走るマッチョ

千羽稲穂

走る筋肉vs走る馬

 臀部が持ち上がり筋肉がしなやかに動き出す。細い足は三本の指しかなく蹴ることに特化している。固い土をもえぐりだし前へ進む推進力を生み出す。飛び跳ねるように前へ前へ。気づけば音速を超えているのではないか、というくらい風景が変わる。だが、彼らの視界は狭い。前しか見えず、横にいる私など、いや、走る仲間など視界の隙すら入らない。うなじから背中へ尻へと視線を傾けると、長いはたきのような尻尾が目にはいる。普段は身体についた虫をはたくために動いているそれは疾走しているときは後ろになびき清らかな風を残していく。風を切ると背後に突風が生み出される。風を浴びてその動物はきらきらと輝く。そうして私たちを置いて先に進みゴールをきる。

 私は彼らの躍動する筋肉に共鳴した。彼らと共に走りたい。そうしたら同じ世界に辿りつける気がしたのだ。隆起する我が筋肉も答えていた。走りきった後の世界が見たい、と。


「対決だ、馬」

 トラックに並んだ。

 ポーズはクラウチング。人間の現在最速とされるスタートポーズだ。上腕二頭筋が視界の左右を埋め尽くす。走り尽くして焼かれた肌は日が照って黒光った。重くなった臀部を山の頂点に上りつめさせる。ふくらはぎをむき出しにして足を乗せる。黒土が膝にかすかにまぶされる。脇から漏れ出す背中の筋肉が盛り上がる。背負うものは、これまでの自身の鍛え抜かれた力だ。

 隣にいるのは、四本足をぷらぷらと遊ばせている動物。トラックの扉は開かれていない。後ろには人間を乗せている。手綱を握られていた。

 私は私の意思で走る。

 先程の回で走った馬の蹄の痕がところどころ土に残っている。踏み荒らされた土に全体重をのせた。目の前のトラックのみ見つめ続ける。他のものなど、視界や、意識にすら、浮かび上がる前に蹴落としていく。澄み切った空気が占めていく。何もかもを澄み切らせていく。じんわりと滲みきっていく。耳元で緊張できーんっと耳鳴りが高鳴った。

 そして一瞬の、耳鳴りの止み。

 空間は弾けて、空白を伸ばした。

 隙をついてスターターピストルが撃たれた。

 トラックは開け放たれて、四本足の化け物は一歩踏み出された。私も同時に前へと踏み出す。まず、私のふくらはぎの筋肉がくっきりと動き出す。上半身をひねりあげて勢いをつけてまっすぐに走り出す。隣の敵は鬣(たてがみ)をふりみだして、同じく臀部の筋肉の割れ目をみせてしなやかに踏み出した。

 一歩、動物と人間とでは異なる歩幅。四足歩行であり、巨体な馬にかなうはずはない。

 それでも、私は走りたかった。

 走り出し始めると、上半身の胸筋肉がぼこぼこと動く。風を受けて、腹筋がうなりをあげる。腕を動かす筋肉は最小限に。がっつりとウェイトで締め上げた筋肉の筋がつくほどの上腕二頭筋を使うことは意識せずに振り回す。右、左、右と足を踏みしめる。

 一方で、土を蹴り上げる音はあっというまに迫り来る。三歩もすると、私の視界の左に訪れた。黒く長い髪には暁の粒が舞い散っていた。人間が乗っているデメリットがあるにもかかわらず、簡単に追い抜いてくれる。だからこそ、私はやつを想い続けてやまなかった。筋肉のしなやかさはさることながら、四本足の構造、走る仕組み、どれをとっても機械的な芸術品。動く走るメカニカルな筋肉。それだけではない。今なお、その筋肉の躍動は恐れることなく、人間の手によって走力を上げ続けている。

 人間の筋肉は、一旦壊してからが本番だ。ウェイトでダメージを負わせて再生させるときに、以前よりも大きな筋肉を蓄えさせる。このダメージが大きいほど見返りも大きい。やつの筋肉に感銘を受けた私は、同じようにダメージを負わせて、筋肉を増幅させた。

 上腕二頭筋が大きくなり、盛り上がっても、まだ。腹筋が六等分になっても、ぜんぜん。胸筋が発達しても、足りなかった。背中の筋肉を背負うたびに、彼らを見つめた。彼らになりたかった。まっすぐ走りたかった。

 視界の先で追い越していく。当たり前だ。走力などはなから相手にならない。

 だが、決して置いて行かれない。

 歯を食いしばれ。

 目の前のやつを見逃すな。

 相手もこちらもスタミナがある。

 目算で二メートル。

 これを保て。

 朝日が差し込んでくる。私とやつの間に女神が降りてきたようだった。

 私が筋肉を作るのをやめようか、と考えたときもあった。苦しいときも、狂ってしまいそうになるときも。やつはそんなときでも走り続けていた。トラックを回り、トップスピードで同類を追い抜いていく。視界に敵などいやしないのに。

 コーナーにさしかかる。スタミナ切れを起こしたのか、やつはスピードを緩めた。小回りの効く私のほうが一歩前に。もう一歩先へ。近づいていく。先程まで遠くだったはずであるのに。そいつに手が伸びる。

 これは馬鹿な夢だ。そいつと同じ場所で走りたいなんて。私の夢は馬鹿馬鹿しいにもほどがある。が、馬鹿馬鹿しいからこそ、応援してくれた者がいた。

 筋肉が走るごとに弾む。

 弾む!!!

 筋肉をそぎ落とした足を、筋肉がむき出しになった臀部を、その背中を。

 私は、捉えた。

 黒い影が視界を過った。真っ黒になった視界に思考が留まる。何回か影が黒く暗転、次の瞬間には光の白と交互に差し込まる。風車のように回り、空中で回転しつづけた先に尻にぶつかる。音は私は置いていく。掴み損ねた音の切れ端がやつの速度を数段上に振り上げる。尻にあたるたびに詰めていた距離が離されていく。

 置いていかないでくれ。どれだけ足を振り上げて、土を蹴り上げても追いつかない。先に、先に。その背中は躍進する。やつがゴールの光の中へ入っていってしまう。


 一生をかけてもやりたいことはあるか。

 かつて考えていたことが過る。

 人生をかけてやりたいことがある。人によってボディビルの大会で優勝であったり、肉体改造であったりする人生の最大目標。孤独に筋肉を積み上げるだけではつまらない。誰もいやしない世界にいる意味はあるのか。一生を賭けて積み上げられた筋肉は何の役に立つ。死んでしまったら何も残らないではないか。大会に優勝したところで何になる。自分を認められたとして、認められるためには維持しなければならないではないか。一生これを続けていくのか。一生続けた後で忘れ去られると言うのに。ただの『優勝』や『二位』と言った順位のレッテルを貼られるだけだ。しかも、そのレッテルがなければ、努力も何にも感じられなくなるのか。賞があろうがなかろうが、意味など自身の身体に身についた筋肉が語ってくれているであろうに。ふとした瞬間に何もかもが虚しくなることはないか。何もかも自暴自棄になることは。鍛え抜かれたものが全て意味のないものに感じられることは。

 私には明確なものがなかった。筋トレをしていくと思考は単純になる。ただただかっこいい。ロマンがある。それだけしか考えることはなくなる。それでいいのか。自身の自信に繋がることもあるだろう。やり続けばコミュニティも広がる。交友関係も広がる。たまに交友関係のために続ける友人もいる。賞金を得るために自身の筋肉を育てあげるやつも出てくる。何のために鍛えあげているのだろうか。私の、この鍛え抜かれた筋肉は。

 私の竜巻のように渦を巻いた思考を突っ切っていったのは、走力特化の動物だった。あれに追いつきたい。あれになりたい。私は筋肉を持ったままに走りたい。追いつけなくていい。君の世界を見たい。

 一生をかけてもやりたいことがある。

 馬に追いつきたい。あの筋肉の塊に。きっとこれからも、追いつけないと分かってはいても。一生を賭けても不可能であったとしても。

 突風が私の全てをぬぐいさる。

 虚しさなど吹き飛んでいた。


 やはり、追いつけない。やつはゴールへと走り去ってしまった。

 何もない空白を、それでも私は走り続けた。ゴールまで切らずにいるなど、それこそ距離は縮まらない。せめて君との距離を縮めるために。走力を総動員して走り続ける。誰の視界に入らないとしても。

 風が上腕二頭筋をなでつけた。ふくらはぎは悲鳴をあげている。アキレスがきれそうだ。上半身の身体の使い方ががたがたでバランスが悪くなってきている。土を蹴り上げて身体に黒土がまとわりついて気持ち悪い。スタミナもとっくにきれていた。

 だが、不思議と気持ちが良かった。視界は狭い。前しか見えない。相手もいない。自身の身体のみしか信じるものはいない。この開けた世界は橙色の暁が一面に広がっている。じわじわと光が焦げ付いて一体を満たしていく。疲労困憊であるのに自然と笑顔になってしまう。清々しく満ち足りていた。精一杯頑張って追いつけないものがある。一生をかけてもきっと何にもならない。

この身体に身についた筋肉が隆起する。足が土を蹴り上げる。

 だが、私は私のために走るのだ。

 私は、今、君の世界の一端を見ている。

 ゴールまで走りきり身体を投げ出してコースに寝転がる。青白い空がどこまでも続いていた。陽がまっすぐに地上を照っている。視界がかすむ。身体の感覚が戻ってくる。呼吸を大きく吸って、過呼吸のように肺が動き出す。どっと呼吸が押しよせる。一つ、二つ、三つ、と大きく吸って吐いて。周囲の音が戻ってくる。土埃がたなびく音、自身の呼吸音、君の鼻息。尻尾が身体を叩く音。眼球だけ音の方向を見上げると君は鼻を鳴らしてこちらを眺めていた。土の上に君臨する君の姿は凜々しい。

 いつか、君の世界にたどり着きたい。

 次こそは。

 待ってろよ、その場所で。

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