筋肉の誘惑

蓮葉泉

筋肉の誘惑

 一年ぶりに見る男は、屋内にばかりいたみたいに生白いくせに、体には筋肉がついて、妙にいい体に仕上がっていた。

 女だって、男と会うのに有休を使ったけれど、喫茶店にでも入って、それでおしまいにするつもりだったのだ。それなのに、男は「家族です」みたいな顔で女の官舎に押しかけ、女と娘の2日分の作り置きを平らげ、楽しいことをしたあげく、脱ぎ散らかした服はそのままでベッドでくつろいでいた。

「ねえ、一年間なにしてたら、こんなに体型変わるの?」

 女は見事なシックスパックを指先でつついた。

「色々面倒なことがあって、ずっと部屋にいたんだよ。暇だったから筋トレしてたら仕上がっちゃった」

 男はにへら、と笑った。

 「面倒なこと」の内容は聞かないほうがいいのだ。男の「面倒」は、借金にしろその借金相手にしろ、まともないち地方公務員の女の手に余る。それで一年前に離婚したのだ。これ以上手に余ることに巻き込まれないように。

 とにかく話を変えるべきだ。

「腕は? 力こぶ出せる?」

「ほい」

 男は自慢げに片腕を曲げてみせた。ぐっと二の腕の筋肉が盛り上がったので、胸の上に乗っかってまじまじと見にいった。

 この男は不思議と「美味しそう」な匂いがすると女は思っていた。美味しそうな匂いを嗅ぎながら見ていると、だんだんと男の力こぶが美味しそうに見えてきた。思わず口に含んで甘噛みしてしまった。

 頭の上から、男の抑えた笑いが聞こえてくる。

「のりちゃん、何してるの。おなかすいちゃった?」

 女は、男の空いた片腕でベッドの上に引っ張り上げられ、熱い男の体の上に抱え込まれた。

「たくさん召し上がれ」

 まずい、としか思えなかった。これ以上はまずい。でも、熱くて脳が溶けてしまいそう。

 午後の日はそろそろ傾きかけて、部屋をますます明るくしていた。外では下校する小学生の声が響いていた。娘が帰ってくるのは時間の問題だ。なのに、男のいいなりになりたいのだ。

 娘にきちんとした暮らしを提供できないことが怖かったから、離婚したのに。

 男が持ち込むであろう「面倒なこと」に、自分は対処しきれないに決まっているのに。


 それなのに、この男にかかればなにもかも脱がされてしまう。服も、役割も、なにもかもを。


「だめ、今日はもう帰って。……あの子が帰ってくるもの」

「なんで父親が会ったらだめなのさ? それに、あの子だって俺たちがこうやって仲良くして産まれたわけだし、何もそんなに心配しなくてもいいだろう」

 どうして自分は男の筋肉に興味を持ってしまったのか。すぐに帰ってもらっていればよかった。

「本当は俺、離婚したくなかったんだよ。のりちゃんが離婚したいって言うから……。でも、やりなおしてさ、毎日のりちゃんが作ったご飯を食べていたら、きっともっとムキムキになるだろ。そしたらのりちゃんは、もっと俺のことが好きになる」

 冗談じゃない。「面倒なこと」を持ち込む父親と、父親に流されがちな母親とで、どうやってまともな家庭にするつもりなの。確かにそう思ったのに、女の口から拒否の言葉は結局出てこなかった。

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

筋肉の誘惑 蓮葉泉 @fountain

★で称える

この小説が面白かったら★をつけてください。おすすめレビューも書けます。

カクヨムを、もっと楽しもう

この小説のおすすめレビューを見る

この小説のタグ