第十四話 昔話です(肆)
「その子は、魅入られておるな」
俺の話を聞いてくれていた
人間の時には分からなかったが、今の自分には分かる。
ひらりさんは、死ねない。
老化しない、寿命がない、そういう生物学的な話ではない。
ひらりさんは、とある神に魅入られていた。
その神は、彼女をそばに置きたいがために、あらゆる彼女のものを奪おうとしていた。
彼女の環境も、帰る場所も、大切な人も、時間も、自分で命を絶とうとする自由も。
そんな妖怪や悪魔よりも邪悪な神は存在する。
その神自身は、ピュアにひらりさんのことを愛している。
だからこそ、邪悪だ。
出会いや運命というのは、魂の行き先を大きく変える。
ひらりさんの魂は、捕えられ、監禁されてしまった。
呼吸をできない魂は、黒く腐っていく。
それは、どれほどの苦しみだったろう。
結局のところ、俺は、どれほどに彼女が切実に死を思っているか知らなかった。
当時の俺は、同じ夢を見続けていた。
赤い夢。
夕焼けでもない、夜更けでもない、この世界にはない、血を連想させるような、異質な
暗くて見えない地面に、たくさんの鳥居がどこまでも連なっていている。
その鳥居が朱色ではなくて、毒々しい
一番手前の鳥居で、赤銅色の前掛けをしたお狐様の石像が両脇に鎮座している。
俺は、この鳥居をどうやったらくぐれるかを考えている。
やがて、迷っている俺に、淡い緋色の蝶がたくさん向かってくる。
あまりの美しさに見とれていると、蝶が鳥居をくぐり始めた。
そちら側に行ってはいけないと思った。
焦って蝶を止めようとしても、むちゃくちゃに振り回す俺の腕を軽々しく避けていく。
偶然、一匹の蝶が手のひらに当たった。
よろよろと、俺の腕に止まる。
この蝶だけは、なんとか助けなければいけないと思って、その蝶に気を付けながら顔をあげた。
ひらりさんがいた。
不自然なほどに薄暗い紅色の装束をまとっている。
うつむいていて、表情が読み取れない。
会えたことがうれしくて近寄ろうとした。
けれど、足が自分の足ではないようにまったく動かない。
「なぜ、そこにいるんです?」
問いかけても返事がない。
不安になって、
「こちらに来てもらえませんか?」
そう嘆願するけれど、反応してくれない。
このままでは、もう会えなくなる気がして這ってでもそちらに行こうとするが、体がずっしりと重くて動かせない。
手で足を持ち上げて進ませようとしても、そもそも手がゆっくりとしか動かない。
顔をあげると、黒。
暗闇が目の前にあった。
視線を上にあげると、鳥居。
俺は気づかないうちに、鳥居の目と鼻の先に立っていた。
暗闇の中に、ぼんやりと紅色の装束が浮かび上がる。
ひらりさんはもう鳥居の中を歩いている。
冷や汗が出た。
なんとか、連れ戻さなくてはいけない。
夢の中の俺は焦燥感に駆られている。
焦燥が、いよいよ大きな焦りと悲しみに変わった。
ひらりさんは、奪われてしまう。
この世から。
炎は、ひらりさんの足元に届いた。
喪失感から逃れようと、頭皮を引きちぎりそうになるほどに、俺は頭をかきむしった。
炎はゆっくりとなめるように、皮膚をはい回り、とかしていく。
皮膚がなくなり、肉がなくなり、骨が砂になるまで見届けて、俺は目を覚ます。
夜が深まったばかりの俺の部屋で、大きく息を吸い込んで、長く息を吐いた。
俺は4回目で、ようやくこの夢が夢ではないのだろうなと気づき始めていた。
でも、この夢が何を示しているのかは、当時の俺はまったく見当がついていなかった。
ある日、俺とひらりさんは切り立った崖の上に立った。
「ここから飛び降りれば、死ぬんじゃないかと思います」
ひらりさんにそう言った。
「綺麗なところね」
そう答えた。
季節は冬。
枯れ木がにぎわい、寒々とした岩肌が痛々しい。
「飛ぶんですか?」
俺はまだ、ひらりさんの背景の重みを、少しも感じ取れていなかった。
実際に死に直面したら気が変わるかもしれない。
俺はこの期に及んで、ひらりさんのことを、踏み切れないだけの自殺志願者だと思っていた。
「そうだよね。やってみないと分からないよね」
そう答えた。
やってみなくても想像くらいつくだろう?と内心焦った。
崖に歩き出したら、力づくで止める気でいた。
何かの間違いで落ちてしまったらと思うと、手が震えた。
嫌われたっていいから、やっぱり説得するべきだったと思った。
「俺は」
「ちょっと待っててね」
そう言いながら、ひらりさんは駆け出していた。
崖の先へ。
一切の迷いもなく。
俺は手を伸ばすことしかできなかった。
言葉すら発することができなかった。
目の前が急に、赤色の世界に変わった。
崖が消えて、視界の果てのほうから、赤い何かが連続して降ってきて、地面に突き刺さっていく。
それがだんだんと自分のほうに近づいてくる。
やがてそれがなんだか分かった。
鳥居だった。
夢の景色の再現。
いや、俺が見た夢の世界、そのものだった。
だから当然、俺は夢の中にいるのかと思った。
俺は混乱しながらも、鳥居につぶされないようにその場から離れようとしたけれど、夢の中のように体が動かない。
やがて目と鼻の先に鳥居が立ち、音がやんだ。
やはり鳥居の中は、こんなにも近いのに暗闇しか見えない。
目をそらしたいのに、顔を動かすどころか、まぶたを閉じることすらできない。
暗闇の先から、白いものが見えた。
手だった。
1つや2つではない。
数えきれないほどの腕。
叫び声をあげる前に、口元もつかまれた。
俺は体中をつかまれ、暗闇に飲み込まれた。
意識が、ぷつっと途切れた。
「目を開けて! 返事をして!」
ひらりさんの緊迫した声が耳に入った。
目を開けると、下からのアングルで木々が見えた。
ぼんやりとした意識で、ここはどこだろうかと考えた。
木々の枝と枝の隙間から、崖が見えた。
あの崖が、ついさっきまで俺らが立っていた場所だと気づいたとき、一気に恐怖に襲われた。
崖から落ちている。
腕を見た。
ある。
頭を触った。
割れてはいない。
腹を見た。
何かが出ている様子もない。
一切、何も変わったところはない。
「生きているよ、ちゃんと」
ひらりさんの声をのほうを向くと、ひらりさんも何も変わったところはなかった。
心底、ほっとした。
「よかった」
思わず、そう声が漏れた。
「ごめんね」
申し訳なさそうな顔で、ひらりさんが言う。
正直怖い思いをしたけれど、これでひらりさんが自殺を思いとどまってくれればいいと思った。
「巻き込んでごめん」
ひらりさんはそう言った。
「あいつが、君に手を出すとは思わなかった」
「あいつ?」
ひらりさんは思いつめた表情で、俺のことをじっと見つめた。
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