第1話 ザーベス荒野

1章 ちびっこ聖女と従者の大冒険


『よく聞いて、ルイーズ。この〝聖女の睡宝〟とあなたの聖女の力があれば、きっと封印されているパパを助けられるわ。だからいつか……本当に、いつかね? もし、ママが死んじゃったときは──』


 母親であるミラベルに、そう話をされたのは、およそ一年前のこと。

 ルイーズがまだ、四歳になったばかりの頃のことだった。

 いま思えば、そのときにはもう自身の死を予見していたのだろう。

 だから彼女は、聖女としての最後の力をすべて〝聖女の睡宝〟という特別な宝石に閉じこめて、ひとり娘であるルイーズへと託した。

 この睡宝が、自身の亡き後、ルイーズを救ってくれるものになると信じて。


(でも、ママは本当に、こうなるってわかって言ったの……っ?)


 ルイーズは現在、狼姿の魔獣──従者ディオンの背に乗って、とにかく広大なザーベス荒野を駆けていた。

 視界に映るのは、巨大な花々と湿地。そして、暗雲がはびこる天空の稲妻。

 ピシャアアアアアン!!


(っ、また雷……。そのうち、落っこちてきそう)


 常に禍々しい様相を保ち続けている空一帯を見上げ、ルイーズは身を震わせた。


「大丈夫ですか、姫さま」


 そんなルイーズの震えを感じ取ったのだろう。ふいに立ち止まったディオンが、首だけ振り返って心配そうに尋ねてきた。


「ん、だいじょぶ。……でも、キリがないね?」


「ええ。この荒野の迷宮も、もしかすると本当に果てなどないのかもしれません。行くも戻るもザーベス。寝ても起きてもザーベス。ザーベスザーベスザーベス……いい加減、この毒花にはうんざりしてきますよ」


 ──全長五メートルにも及ぶ巨大な毒花、ザーベス。

 地名ともなるほど、この地は端から端までザーベスで埋め尽くされている。

 ルイーズの知識的に喩えれば、茎部分はチューリップで、花の形はハスといったところだろうか。しかし、天に向かって長々と伸びる茎はいっそ黒に近い紫色で、くすんだ赤の花弁はまるで毒林檎のよう。見ているだけでゾッとする色味だ。


(これじゃあ、進んでるのか戻ってるのかもわかんないし)


 いくら進んでも大地に跋扈するザーベスが途切れることはなく、延々と同じような場面が続く。どこまでも、どこまでも。果てしなく。

 ちなみにこの状況が、すでにもうひと月ほど続いている。


「ねえ、ディー……ほんとに、パパはここにいるのかな」


「陛下……大魔王グウェナエルさまがザーベス荒野に封印されている、という話はあまりにも有名ですが。だからといって、この地に立ち入る者がいない以上は、決して信ぴょう性があるわけではないのですよね」


 ルイーズたちの目的は、この地のどこかにあるはずの大魔王グウェナエルの封印場を見つけ、彼の封印を解くことだ。

 しかし、現時点でそのゴールはまったく見えてこない。まさに途方に暮れるしかない状況のなか、さらに追い打ちをかけてくるのは、この劣悪な環境だった。


「ともかく、一度休憩いたしましょうか。姫さまの顔色も優れませんし」


 心配そうに告げたディオンは、直後、淡い青の光に包まれた。身体がふわっと浮くような感覚のあと、不安定だった姿勢が一気に楽になる。

 同時にもふもふの感触がなくなって、彼が完全に魔獣の姿から人へ変化したことを悟った。


「ディー」


 代わりにルイーズを抱えていたのは、見目麗しい美青年。首の後ろでひとつに括った青銀の髪と黄金の瞳は、魔獣時の彼の特徴を如実に表している。

 二十代前半くらいに見えるが、実年齢はゆうに百歳を超えているらしい。


「お水を飲みましょう、姫さま」


「んん、もう残ってないの。さっき全部、飲んじゃったから」


「大丈夫ですよ、自分のがありますから」


 ルイーズはしゅんと眉尻を下げ、ふるふると首を横に振る。


「だめだよ、ディーが飲まなきゃ。だってディー、ずっと飲んでないでしょ?」


「自分のことはどうかお気になさらず。悪魔は人の何十倍も生命力が強い生き物ですから、たとえひと月飲まず食わずでも死にはしませんよ」


 さらりと言いかわし、ディオンは自らの荷袋から革仕様の水筒を取りだした。

 手早く水を飲ませようとしてくるディオンに、ルイーズは辟易する。


(……ひと月って。もうひと月だよ。ディー)


 こうなったディオンは頑固で、てこでも譲らない。

 それがわかっているから、仕方なくルイーズは差し出された水筒を傾けて、生温くなった水を飲んだ。ほんのひと口。乾いた唇をわずかに濡らす程度だけ。

 だってあと三口も飲めば、この水筒もいよいよ空っぽになってしまうから。


「ディーも、飲んで」


「いえ、ですから自分は……」


「いいから、飲んで。飲んでくれなきゃ、ディーのこときらいになるよ?」


 ルイーズがこてんと首を傾げれば、ディオンはぐっと苦渋の色を見せた。

 だが、ディオンもまた、こうなったルイーズが決して譲らないことは承知しているのだろう。ややあって、その表情に疲れ交じりの諦めが浮かぶ。


「……姫さまは本当に賢くあられますね。ディーはなんとも複雑な気持ちですよ」


 ルイーズの手から水筒を受け取り、ディオンはしぶしぶ口に運んだ。

 それでも、ほんのひと口。さきほどのルイーズと同じように、唇を濡らす程度しか飲んではくれない。


「もういいの?」


「はい。夜になれば岩肌に結露ができますから、自分はそれで十分です」


「んん……でも、ディー。お花は増えてるけど……岩はもう、ないよ」


 ザーベス荒野における気候の特徴としてまず挙げられるのが、昼夜の気温差だ。

 昼間、砂漠のごとく立ち込める熱気は、夜になると途端に冷気へと入れ替わる。

 そのあまりに急激な気温差は命取りでもあるが、同時に発生する大量の結露はルイーズたちの貴重な水分源。

 とりわけ、ザーベスの合間に転がっている大岩の表面に流れる水滴は、集めやすいうえに〝浄化〟しやすいので重宝していた。

 ──だというのに、昨日はその〝岩〟がそもそも見つけられず。

 今日も一日探しながら移動していたが、一向に現れる気配はない。


「岩がなかったら、お水も溜められないし……どうしよう」


「そう、ですね。奥地に進むにつれ、岩の数が極端に減っているようです。今後はさらに水分の確保が難しくなってきそうですね」


 水分源がなくなる。

 ルイーズたちにとっては死活問題だ。どうにかして早急に解決策を見出さなければ、そう遠くないうちに生存の危機に陥るだろう。


「ねえ、ディー。ディーはさっき、ひと月は飲まず食わずでも大丈夫だって言ったけど……ルゥは? ルゥははんぶんだから、半月くらい?」


 ふと疑問に思ったことを尋ねてみれば、ディオンはわかりやすく困ったような反応をした。


「すみません、姫さま。前例がないことなので、正確にはわかりかねます。ですが、たとえ半月持つとしてもそんな苦行はさせませんよ」


「んー。ディーの気持ちは、うれしいけど」


 ルイーズは一見〝人間〟だが、その実、人と悪魔の混血──両方の血を持つ者だ。

 艶やかな白銀の髪や氷を透かしたような薄蒼の瞳は、人であった母親から。

 わずかに先の尖った耳や犬歯、人では有り得ないほどの視力などは、悪魔であった父から受け継いでいる。

 しかし、人と悪魔が結ばれることは禁忌とされる世界で、悪魔の要素は罪の証。

 尖った耳は普段から癖のある髪で覆い隠すようにしていたし、ルイーズ自身〝人として〟育てられた。ゆえに、己が悪魔だという自覚も、正直薄い。


(……わかんないことだらけだから、不安なのかな)


 ルイーズは、唇をきゅっと引き結んでうつむいた。首飾りの〝聖女の睡宝〟を両手で握りしめれば、あの日のことが脳裏によみがえる。


『ディー。……ルゥね、パパに会いたい』


 ──それは、ルイーズたちが故郷を出る数日前の言葉。

 罪を背負うルイーズは、人前に姿を晒せない。そのため、物心ついた頃にはすでに、人界における未開の奥地〝ルエアーラ幽谷〟で身を隠しながら暮らしていた。

 家族は母親と使い魔のふたりだけ。

 けれど、不満はなかった。たとえ箱庭のごとく小さな世界でも、平和に、幸せに、そしてなにより安全に暮らすことができていたのだから当然だろう。むしろ、ずっとこんな生活が続いてほしいと願っていたくらいである。

 父のことを恋しいなんて、思ったことすらなかった。

 ……母が病で命を落とした、あの日までは。


(ママは、パパのことを愛してたんだよね)


 大罪であることを忘れそうになるくらい、母がルイーズに話してくれる父の話はどれも楽しくて幸せな思い出ばかりで。


(でもルゥは……、夜中にママがひとりで泣いてたの知ってるから。ごめんなさいって、ずっと一緒にいたかったって、ママがずっと我慢してたの知ってるから)


 だからこそルイーズは、母の命の灯が消える寸前に、ずっと聞きたかったことを彼女に問いかけたのだ。


『ねえ、ママ。……ママは、パパに会いたい?』


 ──そのとき、母は……ミラベルはたしかに頷いて。

 彼女の眦から流れる一粒の雫を見たルイーズは、決心した。

 大好きな母が残した最期の願いを叶えるため、父に会いに行こうと。


(パパに会って、ルゥなんて知らないって。いらないって言われたら、ママのところに行けばいいよね。ママの気持ちを伝えられたら、ルゥはそれで十分だし)


 逆を言えば、その目的を達成するまでは、あきらめるわけにはいかないのである。


(これは、生きてるルゥにしかできないことだもん)


 心のなかで自分に言い聞かせ、ルイーズは目前の大花を見上げた。

 打開策を見出すといってもこの環境だ。

 朽ち果てた荒野で限りなく手に入るものと言えば、もうこれしかあるまい。


「ねえ、ディー。これ、食べられない?」


 ルイーズがザーベスを指さすと、ディオンはぎょっと目を剥いた。


「た、食べるなんてとんでもない! ザーベスの毒はほんの一滴でも致死量に値すると言われているんですよ。自分でもおそらく耐えられません」


「でも、お花だから、きっと蜜があるよね?」


「そう、ですね……。蜜もありますし、茎の水分量は豊富だと聞きます。花弁も蜜も茎も、毒薬のなかでは最高級品として裏取引されている代物ですので……って、え? 姫さま、まさかとは思いますが、なにかよからぬことを考えてませんっ?」


 ルイーズを抱えるディオンの腕に力が籠る。


(ルゥなら……どうにかできる?)


 じっとザーベスを見つめながら、ルイーズは小さな頭をフル回転させた。

 花弁、蜜、茎──毒。やってみないことにはわからない。

 けれど、そこに可能性があるのなら、やってみる価値はある。

 しばし思考を巡らせたルイーズは、最終的にそう判断して、口火を切った。


「これ、食べてみよ。ディー」


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