第26話 名無しの少女

 これはとある少女の話だ。

 少女は鍛冶屋の一人娘として生まれ、裕福ではないものの、親の愛を受けて健やかな生活を送っていた。だがそれは、ある日唐突に終わりを告げた。

 

「ふぁ」 

 

 少女が目をさますと、太陽は既に高く上っていた。いつもなら母親が起こしにくるのに。疑問に思いながら少女はリビングに向かう。

 

「・・・・・・お母さん?」

 

 リビングでは母親が内職の裁縫をしていた。母親は少女の声が聞こえなかったのか、黙々と手を動かしている。

 

「ねぇお母さん。わたしお腹すいた」

 

 空腹を訴えかけても、母親は反応しない。まるで聞こえていないかのように。

 何かがおかしい。少女の理解できない何かが起こっている。

 

「お母さん! むししないでよ!」 

「きゃっ」

 

 少女が何か空恐ろしいものを感じて母親の服を引っ張ると、母親はようやく気付いたようで小さく悲鳴をあげた。

 

「こら、危ないから裁縫中は触らないでって言ってるでしょ!」

「お母さんがむしするからじゃん!」

「え? ・・・・・・あら、そういえば私、あなた起こしたっけ? 大変、あなたご飯もまだじゃない。ごめんなさいね、なんで私忘れてたのかしら」

 

 母親は首を傾げながらあり合わせのもので軽食を作り始めた。少女はその背中を見ながら、いつも通りの母親の様子にほっと息をつく。

 だがこれは、少女の苦難の始まりだった。

 

 

「ねえみんな! なんでわたしをむしするの!」

 

 少女が目に涙をためながら声をあげるが、当の友人達は無視して追いかけっこに興じている。もはや何度目かも分からない。触ると彼女に気づいてくれるのだが、しばらくすると彼女抜きで別の遊びをしている。

 

「なんなの、なんなの・・・・・・」

 

 少女は友人と遊ぶのを諦め、鼻をすすりながら石段に腰掛けイジケ始めた。 

 

 

「あれ・・・・・・ねてた」 

 

 泣き疲れた少女が肌寒さに目を覚ますと、既に日は沈みかけ、不気味なほどの夕日が空を覆っていた。少女は家々から漂う夕餉の香りに突き動かされるように家へと向かった。

 

「ただい・・・・・・あれ?」

 

 家の扉を開けようとした少女だったが、扉には鍵がかかっていた。

 

「おかあさーん! おとうさーん! あけてー!」

 

 何度かガタガタと扉を揺らしたり叩いてみたが、扉は一向に開く様子は無かった。もしかしたら何かあったのかと思った少女は側面に回り込んで、窓から家を覗き込んだ。

 

「・・・・・・なんで」

 

 そこにはにこやかに会話をしながら食事をする母と父がいた。まるでそれが当然であるかのように。横に置かれた一回り小さな椅子には目もくれず。

 

「お母さん、お父さん! わたしはここにいるよ! あけて!」

 

 いくら声を上げても反応がない。業を煮やした彼女は近くにあった石を窓に叩きつけた。

 

「キャーー!」

「なんだ!?」 

 

 これにはさすがに両親も気付いて席を立った。

 だがその後、何も起こらない事に訝しみ、恐る恐る窓辺による。

 

「ぐす・・・・・・ひっ・・・・・・」

 

 そこには泣きじゃくる彼女の姿があった。

 それを見てようやく全てを思い出した両親は慌てて彼女を抱きしめた。

 

「お母さん・・・・・・お父さん・・・・・・わたしはここにいるよ。どうして、みんなむしするの」 

「ごめんなさい! ごめんなさい! どうして、どうして忘れていたのかしら! 本当にごめんなさい!」 

 

 きつく抱きしめる母親の腕と、背中をさする父の手を感じながら、少女は泣き続けた。いつもなら安心するはずの腕に、なぜか胸騒ぎが止まなかった。

 彼女には分かってしまったのだ。何も不足などないように仲睦まじく夕食を食べる両親の姿に、『ここに自分の居場所はない』のだと。 

 

 その証拠にその後も両親は彼女の事を忘れた・・・・・・いや、いないものとして扱った。友人も近所のおばさんも、野良猫すらも、誰も彼女の事を意識しなくなった。

 そして、締め出された回数が両手の指で数えられなくなった頃、彼女は家を飛び出した。

 

 別に行く宛てがあるわけではなかった。ただ知っている顔が自分を無視することに耐えられなかったのだ。彼女は別の街に向かう荷馬車に忍び込んだ。幸いにも彼女を苦しめた特性のおかげで誰にもバレることはなかった。

 

「・・・・・・」

 

 馬車の中から小さくなる街を見送る。

 きっと、こうして彼女がいなくなっても永遠に誰も気づくことはないだろう。世界は少女一人いなくなっても、問題なく回っていく。それがどうにも彼女には悔しくて、悲しかった。

 

 (だったら、だれもむしできないような人になってやる。わたし・・・・・・いや、がいないといけないぐらいの人に)

 

 〇 

 

 数年の後、少女から女性と呼ぶべき年齢になるころ、彼女は冒険者ギルドで斥候として活動していた。斥候という職業は彼女の特性と噛み合い、彼女は順調に実績を積んでいる。既にレベルは大台である50を超えて公認冒険者となり、ギルドから難易度の高い依頼も回されるほどだ。

 しかし残念なことに、彼女の特性のせいで彼女の名が広まることはなかった。だが代わりに『人知れず依頼クエストを解決する妖精が出る』という噂が流れるようになった。

 

「おい、聞いたか? また妖精が出たってよ」 

「へえ。1度でいいから見てみたいな」

「ばか。見れないから妖精なんだろが」 

 

 ギルドの喧騒の中で時折聞こえてくる会話に、彼女は毎回微妙な気持ちになる。 

 

「まったく、妖精じゃなくてボクがやってるってのに」

 

 これでは誰からも忘れられない人物になるという彼女の野望は果たせない。彼女はどうしたものかと思案しながら骨付き肉を頬張った。

 

「ん、うま」 

 

 この街のギルドの骨付き肉は彼女のお気に入りだ。クエストの初めと終わりには、こうして骨付き肉を注文するのが彼女のルーティンとなっていた。

 

「うし、行くか」 

 

 今のままでは名声が足りないのなら、さらに大きな名声を重ねるだけだ。彼女は依頼書を手に取り意気揚々と出発した。

 依頼内容は『オークキングの調査』だ。あるダンジョンでオークキングらしき魔物の目撃情報があり、それが真実であるか、真実であるなら証拠を持ち帰ってくるのが目的だ。

 オークキングは国指定の要注意危険魔族だ。オークキングの生まれたオークの集落は急速に成長し、そこに住むオークは強く狡猾になる。放置すれば国をも揺るがしかねないほどの存在だ。そのため調査によりオークキングがいると確定した場合は討伐隊が組織される。

 

「でもそれをボクが討伐できれば・・・・・・」 

 

 調査の手土産にオークキングの首を掲げ、『オークキングは確かにいた。でももういない』と高らかに宣言する自分を妄想して、彼女は口角を吊り上げた。単独で要注意危険魔族を討伐となれば、国から報奨が出てもおかしくない。そうなれば否が応でも人々は彼女に注目するだろう。

 

「それに無理そうなら普通に調査だけして帰ってくればいいだけだしね」

 

 スキップのような軽い足取りで、人の波をすいすいと器用に避けていく。頭の中にあるのは栄光を手にした自分の姿ばかり。この先の空に立ち込める一塊の暗雲に、彼女はついぞ気付くことはなかった。 

 

 〇

 

 光の届かぬ洞窟に獣達の荒い鼻息と獣臭が立ち込める。通常ではありえない密度の魔物に彼女は顔をしかめつつも、【暗視】スキルにより周囲を伺う。


 (異常な量のオーク・・・・・・これはオークキングがいるのは間違いないかな。でも妙だな)

 

 オークが多いのはいい。だが魔物の群れの中にはゴブリンやコボルトなどの他の魔物も少なくなかった。どの魔物も知能や理性が低く、本来ならすぐに争いあうはずだ。オークキングの力で統率がとれている、ということなのだろうか。


 (これはちょっと厄介かも)


 他種族をも支配できるキング種など人類の脅威意外の何者でもない。彼女は警戒度を一段階引き上げて奥へ進んだ。



 (見つけた)


 一際広い広場で蠢く魔物達。その最奥に一際大きなオークの姿があった。遠目からでもわかる威圧感に、彼女はアレがオークキングだと確信した。


 (さてどうしよう。殺るか、調査か)


 調査は簡単だ。オークキングのいた証拠として抜け毛なり糞なりを採取して帰れば、それでオークキングの証拠として充分である。

 

 (とりあえず殺れそうなのか、もう少し近づいて判断しよう)


 彼女は【鑑定】スキルにより相手の実力を測ることができるが、それを使うにはまだ遠い。仕方なく広場の端を通って接近することにした。


 (そういえばここの魔物達は何してるんだろう? )


 通りがかった際に観察すると、何やら広場の地面一杯に描かれた巨大な魔法陣をいじっているようだった。彼女は魔法陣には詳しくないが、巨大な程危なそうということぐらいはわかる。


 (おいおい。コイツらは何をしでかそうっていうんだよ)


 どうやら魔法陣は既に完成しているようで、今はチェックをしているようだった。これは今からギルドに報告に行ったら確実に間に合わない。


 (しかたない。ここで殺る)


 せめてオークキングさえ殺れば、統率を失った烏合の衆に戻るはずだ。彼女はそう考えて覚悟を決めた。


 (ここらあたりか。【鑑定】)


 ──────────

 名前︰■■■

 年齢︰1■■

 種族︰オークキ■グ

 レベル︰79

 スキル︰【■咆■】【キングボア■■■■】■■■■■

 ────────────


 (ぜんぜん読めない。レベル差のせいかな。でもこれぐらいなら・・・・・・)


 そっとオークキングの背後に忍び寄る。

 彼女の戦闘スタイルは一撃必殺だ。固有特性により全く相手に気取られることなく接近し、多数のバフを重ねて暗殺者アサシンの得意とする急所への一撃を叩き込む。彼女はこの戦法により以前から格上相手にも勝利を収めてきた。彼女が短期間で公認冒険者になれた理由でもある。


 (よし、いくぞ。【格上殺しジャイアントキリング】【致命の刃薬】・・・・・・)


「む?」

 (っ! )


 暗殺の前準備のバフスキルを使っていたら突然オークキングが振り返った。彼女は慌てて距離をとって物陰に隠れた。


「いかがなさいました。キング」

「今一瞬、ヒトの臭いがした気が・・・・・・」

「はあ。そうですか? 私には何も感じ取れませんが」


 オークキングの側近らしきオークが鼻をヒクつかせるが、彼には何も感じられず首を傾げる。


「気のせいでは?」

「・・・・・・いや、あの方を出迎える際に万が一の不備も許されない。数人連れて見回りにいけ」

「はあ、かしこまりました」


 側近らしきオークは不服そうながらも大人しく指示に従い広場の外に向かった。その際、彼女のすぐ側を通ったが気づくことは無かった。


 (あっぶなーー)


『影が薄い』は超強力な認識阻害の特性だが、それに対抗できるだけの索敵能力、もしくはレベル差により打ち消される。オークはもともと鼻が効く上にオークキングはレベルも高いから対抗されたのだ。

 だがそれもギリギリだったようで、オークキングはいまいち確信が持ててない。


 (それなら・・・・・・えーと【気配遮断】)


 彼女の気配が一層薄まる。

『影が薄い』彼女は基本的に使う事は無かったスキルだが、覚えておいてよかったと彼女は心の底から思った。


 (よし、今度こそ。【格上殺しジャイアントキリング】【致命の刃薬】【背後の死神バックリーパー】【闇討ち】【暗殺者の矜恃アサシンプライド】【先手必勝】【野獣狩り】・・・・・・)


 持てるだけのスキルを発動させながら集中力を高めていく。狙うは一点。全ての生物の弱点。首だ。

 しかし問題は高さだ。オークキングは彼女の2倍はありそうな巨躯であり、そう簡単に攻撃が届かない。


 (うーん、なんかいい感じに屈んでくれたりしないかな)

「そうか、準備できたか」

 (おっと? )


 そのとき魔物から何かを聞いたオークキングが魔法陣の前へと歩き出した。そしてその後ろに広場にいた魔物達が整列する。

 どうやら先程から行われた魔法陣の調整が終わったらしい。


 (もう時間がないか。しかたない。力入りにくくなるけどジャンプして・・・・・・え? )


 彼女は思わず攻撃する事も忘れて呆気にとられた。

 オークキングがまるで首を差し出すかのように跪いたのだ。いやオークキングだけではない。広場にいた魔物たち全てが、オークキングに習うように跪き始めた。


 (ちょっと待って。なんで王が跪いてるの。もしかしてこの魔法陣は・・・・・・オークキング以上の存在を呼び出そうとしてるっていうの?)


 彼女の脳裏に最悪の想像が浮かぶ。だがもう迷っている暇はない。今が絶好の好機なのだ。


 (~~っ! 殺して止める! 【首狩り】! )

「グガァアアアア!!!?」


 振り下ろされた刃が無防備な首筋に打ち込まれる。肉をバターのように切り進む。だが途中で硬い感触に阻まれる。

 (しまった。骨が・・・・・・! )


 直前で集中を切らしたせいで首の関節から外れてしまった。ただでさえ強靭な肉体のオークキングは、それを支える骨も鋼のように硬い。


 (それなら! 【第二の刃セカンドプラン】! )


 流れるように抜き放たれたもう一つの刃が挟み込むように首を狙う。一撃目と同じ威力の刃は、容易く肉を切り裂き、今度こそ正確に関節を砕いた。


「ガァァアアアアァアアア!」


 断末魔とともに落ちる岩のごときオークキングの頭。彼女はそれを引っ掴んで素早く広場の外へと駆け出した。他の魔物は突然の事に狼狽し、周りを見るだけ。彼女の狙い通りだ。

 ただ一つだけ誤算があるとすれば。


「構わん! お呼びしろ!」


 大音声は、彼女の掴んだ生首から響いた。


 (っ! まだ生きてる!? )


 彼女は慌てて生首を放り捨てた。彼女の『影が薄い』は生物に接触していると無効化される。生首とはいえまだ生きているモノに触れ続けると脱出の障害になる恐れがあった。

 だが一番の問題はそれではなく、魔物達が落ち着きを取り戻してしまったことだ。


 (まずい)


 魔法陣が輝きはじめる。起動した証拠だ。

 もはや止められない。それを悟った彼女は必死に駆け出した。


『ブォオオ────────────!!!!』


 爆発の如き衝撃に彼女の体は宙を舞った。内臓を直接揺さぶられるかのような衝撃に、天地がぐるぐると回り前後不覚になる。キン──と耳が遠くなり、自分が立っているのか寝ているのかすらも分からなくなった。


 (な、にが)


 何もかもが理解不能な中、滲む視界に山のような異様が見えた。


 〇


 腹に走る衝撃に彼女の意識は強引に覚醒させられた。


「ごほ! ごほっ」


 ぼんやりした思考が、濃厚な獣臭により覚醒する。

 どうやらあの後気絶してしまったらしい。


 (手足は・・・・・・縛られてる。とにかく何とか脱出を)

「おい」


 底冷えするような声が降る。

 恐る恐る頭上を見上げると、オークキングなどとは比べ物にならない威圧感を放つ魔物が鎮座していた。全身が鉄塊のような筋肉に覆われ、その四肢はまるで大木のようだ。一目で絶対に敵わないと理解できてしまう。特徴的な顔つきから、辛うじてオークの1種だということだけがわかった。


 (間違いない。コレがオークキングの召喚しようとしていた魔物。本物の、オークの帝王)


「まったく、やってくれたな小娘。我が臣下を暗殺するとは」


 魔物は思案げに顎をさすった。

 その視線は脇に置かれたオークキングの生首と胴体に注がれている。どうやら既に事切れているようで、生気は感じられない。彼女はそのことに少しだけ安堵する。

 しばらくすると魔物は視線を彼女に移した。その視線に射抜かれるだけで彼女は身が竦んだ


「まあ、それはよい。首を切られた程度で死ぬのは鍛錬の足りぬ証だ。それより小娘、どこの指示で来た。人間はこの事をどこまで把握している。全て喋れ」

「・・・・・・」


 彼女は黙秘を選んだ。

 把握も何も、彼女はただオークキングの調査に来ただけで、こんな大事になるとは思ってもいなかった。しかしそれを馬鹿正直に言えば用済みとなって殺されるだけだ。

 ならばせめて尋問の時に隙を見て逃げる。成功するかは分からないが、生き延びるにはそれしかなかった。


「ふむ、だんまりか。本来なら尋問する所だが、喜べ小娘、今日は面白いものがあるぞ。おい、シェイプシフター! 出番だぞ」

「っ! まさか」


 魔物の中から人型の透明な粘液が出てくる。

 シェイプシフター。人を喰らい、その能力、容姿、性格、そして記憶・・をコピーする魔物だ。


「コイツで捕虜を喰らえば尋問の手間もなく、そのまま戦力に転用してもよし、市中に潜り込ませてもよしの画期的な手法よ。難点は数が少ないことだが・・・・・・我が臣下を暗殺できる貴様の力量なら問題ない。有能な部下になるだろう」

「いや! 来ないで!」


 縛られたまま何とか逃げようとするが、すぐに他の魔物に捕まり引き戻される。


「ひっ」


 人型の粘液がその腕のような触手を伸ばす。それが彼女の頬に触れた瞬間、焼けるような痛みが走った。


「あああぁああぁぁあああああ!!」


 粘液は激痛に喘ぐ彼女をよそに侵食を続ける。やがて粘液が顔全体を覆うと叫ぶことすら出来なくなった。

 全身が溶かされ、飲まれていく。自分が端から自分でなくなっていくのがわかった。


 (ああ、ボクはここで死ぬのか)


 もはやこの死の運命から逃れる術はないと彼女は悟った。指先は溶け落ち、足も既に動かない。抵抗できる術は無い。


 (まあ・・・・・・けっこうがんばったよな、ボクにしては)


 普通の町娘だった彼女が厄介な特性に目覚め、それからは苦難の日々。そんな中でも彼女は抗い続けた。知識を身につけ、スキルを磨き、実績を積み上げてきた。おかげで『妖精』なんて噂も流れるようになって、彼女はそこそこ満足を・・・・・・


 (ほんとうに? )


 今自分がここで死んだとして、誰かその事に気づいてくれる人はいるのだろうか。悲しんでくれる人は、惜しんでくれる人は?

『妖精』の噂も、すぐに消えて無くなって、あとには何も残らないのでは?


 結局、自分は初めからこの世界に居なかったかのように忘れ去られるのでは?


 (それは、いやだ! )


 まだ死ねない。死にたくない。その想いだけが強まる。

 既に視界も触覚もない。何も感じない暗闇の中で、彼女は生にしがみついた。途切れそうな意識を気力だけで繋ぎ続ける。時折顔を見せる弱気を、意志の力でねじ伏せ続けた。

 どれほどそうしていたのか。彼女には永劫の時のようだったが、実際には一瞬のことだったかもしれない。

 気づけば彼女は両の足で広間に立っていた。一瞬全て夢だったのかと思ったが、床に無造作に落ちた粘液まみれの彼女の装備で現実だとわかった。


 (生き、残った? )


 なぜ生きているのか分からないが、こうして思考できている事が彼女が生きている証拠だ。


「ふむ。終わったか。どうだ、具合は」


 重々しい魔物の声がかかる。そこで彼女はまだ脅威は去っていないのだと悟った。


 (そうだった。ここにはまだコイツがいた)


 どうやらこの魔物は彼女の事をシェイプシフターだと思っているようだ。ならばここはそれに乗っかり、隙を見て逃げるのが吉だと彼女は判断した。


「はっ。良好でございます」

「そうか。その割にはまだ細部が甘いぞ」

「はい?」


 魔物が彼女の左腕を指し示す。その先を恐る恐る見ると、そこには左手の指先がなかった。


「ひっ!」


 あるべきはずのものがない恐怖に声をもらす。だが彼女の見ている前で手から粘液が盛り上がり指先を形成した時の恐怖はそれ以上だった。


「な、なにこれ! なにこれ!」


 慌てふためく彼女をよそに、今度は右足が粘液状に崩れて倒れ伏す。理解の追いつかない現象に彼女は半狂乱状態だった。


「おい何をしている。遊んでいるんじゃない。・・・・・・いや」


 慌てふためく彼女を見た魔物はしばらく呆れたように見ていたが、様子のおかしい彼女の様子に表情を変える。


「貴様! まさか魂までコピーしたのか!」

「え?」

「おお、なんとマヌケなシェイプシフターだ。ハラミタマめ、とんだ不良品ではないか!」


 頭を抱える魔物が何を言っているのか、彼女には分からなかった。自分は魔物ではなく人間だ、という確信。それはこの思考が証明している。だが胸に立ち込める嫌な予感が、彼女にステータスを開かせた。


 ────────────

 名前:───

 年齢:15

 種族:シェイプシフター

 レベル:54

 固有特性:【影が薄い】

 ──────────────


「あ、ああ・・・・・・」


 深い絶望が彼女を覆う。既にその身は人のものではなかったのだ。


 シェイプシフターは捕食した者のあらゆる情報をコピーするが、一つだけコピーしないものがある。それが魂──もっというなら主人格だ。なぜなら捕食対象の主人格が入り込むと、体を乗っ取られる可能性があるからだ。ちょうど、今回のように。

 本来ならそうはならないのだが、シェイプシフターがマヌケだったり、捕食対象の意思が強かったりと様々な要因でごく稀に起こる可能性がある。


「ふぅぅうううーー。いや、起きた事は仕方あるまい。小娘、貴様には我が臣下と貴重なシェイプシフターを潰されたのだ。その分の働きはしてもらうぞ。おい奴隷化の準備をしろ」


「ひっ! い、いやだ!」


 奴隷化、の言葉に彼女は我に返り逃げ出そうとする。だが慌てれば慌てるほど、彼女の体は形を保てなくなり、逃げることが出来ない。まるでタチの悪い悪夢のようだ。


 そのうち彼女の体は捕らえられ、奴隷化の刻印を刻むために魔物が取り囲む。そしてあらゆる抵抗を封じられ、彼女の体に奴隷の刻印が刻まれていく。


「小娘、奴隷として最初の仕事だ。我こそは魔王軍四天王が一人、ネトルーガ。貴様が仕えるべき主人の名だ。その身と魂に刻み込んでおけ」


 こうして彼女の絶望の日々は幕を開けた。

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