黒髪のご主人様

ノアは肩で息をしながら、入り組んだ港街の路地を駆け抜けていた。


 潮風に湿った石畳は滑りやすく、跳ねるように走る靴底が小さな水音を立てる。服の内側にこもった熱が身体にまとわりつき、息苦しさを感じる。


 背後から聞こえる足音がじわじわと近づく。二つの気配が、ノアを捉えた獣のように迫っていた。


「どこか、逃げられる場所……!」


 視線を巡らせるも、路地は行き止まりが多く、いずれ袋小路に追い詰められる気がしてならない。思わず足を止めかけたその時、目の前に現れたのは道を塞ぐ荷車だった。


「うぇっ......!」


 積み上げられた木箱には魚が詰まっており、生臭い匂いが鼻を突く。だが立ち止まる余裕はない。


 ノアは一瞬だけ勢いを溜め、跳び上がる。細い足で勢いよく木箱の上を蹴り、反対側へ飛び越えようとした瞬間——


 空を切るような炸裂音と共に、青白い光が足下の荷車に直撃する。閃光が辺りを染め、激しい炸裂音が耳を貫いた。


「ぐえーっ!」


 爆風が荷車を吹き飛ばし、砕けた木箱と魚の切れ端が空中を舞う。ノアの体は爆風に弾かれ、石畳に叩きつけられるように転がった


「逃すなよ、リックス」

「ういっス」


 背後から冷たく響く声。ふらつきながら立ち上がったノアは、壁に浮かび上がる奇妙な光景を目にした。


 青白い光で輝く、その幾何学模様が広がると、中心から漆黒の闇が滲み出るように膨らむ。


「……なんだこれ?」


 ノアが呆然と見つめる中、闇の中から黒い触手が這い出してくる。それらは生き物のように不気味に蠢き、まるで獲物を狩るようにノアへ向かって伸びてきた。


「うわっ、くそ、離れろ!」


 ノアは手で振り払おうとするが、触手は容赦なく彼の腕に絡みつく。冷たく湿った感触が皮膚を伝い、ゾッとするような不快感を与えた。


 さらに触手は彼の身体全体に巻きつき、ノアを浮かび上がらせた。そしてそのまま壁に押し付けるように動きを止めた。


「相変わらず、気色が悪い魔法だ」

「いいじゃないっスか、便利なんスから」

「なんだよっ、お前らっ.....!?」


 二人の男がノアを見下ろすように立つ。初老の男——ガルドリスは冷徹な目でノアを値踏みするように見つめた。


「貴様が持っていたのは帝国金貨……この辺りじゃ滅多に出ない代物だ。小僧、なぜそんな物を持っている?」

「拾ったっスか?それとも盗んだっスか?」


 ノアは目線を泳がせながら答える。


「……知らない」


 その答えに、ガルドリスは舌打ちをしながら杖を突きつけた。


「手にした方法はどうでもいい。我々が知りたいのはその出所だ……」

「知らない、知らないっ!」

「リックス、もっと締め上げろ」


 リックスが手をかざすと、応じるように触手がさらに強くノアの身体を締め付けた。


 呼吸が詰まり、意識が薄れていく。


「ぐえっ......息が......!」


 視界が徐々に暗くなる中、ノアは無意識のうちに首筋を押さえた。そのときだった——。


 金色の光が首輪のように浮かび上がる。それは鎖の形を成し、まるで封じられていた力が解放されたかのように輝き始めた。


「なっ......」

「離れるっス!」


 リックスはガルドリスの襟元を引き、後ずさる。その瞬間、ノアの首筋から伸びる鎖が鞭のようにしなりを見せ、締め上げていた触手を一閃する。


 触手は断ち切られ、煙のように霧散した。


「またあの鎖だ……うわっ!」


 見えない力に引かれるように、金色の鎖は空へと伸びる。それに引かれてノアの体もふわりと浮かび上がった。


 そのまま、空を滑るように何処かへ運ばれて行く。


「お、おい、待て!追え!」

「ガルドリスさん、アレ……なんなんスか!?」


 二人の声は次第に遠ざかり、ノアの耳にはもう何も届かない。ただ、首筋から伸びる鎖の黄金の輝きと、空から見下ろす港街の景色が彼の視界を占めていた。


「どこへ連れて行くつもりだ......?」


 その鎖がどこへ向かうのか、ノアには分からなかった。ただ、抗うこともできないまま、彼は運ばれて行く。


 しばらくの飛行のあと、ようやく勢いは緩み、地面にそっと降ろされた。そのまましばらく、ずるずると引きずられると、体はぴたりと止まる。


「あっ……」


 顔を上げると、視界の先には冷たい眼差し。ノアはその顔を見て、息を呑んだ。


 目の前に立っていたのは、肩口までの黒髪を風にたなびかせた一人の少女だった。


 見覚えのある人物、昨日のあの女だ。


「楽しかった?」


 彼女——アリシアは冷ややかな笑みを浮かべ、ノアを見下ろしていた。

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