第十八話 昔話です(捌)

「あの日が、蓼山の神に初めてお会いした日でしたね」


懐かしく、蓼山たでやまの神に言う。


「そうじゃったな」


そう答える声が、懐かしさを含んでいるような気がして、嬉しかった。


「人間だったお前は、なかなかに魂を美しく揺らすやつじゃった」






けがれを持ち込んで、さらに頼み事か」

あの日の蓼山の神は、そう言い放った。


顔を上げた。

見た目は人間にしか見えないのに、表情のない瞳が人の気配を感じさせない。


「無礼を承知でお願いします」


また平伏する。


穢れとはなんなのかは分からない。

けれど、“あいつ”に関わる何かだというのは、想像がついた。


自身の体が震えているのを感じた。


協力的な態度には感じられない。

追い返されるかもしれない。

もしかしたら、殺されるかもしれない。


けれど、無理を承知でお願いするしかない。

誰にも頼れない。

今、目の前にいる人ならざるものに、ようやく一筋の光に感じられている。


「聞かせてみよ」


予想外の一言だった。


「幼いころよりこの山に詣でてくれたお前の頼みじゃ」


体が、震えた。

先ほどの恐怖から来ている震えとは違う震えだった。


俺が、ずっとこの山に来ていたこと見ていてくれていた。

そのことが嬉しかった。


「この山の神でいらっしゃいましたか」


「そうじゃ」


俺は好きだからこの山に登っていた。

もちろん見返りなんか求めていない。


ありがたいと思った。


「あの人を、ひらりさんを、助けていただきたいんです」


まっすぐに、そう言った。

俺の願いは、そこにしかない。


「あの女を助けることは、高く代償がつく」


蓼山の神は、ひらりさんのことを知っているようだった。

そして俺が言うことが分かっているかのような振る舞いだった。


今は分かる。

ひらりさんのことどころか、俺の気持ちすらも知っていた。

それでもあえて聞いたのは、俺と蓼山の神と交わした契約の手続きのようなものだ。


「代償とは?」

そう聞き返した。

もちろん、どんな代償だろうと受け入れるつもりだった。


「まず、あの女は死ぬ」


今まで感じなかった、刺すような雪の痛みを手のひらに思い起こした。


「揺らぐか」

蓼山の神はそう言った。

「揺らぐなら無理じゃ」


俺は慌てて首を振った。


「誰の命も失わずに、“あいつ”だけを倒すことはできませんか」

ここで話を終わらせてはいけない。

そう思って、そう食いついた。


「できぬ。あの女の魂に深く入り込んで居る。そやつが死んだら、すぐにあの女は生命を失うだろう」


「そうですか」


何も言い返せなかった。

蓼山の神は、分かったうえで聞いてきている。


死ぬことは、ひらりさんの願いだ。

決意したつもりが、まだ迷いがあった。


あいつに翻弄ほんろうされ続けていても、ひらりさんが生き続けていさえくれば、ひらりさんを失わなくて済むと思ってしまっている。


「待って……!」


後ろから、ひらりさんの声が聞こえた。

後ろを振り向くと、山の斜面を登るひらりさんの姿が見えた。

ひらりさんは転んで、雪の中にうずまった。


「ひらりさん!」

駆け寄って、抱き起す。


「ごめんね、追い付くの遅くなっちゃった。登るの早いね」

息を切らして、元気のない笑顔で俺に笑いかける。


「こんな雪山に、危ないですよ。遭難でもしたらどうするんですか」


「危ないほうが私にはいいんだよ。それよりさ」


「連れてきたようじゃな」

蓼山の神がいつの間にか傍に立っていて、そう言った。


「連れてきた?」


そう聞き返した。

俺は別にひらりさんを連れてきたわけじゃない。


「……連れてきたわけじゃないです」

そう答えたのは、ひらりさんだった。

そのセリフを、どうしてひらりさんが言うのだろう。


「目的を果たすために、その男に会ったのであろう」


俺はひらりさんの顔を見た。

ひらりさんは慌てて視線をそらした。

今まで見たことのないような怯えているような悲しい顔をしていた。


「違うの。違ってないかもしれないけど、違うの」


「目的って、ひらりさんが、あいつから解放されるってことですよね。そんなの別に、今さらじゃないですか。俺を利用することくらいで、そんな悲しい顔をしないでくださいよ」


ひらりさんが純粋に俺のことが好きで会っていただなんて、そんなことを思えるほど、俺は純真じゃない。


ひらりさんは驚いた顔をして俺を見た。

「ごめん……。強いね君は」


ひらりさんは、蓼山の神に顔を向けた。


「やっぱり無理です。……死なせたくない」


そうはっきり言い放った。


死なせたくない?

死ぬのはひらりさんだけじゃないのか?


「その話は、まだこの男にしておらん」


蓼山の神はそう言った。

そして俺の顔を見た。


「代償の話の続きじゃ」


「続き?」


蓼山の神は、俺のほうを指さした。


「お前も死ぬ」


手が震えた。


死ぬことへの恐怖ではない。

生きることは、もうとっくに諦めている。


わいてきたのは、怒りだった。


「“あいつ”は何者なんですか。なぜ、こんなにも振り回されないといけないのですか」


声が怒りでひきつっている。


“あいつ”がいなければ、二人とも死ぬことはない。

そもそも、“あいつ”がいなければ、ひらりさんは幸せに人生を過ごすことができたんだ。


「そやつは、山の神じゃ」


「神?」


あまりに予想外の答えが返ってきて、声が裏返りそうになった。


「なぜ神が、このような仕打ちをしてくるんです?」


「こやつは、魅入られたのじゃ」


「魅入られた?」


「見初められたということじゃ」


聞き間違えたかと思った。

ひらりさんの顔を見たら、悲しそうに顔を背けた。


「なぜです?」

なにか、トクベツな理由があってほしいと思った。

少しでも納得できる理由が欲しかった。


「たまたまじゃ。たまたま山を、自分をあがめてくれる者がいた。それがこやつだった」


「そんなことで、それだけの理由で、ひらりさんはずっと苦しんでいたんですか。自分をあがめてくれた人に、ずっとこんな仕打ちをし続けてきたんですか……!」


「そやつに、そんな感情はない。人など、数多ある中の一部の命に過ぎん。山の秩序のためならば、わしはそやつに対して思うことなどない」


冷たい言葉に感じた。

俺が思う神とは違っていた。


「どう思おうとお前の勝手じゃが、山の神にとって優先すべきは山の秩序、命の循環じゃ」


違和感を感じた。

蓼山の神のセリフに矛盾を感じた。


「ならばなぜ、俺の話を聞いてくれているんですか? そもそも、こんな話をする必要もないでしょう」


蓼山の神は、のぞきこむように、じっと俺を見つめた。

色のない瞳が、俺のすべての感情を見透かしているような気がした。


「あの神は、人に触れすぎて、神としての格を失いつつある。いつ堕ちてもおかしくない」


話が飲み込めていない。


「つまりじゃ」


また蓼山の神は俺を指さした。


「お前が神になれ」

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