第35話 ワザとじゃないんです

 

「――やりませんよ? アイドルなんて」


「…………」


 三島は涼しい顔でそう言った。

 俺の熱量を返してくれ。

 いや、勝手に心の中で盛り上がってただけだけど。


「貴方の挑発に乗って最終試験は受けますが、別に合格しても入学はしません。それで私のプライドは守られるでしょう? 私が入学しなかったら補欠合格者が合格するだけなので、さほどご迷惑もかけないと思いますし」


「……いや、本当にもう……おっしゃる通りです」


「私は名門の東大高校を受かっていて、親族たちもそのことを誇りにしています。なのに、進路を変えてアイドルをやるなんて常軌を逸してますからね」


 三島はそう言いながら乾いた笑いを浮かべる。


「でも……もう少しワイルドに生きてみても良いんじゃないか? 自分勝手にというか」


「理性を失ったら人は獣に戻るだけです。確かにそれはワイルドですね」


「そこまでワイルドになれとは言わないが……」


 生きるべきか死ぬべきか、それが問題だ。

 思わず、ハムレットのセリフを想起する。

 どう生きるかは三島自身が決めることだとは思うが。


 三島は腕を組むと、小首をかしげて俺に尋ねる。


「……それで?」


「それで……とは?」


「私が合格できたらどうしてくれるんですか? まさか、見返りも無しに私に試験を受けさせる気ですか?」


 確かに、三島に何らかのリターンがないと筋が通っていない。

 三島はアイドルになるつもりはないと言っているが、最終試験を受けて気が変わる可能性もある。

 生き方を探る上でも、三島にはもう少しアイドルという選択肢に付き合って欲しかった。


 でも俺が三島にできることなんて……

 そう考えると、一つだけ思いついた。


「じゃあ、『X』に会わせてやる」


「…………」


 三島はとんでもない馬鹿を見るような瞳で正面を真っすぐと見つめている。

 振り返ってみると、誰も居なかった。

 三島の目にはもしかしたら誰かとんでもない馬鹿が見えているのかもしれない。


「なぜ、できもしないことを言うんですか? 今、『X』は日本中の芸能事務所が血眼で探しているのに足取りが掴めない伝説のアイドルなんですよ?」


 俺は言い訳を考えつつ三島を説得した。


「実は『X』は友達なんだ。あまり人には会いたくないそうなんだが、俺が頼めばお前に会ってくれると思うぜ」


 三島は俺の顔をじーっと見つめる。

 俺は目を逸らした、美少女と見つめ合えるほど俺のメンタルは強くない。


「目を逸らしましたね。それに、嘘をついているから鼻の下が伸びてますよ」


「せめて鼻を伸ばしてくれよ。それ、俺がスケベなこと考えてるだけじゃねぇか」


「間違っているとでも? 変質者さん?」


「パンツを見たのは事故だって何度も言ってるじゃねぇか。もう変なことはしないから安心しろ」


 俺はため息を吐いて自分の手元にあるミルクコーヒーを飲む。


 三島も気が付いたかのように自分の手元にあるミルクコーヒーを口元まで運んだ。

 しかし、三島は缶が唇に触れる寸前でピタリと動きを止める。


「――そういえば、私たち。さっき座ってる位置が入れ替わりましたよね?」


 少し震えた声で三島は語り出した。


「貴方が今飲んでるの、私が飲んでたコーヒーじゃないですか?」


「――っ!? ゴホッゲホッ!」


 俺は思わず咳き込む。

 そうだ、完全に間違えて俺は三島の前で何度もこのコーヒーに口をつけてしまっていた……。


 俺は恐る恐る彼女の顔を見る。


「……変態」


 液体窒素よりも冷たい瞳で、俺は三島に睨まれていた。

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