第22話 ジルダ湖の水晶花



 転移直後。誰よりも先にエヴラールが地面を蹴り、飛び出した。

 その先には、ジルダ湖の畔でなにかを懸命に拾っているリュカの姿がある。


「リュカ!!」


「っ、父上……!?」


 風のように空気を切り、あっという間にリュカの元へ追いついたエヴラール。服の裾が土に汚れるのも構わず地に膝をついた彼は、リュカの両肩を掴むと声を荒げた。


「怪我は!? 湖の水には触れていないだろうな!?」


「えっ、あ、ありませんっ。み、水も、触ってないです……っ」


 森を降りてきたからだろうか。リュカの服や顔には土汚れがついていた。怪我はないと言っているが、膝下あたりのひどい汚れを見る限り、きっと転んだのだろう。

 とはいえ彼自身はピンピンしているようで、ルイーズはほっと胸を撫で下ろした。


「………………」


 エヴラールは、しばし荒い呼吸をしていたが、やがてひとつ大きく息を吐いた。

 そして、脱力しながらもリュカを抱き寄せる。


「……リュカ。おまえ、自分がなにをしたのかわかっているのか」


「っ……ご、めん、なさい」


「謝って済むことではない! いったいどれほど私たちが心配したことか──!」


 エヴラールが珍しく怒気を孕ませる様子を、ルイーズははらはらと見守った。

 止めたい気持ちはあるが、これは止めてはいけないことだろう。

 まだ六歳の男児が、こんな深夜に誰にも相談せず外出するなんて言語道断。それこそ〝万が一〟があっても決しておかしくはなかったのだから。


(でも、リュカ……なにをそんなに一生懸命、拾って……)


 俯き震えるリュカの腕のなかには、何本かの花が大事そうに抱えられていた。

 けれど、ただの花ではない。花弁部分が、まるで水晶のごとく透き通っている。

 それを見た瞬間、ルイーズの頭に先日聞いた言葉が蘇る。


『水晶花ってのはジルダ湖の周りに咲く花のことさ』


『ただきれいなだけじゃなくて、水晶花には魔力を安定させる力がある。だから、ここらの民のあいだでは一種のお守りとして流通してたんだが……。これも、湖が穢れちまったせいでぐんと数が減っちまってよ』


 城下に行ったとき、屋台の店主が見せてくれたガラスのような花弁。

 リュカが抱える花弁は、まさにあのとき見た花弁そのものだった。


(水晶花……もしかして、ルゥの、ため?)


 てっきり水不足問題のことで我慢ならずに来てしまったのかと思ったが、あの様子を見る限りではそうではないのかもしれない。

 実際、彼はジルダ湖の水にはいっさい触れていなかった。

 しかしながら、問い詰めるエヴラールに対し、リュカは「ごめんなさい」と言うばかりで、それ以外はだんまりを決めこんで俯いていた。

 反論もしない。目的を言うこともない。

 そんなリュカに、エヴラールはどんどん苛立ちを募らせていく。さすがに見かねたのか、グウェナエルがエヴラールを窘めようと名を呼んだ。そのときだった。

 ポチャン──。

 わずかに、水面が動く。普通なら気にも留めないほどのかすかな音。

 だが、ほぼ同じタイミングでディオンが大きく後方へと飛んだ。


「なにかきます!!」


 ほぼ同時に、グウェナエルがエヴラールとリュカの足元に魔法陣を展開させて、ふたりを闇のベールで包みこむ。改めて見れば、ディオンもそばにいたベアトリスをしっかりと反対の腕に抱えていた。

 次の瞬間、なにかが勢いよくジルダ湖の水面から飛び出した。かと思えば、まるで雨のような水飛沫が、ざばあああっとルイーズたちに降り注ぐ。


「っ──ディオン、絶対に水を被るなっ!」


「はい!!」


 エヴラールとリュカは闇のベールが守り、グウェナエルは素早く頭巾を被って難を凌いだ。一方、ディオンは素早く森に走り込み、木々で水しぶきを防ぐ。

 己の外套をルイーズとベアトリスへ被せているあたり余念がない。ほんの一滴でも害することは許さないという従者の気概が感じられた。


「なんだ、あれは……」


 呆然と呟いたのはベアトリスだ。いきなり抱えられて混乱していたルイーズは、ふらふらになりながらもなんとか湖の方を見る。

 そこには──〝鯨〟のようなものが浮かんでいた。

 否、全身を纏う鱗や尾鰭の形は〝魚〟だ。しかしながらその大きさは確実に〝鯨〟レベルであり、体の色は見るからに禍々しい濃紫だった。


(うん、ザーベスで見たなあ……あの色……)


「魔物、ですね。……十中八九、あれが例の水不足の元凶でまちがいないでしょう。あんな巨大な魔物は、自分も初めて目にしましたが」


「魔物、だと? わたしがかつて人界で相手にしていたものは、あれほど凶悪ではなかったぞ。少なくとも、鍛えられた人間ならばひとりで倒せる程度の相手だった。アレは、どう見たって大きさからして無理だろう……!」


「魔界の魔物は肥大しやすいのですよ。魔界が持つ魔力を吸収しているから、と言われていますが、真実はわかりかねます。なにはともあれ、最悪ですね」


 ルイーズをしっかりと抱え直しながら、ディオンが立ち上がる。


「魔物は自我と思考能力がない分、本能で動きます。そしてアレは自分たちが〝テリトリー〟に侵入した異物だと思ったがゆえに、こうして現れた。そうなると、完全に目をつけられましたね。ええ、びっくりするほど最悪です」


「っ、とにかく最悪なことはわかったが! しかし、しょせんは魔物だろう? ここには大魔王と魔王がいるんだぞ。たとえ人間のわたしが役に立てなくても、どうにかなるのでは──」


「どうにかできるのなら、とっくにしているでしょう。ここまでエヴラールさまやグウェンさまが慎重になっているのは、そうせねばならない理由があるからです」


 そこまでディオンが答えたところで、宙を泳いでいた魔物が大きく身体をうねらせて湖に飛び込んだ。ふたたび激しく水しぶきが上がる。


「チッ……埒が明かん」


 それぞれ身を守る一方で、ひとり上空へと飛び立ったグウェナエルは、湖を見下ろしながら忌々し気に舌を打った。その双眸はいつにも増して険しい。


「やはりな。──エヴ! まちがいない、彼奴は水中だと姿が消える性質だ!」


「なるほど、やはり……!」


(──水のなかでは、姿が消える?)


 にわかには信じられないことを聞いて、ルイーズは愕然とした。


「……そういうことですか。おそらくあの魔物は、水中に潜ると水に同化して姿が見えなくなるのでしょう。水系の魔物にはごく稀にある現象です」


「あれほどのものが見えなくなるだと……!?」


「加えて、湖の水はアレが吐き出した毒素に冒されているため潜れない。万が一落ちでもすれば、悪魔でもタダでは済みませんからね」


 だからこそ、グウェナエルたちも容易に手を出して対処することができなかった。

 ようするに、そういうことなのだろう。慎重に動いていたのも納得できる。


(でも、そんな危険なのに、目をつけられちゃったって)


 ようやく事の真相を知れたのはいいが、ディオンのいう通り、最悪な状況だ。

 身体のうちで燻る熱のせいで思考が上手く働かないが、とにかく、いまはなるべく迷惑にならないようにするしかない。

 形容しがたい不安を募らせながら、ルイーズはディオンに抱きつく。そこへ駆けてきたのは腕にリュカを抱えたエヴラールだ。


「ディオン。申し訳ないが、リュカを頼めるか。私は陛下とアレの相手をせねば」


「はい、おまかせを。どうかお気をつけて」


 自分を預け、あっという間にグウェナエルのもとへ飛び立った父の背中を見つめ、リュカは途方に暮れたように立ち尽くした。いまだに状況を理解できていないのか、涙の膜が張った彼の瞳には強い困惑の色が浮かんでいる。


「……リュカ」


 ルイーズは、荒い息を吐き出しながら、リュカを呼んだ。

 気のせいか、あるいは緊張のせいか、どんどん動悸が早くなっているような気がするが──心配をかけないように、なるべく表情は押さえ込んだ。

 しかし、その弱々しい呼びかけに、リュカはハッと我に返ったらしい。勢いよく振り向いて、慌てたようにルイーズのそばへ駆け寄ってくる。


「ルゥ……っ! どうしてルゥまでっ? まだ身体つらいはずなのに」


「リュカがね、心配だったの。ねえ、そのお花……もしかして、ルゥに?」


 ほぼ確信しながらも尋ねると、リュカはわずかに動揺を示しながら首肯した。


「うん。これがあれば、ルゥ、少しはよくなるかなって……」


 リュカはへにょりと眉尻を下げながら、気まずそうに俯く。


「ぼく、父上たちのお話、聞いちゃったんだ。ルゥの熱は、悪魔の力が暴走してるからだって。それで、あの、水晶花の話を思い出して」


 リュカはルイーズに優しく水晶花を持たせると、あいまいに笑った。


「水晶花は魔力を安定させる力があるって言ってたでしょ? だから、ルゥにもあげたかったんだけど、ちょっと手に入れるのがむずかしくて」


「そう、なの?」


「うん。ぼくは勝手にお金を使えないし、いまはすごく貴重になってて水晶花自体が市場に出てないんだって」


「……だから、自分で……?」


 リュカはこくんと頷きながら、きゅっと下唇を噛みしめた。


「だめなことだって、わかってた。でも、これくらいしか〝ぼくにできること〟って思いつかなかったから。すぐに採って帰れば、朝までには城に戻れるし……。もちろん、そばまで行ってみて、魔物がいたらやめようとは思ってたけど」


 なんて勇敢な、とルイーズは呆れ交じりに息を呑む。


(いつも、あんなに引っ込み思案なのに)


 一度自分が決めたことに関しては、抜群の行動力を発揮する。

 それはともすれば非常に危険と隣り合わせな一面でもあるのだが、まちがいなくリュカの強みだとルイーズは思った。


(無謀だし、無茶苦茶だし、信じられない。けど、リュカはそうして〝行動〟できちゃうんだよね。見て見ぬふりしたり、やる前から諦めたりしないんだ。……やっぱりルゥは、そんなリュカがすごくかっこいいと思うよ)


 少なくともルイーズは、そんなふうに芯が強い者が〝王〟になってほしい。

 まだ小さいけれど、とても優しくて、温かくて、誰かのために勇敢になれる神話の英雄みたいな王子が、いずれ自信を持って〝王〟になるところを見てみたい。


「リュカ、ありがとう。すんごくうれしい。なんだかこのお花を抱えてると、ほんとに楽になってく気がする」


「っ、本当に!?」


「うん」


 リュカの優しさは、しっかりとルイーズの胸の内まで染み込んで癒してくれた。

 エヴラールはリュカのことを叱るかもしれないが、それはそれでいい。悪いことをしたら怒るものだ。その役目は父親である彼が担ってこそ、リュカに響く。

 だけれどルイーズは、そのぶんリュカを褒めてあげようと心に決めた。

 少なくともルイーズだけは、リュカの味方でいてあげたかったのだ。


「……はふぅ」


 とはいえ、やはり燻る熱がなくなったわけではない。頑張って喋ったことでなけなしの体力が削られ、ルイーズはぐったりとディオンに身体を預けた。


「姫さま……っ」


「……やはりこのような場所ではお身体に障りますね。自分たちだけでも城に戻りたいところですが、あまり揺れてもよくないでしょうし」


 木々の影に隠れながら、苦い顔をしたディオンが湖の様子を見る。

 鯨のような魔物は、あれきり息を潜めていた。水中にいるのはたしかだが、上空で待ち構えるグウェナエルたちを警戒しているのか出てくる気配はない。


「いったん引くという考えはないのか?」


「一度テリトリーに入ってしまったがゆえ、仮にここで引けば、アレが我々を追って河を下り、城下まで出現する可能性があります。魔物は敵と見なしたものを延々と追ってくる執着性がありますからね。グウェンさま方はそれを懸念しているのかと」


「っ、厄介な相手だな。見えないというのは」


 そろって難しい顔をする従者たちに、リュカはじわじわと現状を理解してきたようで、青い顔がさらに白くなっていく。

 これでは、そのうちリュカまで倒れてしまいそうだ。


(……どうしたら、いいの? ルゥになにかできること──)


 朦朧とする頭で、そう考えた次の瞬間。

 バッシャアアアアアアアン!

 突如として激しく水面が波打った。

 かと思えば、ジルダ湖から何本もの水の竜巻がのぼった。

 なにが起こったのかわからないまま──空中にいたグウェナエルたちをも容赦なく巻き込んで、それは一瞬の間に湖中を覆いつくす。

 激しく渦巻きながら噴きあがる、いくたもの水柱。

 そのなかを、まるで渡り歩くように、魔物が飛びまわっていた。


「父上っ……!」


「パパ……!」


 ふたりの姿が見えなくなって、ルイーズとリュカはたまらず声を上げた。

 だが、水柱から飛んでくる飛沫が降り注ぐなかでは、容易に動けはしない。

 ディオンが三名まとめて自身の外套で覆い、毒の水から守ってくれているけれど、その顔が苦渋の色に染まったのをルイーズは見逃さなかった。


「まって。ディー、もしかして濡れてる……!?」


「っ、いえ、多少の飛沫くらいどうってことありませんよ」


 ハッと身じろぎしてディオンの身体に目を走らせる。

 と、外套を被せるためにむき出しになったディオンの手の甲に、木々では避けきれなかった飛沫が飛んできていた。それはまるで火傷のように紫色の斑点となり、ディオンの白くて綺麗な手を穢していく。

 身の毛もよだつような、恐ろしい光景を目にした瞬間。

 ──ルイーズは、全身の血が沸騰したかのような心地を覚えた。


(だめ、だめだよ。こんなの……どうにか、しなきゃ。どうにか、みんなが助かる方法。なにか……なんでもいいから、みんなで、無事に帰れる方法……!)


 熱が疼く。ぐるぐると抑えきれないまま、身体の中心から溢れてくる〝力〟。それはまるで、ルイーズの強い想いと連動して訴えかけてくるかのようだった。

 聖女の力とは、本質から異なるもの。

 それは、ルイーズの知らない未知の力。

 けれども、たしかにルイーズのなかにある力。


(……そうだ。ルゥは、人と悪魔の子。大聖女と大魔王の子。どっちかじゃない。ルゥのなかには、ママの血もパパの血もある。なら、ルゥは……聖女だけじゃなくて悪魔にもなれるはず)


 だが、それはおそらく、ルイーズの生命を大きく左右する決断で。


 ──ルイーズはこれまで、人として生きてきた。


 たとえ人と悪魔の混血だとしても、人として育てられた。

 それは人として生きることを前提としたもので、きっと母のミラベルも口にこそ出さないけれど、そうあることを望んでいたのだろう。

 たとえ世界から見放されたとしても、自身と同じ人として母娘で長く仲よく生きていられたらと、切に願ってのことだったにちがいない。

 だけれど、儚くもそうはならなかった。

 ゆえにルイーズは、人ではない父、大魔王の封印を解くに至ったのだ。


(ううん。きっと、パパとまた会えたあの瞬間から、ルゥはもうただの〝人〟じゃなくなったんだ。……でも、そんなふうに〝人〟で〝悪魔〟なルゥだからこそ、できることがきっとあるよね)


 怖い。

 怖い、怖い、怖い怖い怖い怖い。

 どうしようもなく、この先へ踏み出してしまうのが、怖い。

 けれど、不思議と迷いはなくなっていた。

 恐怖と綯い交ぜになりながら感情を支配するのは、決意と勇気、だろうか。


(──ねえ、ママ。いつまでも〝逃げてちゃ〟ダメだね。ルゥは、ちゃんとルゥのことを受け入れてあげなきゃ。だから、ママも見守っててね)


 パリン、パリンパリン。パリンッ──。

 ルイーズが持っていた水晶花が、思いに呼応するように次々と割れていく。


「姫さま、危な……姫、さま?」


 慌てたように破片を払ったベアトリスは、ルイーズを見た瞬間に瞠目した。


「──その瞳は……!」


 ディオンもまた、つられるようにルイーズを見てごくりと息を呑む。

 リュカは暗い顔から一転、若草の両目をきらきらさせてはしゃいだ声を上げた。


「すごい、ルゥっ。目が、グウェナエルさまと同じ色になってる──!」

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