第21話 深夜の失踪
八章 ちびっこ聖女と湖の魔物
(暑い……くるしい……ゆ、だるぅ……)
発熱してから、はたして何日が経過したのだろうか。まだほんの一日のような気もするし、ひと月にもなるような気もする。
(悪魔の力が暴れてるせいだって、パパは言ってたけど……いったい、いつまで暴れてるの……もしかして、ルゥのこと、きらい……?)
身体にはびこる謎の熱は、いまだ収まる気配も見せない。だが、熱のある状態には慣れてきたのか、数時間ごとに細かく意識が戻るようになった。正確には苦しさのあまり寝つきが悪く、眠ってもすぐに目覚めてしまうだけなのだけれど。
「ディー、ベティ……ルゥ、このまま、死んじゃう?」
「死っ……!? な、なにを仰っているのですか、姫さま。そんなご冗談、ディーの心臓に悪いです。絶対に大丈夫ですから、安心してください」
「そうですよ、姫さま。きっといまに熱も下がって元気になります」
従者たちはかわるがわる励ましてくれる。
そんなふたりに、ルイーズはなおのこと気分が落ち込みそうになった。
「ベティ、いま、何時……?」
「いまですか? 深夜の二時頃、といったところでしょうか」
「……んぅ。ふたりとも、ちゃんと、寝て。ルゥはだいじょぶ、だから」
ふたりとも、心配のしすぎでよく眠れていないのだろう。目の下にはうっすらとクマが浮かんでいた。いくらか憔悴しているようにも見える。
「……寝ていますから、大丈夫ですよ」
「ええ。いまは他者の心配などせず、ご自身のことに専念されていてください」
でも、と言いたかった。けれど、ルイーズが口を開く前に、突然ディオンが耳をぴくぴくっと揺らして振り返る。扉の方を見て、わずかながら相貌が眇られた。
(なに……?)
その警戒の意味を知ったのは、それから数秒後のことだった。
ノックもなしに、ルイーズの部屋の扉がガチャン!と押し開かれる。
「っ──失礼!」
夜も更けきった時間だというのに、いっさいの配慮がない乱暴な開け方だ。
思わずビクッとしたルイーズをベアトリスが反射のように引き寄せ、そんなふたりを背にしながら、ディオンが部屋へ飛び込んできた者を睥睨する。
「このような時分になにごとですか。エヴラールさま」
ディオンの言葉になおのこと驚きながら、ルイーズは飛びこんできた彼を見た。
(……魔王、さま?)
少なくともルイーズが知る彼は、このように突飛な行動はしない。
歩くときでさえほぼ足音が聞こえないくらい静かだし、これまでも入室の際には必ずノックをしてくれていた。
だというのに突然なぜ、と困惑した次の瞬間。動揺を浮かべ、らしくもなく息を切らしたエヴラールの口から放たれたのは、予想もしない問いかけであった。
「ここに、リュカは来ていないか……!?」
「リュカさま? いえ、来ておりませんが」
「っ……なんてことだ」
「どうなさったのです? リュカさまにいったいなにが……」
ディオンは当惑した様子で聞き返す。
だがしかし、エヴラールは茫然としたように額を抑えたまま答えない。ひどく取り乱しているようで、ルイーズはなんとも嫌な予感を覚えながら彼を呼んだ。
「……魔王、さま。リュカ、どしたの?」
「っ……ルイーズさま……。リュカが、失踪しました」
「え……どういう、こと?」
失踪。つまり、リュカがいなくなった。いまいちピンとこないまま、けれどとにかく大変な事態が起きていることだけは理解する。
室内の空気が重く張り詰め、ディオンとベアトリスも厳しい顔を見合わせた。
「失踪とは……お部屋にいらっしゃらない、と?」
「ちがう。部屋だけではなく、城のどこにもいないんだ」
エヴラールからは、どうしようもない焦燥が伝わってくる。まずまちがいなく〝手ちがいだった〟で終わらせられるような事態ではないのだろう。
「私は今日公務で外出していて、さきほど帰ったばかりだったのだが……っ」
──詳しく話を聞いてみれば、どうにもこういうことらしい。
公務から帰ったエヴラールは、夜も遅いため、とにかく入浴を終えて早々に休むつもりだった。だが、そのまえにリュカの様子でも見ておこうと思い立ち、湯あみの前に息子の部屋へ向かったという。
しかし、室内のどこを探しても、リュカの姿がない。最初は水でも飲みに行ったのかと思ったが、なんだか嫌な予感がして、エヴラールは城中を探し回った。
結果、リュカの姿はどこにも見当たらず、最後に藁にも縋る気持ちでルイーズの部屋へとやってきた──。
「本当に、いないのですか? 最後にリュカさまのお姿を見た者は?」
「今朝朝食を運んだときに、侍女が。だが、その際に昼食と夕食はいらないと断られたらしい。お腹が空いたら自分で取りに行くから、部屋にも入ってこないでほしいと──」
「そのまま夜に?」
「……もともと、こういうことはよくあったのだ。あの子は世話をされることを嫌がる節があって、自分のことはなんでも自分でやろうとする。だから侍女にも好きなようにさせていて──だが、そのせいで、いないことに気づけなかったと」
「……そのようなこと有り得るでしょうか? たしかに彼はしっかりしていますが、まだ六歳ですよ。保護者の手が離れるのは早すぎるのでは?」
ぐっ、とエヴラールが顔を強ばらせた。
そのとき、ふたたび部屋の扉が開いた。入ってきたのはグウェナエルだ。
「その通りだ、ディオン。実際、さきほど侍女を問い詰めたら白状したぞ。──彼女はリュカから、自分がいないことを内緒にしてほしいと頼まれていたそうだ」
「はっ……!?」
「数少ない身内を疑いたくない気持ちはわかる。だが、おまえらしくないな。エヴ?」
グウェナエルはひとつ嘆息すると、呆然と立ち尽くすエヴラールの横を過ぎ、ルイーズのもとまでやってきた。大きな手がそっと頭に触れる。
「大丈夫か、ルゥ」
体温を確認するためか、置かれた手はそのまま下方へ滑り、首筋へ当てられた。ひんやりとしていて気持ちがいいが、いまはそれどころではない。
「ん……。でも、リュカ、どこ行ったの?」
「わからん。城内や近辺、城下付近……ほかにもいたるところに使い魔たちを飛ばしているが、見つからない。見当さえつけばいいのだがな」
使い魔とは、おそらく例のコウモリの下級悪魔たちだろう。以前と同じように、彼らの目を通して遠方の景色を見ているのかもしれない。
「昨晩から、どうにも様子はおかしかったのです。夕食の際もぼうっとしていて、食事もあまり喉を通らないようで……。問えばルイーズさまが心配なのだと言っていましたが、いったいなにを真剣に考え込んでいたのか……」
「……ちがうよ? 魔王さま」
ルイーズははふはふと荒い呼吸をしながらも、エヴラールを見る。
「リュカが、ぼうっとするときはね。考えてるときじゃ、ないの。なにか、大事なことを悩んでるとき。考え終わって、そのあとの決断が、できないとき」
「……え?」
「だって、考えてるときは、ずっとしゃべってるもん。ひとりで、ぶつぶつ」
考えているときと、悩んでいるとき、そして決断の手前にいるとき。
──似ているかもしれないが、リュカの場合ははっきりと異なるのだ。
考えがまとまった結果の末に訪れた悩み。
それを実行するか否かの段階で、彼はよりいっそう己の世界に引き込もる。きっと小さな頭のなかで必死にシミュレーションしているのだろう。
実行したときのリスクや、可能性。得られる成果。その他諸々。
水不足問題について真剣にぶつかるリュカをそばで見ていたからこそ、ルイーズはそんな彼の〝癖〟に気がついていた。
「あのね、魔王さま」
つらく重怠い身体を叱咤して、ルイーズは上半身を起こした。
「リュカはね、頭がいいの。すっごく。きっと魔王さまが思ってるよりも、ずっと」
「は……?」
「──だってリュカは、天才だから」
引っ込み思案で、自信がなくて。自分の考えをなかなか口にしない。
そのせいで、だれもそのことに気がつかないだけ。
リュカはこの城で、いつもひとりで、いろいろなことを考えていた。どうすれば〝王子〟たる存在に相応しくなれるのか、必死に考えて、努力していた。
あの年齢で遊びもせず図書室の本を読み漁っているのも。
こっそりと魔法の練習をしているのも。
(全部全部、努力だよ。ねえ、気づいてあげて。たくさん頑張ってること)
リュカは、たしかに天才だけれど。
同時に、努力の天才でもあるのだ。
「ルゥ、わかるよ。きっとリュカはね、いつか、パパみたいな大魔王になる」
「っ──!!」
エヴラールが息を呑み、グウェナエルもわずかに目を見開いた。
「でも、ね。いまはまだ、子どもだから。それを忘れないで、魔王さま」
ルイーズ自身の言葉。だが、まちがいなく前世のルイーズの心が重なって放たれたものだった。その場の誰もがルイーズの言に圧され、身を硬くする。
(どれだけ考えてもわからないことはあるし、危険なことを危険だと思わなかったりする。そういうときに、止めてくれる大人がいないといけないのに……)
リュカには、いなかったのだ。
ルイーズにとってのディオンやベアトリスのような存在が。
彼の足場を固めて、危険から守り、行きたい場所へ導いてくれる──。
そんな〝大人〟が、いなかった。
「リュカにはまだ〝お父さん〟が必要なんだよ」
やりきれない思いでぽつりと呟いて、ルイーズはグウェナエルを見た。
「……ね、パパ。ジルダ湖って、ここから近い?」
「ジルダ湖か? 正規のルートで行くのなら遠回りしていかねばならないし、相応に時間はかかるが……ふむ。ここからならば、森を突っ切っていけなくもないな」
まさか、とグウェナエルが眉間に深い皺を刻む。
「うん。いないかな?」
「待っていろ。いますぐ、一番近い使い魔に向かわせる」
グウェナエルはそう言うや否や、さっと瞼を伏せた。
空気にしんとした静けさが走る。
ルイーズたちは緊張した面持ちで見守った。エヴラールはやはり表情にこそ現れていないが、その瞳はいつもとは比べものにならないほど揺れていた。
やがて、グウェナエルがはっと両眼を開く。
「見つけた。ジルダ湖の周囲を……ん? なにか拾っているようだが」
「なぜよりにもよってあの湖に……!」
「なんにせよ、さすがにまずいな。行くぞ、エヴ!」
転移しようとしていることに気づいたルイーズは、とっさに離れようとするグウェナエルの服の裾をくんっと引っ張った。
「パパ、ルゥも連れてって」
「っ、なにを言ってる。おまえは身体が……」
「だいじょぶ、だからっ。ルゥ、一緒に行く! 連れて行ってくれなきゃ、パパ、嫌いになる! ぜっこー、する!」
ぎゅうううっと両手で服を強く握りしめて訴えた瞬間、グウェナエルはまるで雷にでも撃たれたかのようにふらついて天を仰いだ。
「おま……なん、なんてことを言うんだ」
「お願い、パパ。一生のお願い」
うるうると潤んだ瞳でルイーズはグウェナエルを見つめあげた。
さすがにその懇願は突き放せなかったのか、グウェナエルはしばし唸ってから深く深く嘆息した。がっと前髪をかきあげながら、胡乱な目をディオンへと向けた。
「ディオン、頼めるか」
「……あなたも甘いですね。どうかと思いますよ、そういうところ」
「喧しい。絶対にルイーズを地面におろすなよ。極力動かすな。無理をさせるな」
「連れていく時点で無理はさせているのでは」
しかしながら、こうなったルイーズが引かないということもよくよく理解しているディオンは、ルイーズをしっかりと抱き上げて魔法陣に入った。
「……陛下、世話をかけます」
「姫さまはわたしが必ずお守りいたします」
沈痛な雰囲気を纏わせたエヴラールに続き、当然のようにベアトリスも入る。
「──飛ぶぞ。振り落とされるなよ」
大人四名と子ども一名。若干窮屈ながらも、転移魔法は無事に作動した。
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