記憶を縛られた少年

 港街という場所は、早朝から賑やかだ。


 大通りは既に活気に満ち、漁師や商人が早朝から大声を張り上げ、網いっぱいの魚や貝が路肩に山積みになっている。


 その喧騒の中、一人の少年が足早に通りを抜けていく。


 少年の外套は、袖口からフードの端まで丁寧な刺繍が施されており、高価そうな品だった。

 

 通りを歩く人々は皆忙しそうだ。この辺では見かけることのない、外套を身に纏った少年のことなど、誰も気に留めていないようだった。


 少年もまた、彼らの視線を避けるように深くフードを被って歩いていた。揺れる細い金髪の三つ編みが、外套の隙間からちらりと覗く。


「で、ここはどこなんだ……?」


 その少年——ノアはぼそりと呟いた。


 自分自身の記憶が曖昧だった。思い出は霧がかかったようにぼんやりとしていて、漠然とした日々の記憶しか残っていない。


 まるで記憶の重要な部分だけが鎖に縛られているように、思い出そうとするほど奥底に沈んで行く不思議な感覚だ。手がかりになるのは昨晩の出来事だけだった。


 通りの片隅、魚を載せた荷車を押す老人が声を張り上げている。反対側では、子供たちが貝殻を投げ合ってはしゃいでいた。活気に満ちた港街の風景は、ノアにとって異質なものだった。


「これもあの魔法のせいか?それにしても昨日はひどい目にあった……」


 彼は小さく呟き、手を軽く握りしめる。


 あの全てを支配されているような感覚。脳裏には、彼女の冷たい眼差しと、耳に残るあの独特な声が蘇る。


「……これであなたは私のものね」


 昨晩、その言葉を口にした彼女の表情は、あまりにも冷たく、あまりにも美しかった。誰かの手に操られたような、あの屈辱感を振り払うように息を吐いた。


「そんなことより……道具屋だ、道具屋」


 小さな声で呟きながら、目の前の風景をじっと見つめた。並ぶのは魚を干す店や、旅人たちが立ち寄る酒場ばかりで、目的の店はなかなか見当たらない。


 すると、側を通りかかった一人の老婆が彼に気づき、笑顔で声をかけた。


 「おや、可愛らしい坊やだねえ。道に迷ったのかい?」


 ノアは一瞬戸惑ったが、穏やかな声に気を緩めて答える。


「いやぁ……ただ道具屋を探しているだけなんだ」

「なら、あの角を曲がるといいよ。おじいさんの店があるからね」

「……ありがとう」


 ノアは小さく頭を下げ、親切な老婆の指差した方へ歩き始める。


 大通りを抜けてしばらく進むと、やがて石造りの建物が並ぶ路地に行きついた。


 その一角に、ひと際雑多な雰囲気の建物が目に入る。屋根には潮風で少し錆びた、金属の看板らしい板が掛かっていた。

 

 少し背伸びして、窓から店内を覗く。中にはいくつかの樽や木箱が積まれていた。その中には使い込まれた漁網や見慣れない形の短刀、小さなランタンが無造作に置かれている。


 それに気づいた店主と思しき壮年の男が、カウンター越しにノアを見つめ、一瞬怪訝そうな表情を浮かべたが、すぐに商人らしい笑みを浮かべる。


「おや、珍しいお客さんだね。何をお探しかな?」

「剣が欲しいんだけど……」


 迎え入れるように扉を開きながら、尋ねる店主に、ノアが答える。すると彼の目が一瞬驚いたように見開かれた。


「君みたいな……いや、若い人が剣ねえ。まあいい、ちょっと待ってな」


 店主が奥へと引っ込んでいく間、ノアは壁にかけられた杖や、並べられた短剣を見つめた。


 やがて店主が奥の棚から何本かの短剣や小剣を持ってくる。見たところ大きな武器はなく、小回りの利く軽いものばかりだ。一本ずつ手に取って、握り心地を確かめる。


「サーベル……軍刀かな」


 しっくりきたのは、直刀型のサーベルだ。柄には四角い護拳がついていて申し分ない。柄頭には革製の刀緒がぶら下がっていた。


「多分、古い儀礼用の軍刀だね。実際にも使えると思うけど……」

「ちょっと長いけど、軽いしこれにする……これで足りる?」


 懐から煌めく金貨を取り出して、店主に差し出す。あいつから盗むのは少し気が引けた。だか見知らぬ場所で先立つ物が無いのは心許ない。

 

 それに、向こうも俺で遊んでた。少しは許されるだろうとノアは自分に言い聞かせる。


「ああっ、そ、そうだね問題ないよ……」


 金貨を見た瞬間、店主の顔に影が差した。どこかためらうような仕草が妙に気になった。


 店主はノアをじっと見た後、一拍置いてから先程と同じ笑顔を浮かべた。


「その、少し時間をくれないか?手入れと研ぎを済ませるから……」


 そう言うと、店主は手にした金貨と剣を持って店の奥に引っ込んでいった。


 それから数十分……いや、それ以上待ったかもしれない。剣を受け取るだけにしては遅すぎると、ノアは首を伸ばしてカウンター越しに奥の方を見つめていた。


 もどかしさの募ったそのとき、店の扉が再び開かれる音がする。振り返ると、見覚えのない初老の男が立っていた。銀装飾の施された制服を着込み、厳格な表情で杖を握っている。


「はぁっ?なんだ、このガキは……」

「そ、その子供が、帝国製の金貨を!」


 男の値踏みするような、鋭い視線が突き刺さる。ぞわりと背筋に冷たいものが走り、考えるより先に身体が動いた。


 ノアは迷うことなく窓際に駆け寄る。フードを深く被り直すと、そのまま窓枠を掴んで勢いよく外に飛び出す。


「待てっ!」

「ガルドリスさん、逃げたっス!」


 ガラスの割れる音と男の鋭い声が背後で響き、石畳に転がり落ちながら着地する。店内の男と同じ格好をした若い男と目が合うが、気にせずそのままの勢いで走り出した。


 心臓の鼓動が耳に響く。どこに向かえばいいのかも分からないが、この場を離れなければならない。ただそう考えていた。

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