続けるうちに、その「X字」と普通の布地を縫い合わせたところが執拗にクガの蒸れた足裏を摩擦刺激し、ついには靴下が真っ赤になるほどに血豆を生成させては破裂させるのであった……


 走るたびに両足裏を刺すような痛み。血で貼り付き、それを剥がすのも傷口を見るのも怖ろしくて脱げなくなった「X字」と共に、しかしそれ以外のコンディションは好調だったため、えらい切羽詰まった顔にて、沿道の観客を困惑させつつも結構なペースにてお台場を目指すのであった。


 結果、4時間59分10秒。


 目標達成よりも、これ歩いて帰れるかな……くらいの恐怖を胸に、そそくさと帰るメールをしてから帰路につくのであった。


 湾岸の風を受け、思わず見上げる曇り空。その隙間を縫うかのようにして、確かに見えたのは、ひとつの光点。


(了)

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