第十一話 昔話です(壱)
ちょうちょ
ちょうちょ
菜の葉にとまれ
菜の葉に飽きたら、桜にとまれ
桜の花の、花から花へ
とまれよ、遊べ
遊べよ、とまれ
彼女が好きだった歌。
初めて出会った時にも、今際の際にも。
全部人間のときに聞いたから、神になった時に聞けていたら、もっといろんなことが感じられたのにと今でも残念に思う。
もう何年前の話になるだろう。
俺は山が好きだった。
その日も山を登っていたが、いつからなのかはもう記憶がない。
悲しいときも、怒りがおさまらないときも、うれしいことがあったときも、特に何もないときでも、山に登った。
山の匂いが好きだった。
春は華やかな匂いがする。
夏は草の匂いでむせ返る。
秋は木の実。
冬はみかんが香る。
みかんも終わって、雪が匂いを覆った日。
彼女も雪に埋まっていた。
ちょうちょの歌が聞こえたので、こんな寒い日に誰が歌っているのだろうと気になった。
そこで見つけた。
雪と同じような肌をした顔だけが地表に出ていた。
「え? 死……?」
あの映画が脳裏によぎった。
死体を見つけてしまった。
「生きてる」
彼女はそう言って、体を起こした。
上半身が雪中から出てきた。
「……!」
驚きのあまり、尻餅をついた。
情けないようだけれど、誰だって俺のような反応をすると思う。
「驚かせてごめんなさい」
本当に謝る意思があるのかというほどの無表情で彼女はそう言った。
気づいたが、俺と同じ高校の制服を着ていた。
うちの学校は、学年をリボンの色で示していたので、1つ上の学年だと分かった。
「なぜ、雪の中に……?」
そう聞くと、彼女は悲しそうな顔をした。
埋められたんだろうか。
「痛いのかなと思って」
不思議ちゃんだと思った。
でも美人だから、そんなセリフも映画のワンフレーズのように思えた。
よく見ると、皮膚が赤くなっていて、紺の冬制服でも濡れているのが分かる。
どれくらい雪の中にいたんだろう。
「だいじょうぶですか? 救急車呼びますか?」
状況が飲み込めてないから、軽くパニクってたと思う。
「救急車はやだな。迷惑かけちゃうから」
そう答えられて、こう間抜けに返事をした。
「え? じゃあ、どうしましょう?」
「じゃあ、こっち来て」
手招きされたので、駆け寄る。
「もっと近づいて」
近づいた。
「もっと」
もう十分近い気がする。
「もっと」
今日の俺の息、だいじょうぶだろうか、なんて考えた。
「うん」
満足したらしい。
「これで、どうすればいいんですか?」
女性の顔をこんな近くで見たのは初めてだった。
きれいだと思った。
心臓の音が耳に張り付いてるのかと思うくらい、ドキドキしている。
向こうの要望に従っているだけなのに、何か悪いことをしているような気にすらなる。
「どうすれば……?」
なぜ、俺の質問に疑問形で返ってくるのだろう。
「キスして」
キスした。
俺の頬をつかんで、一気にいかれた。
選択肢は無かった。
くちびるは冷たかった。
チアノーゼしてるし。
冷たいし。
冷たい。
柔らかい。
良い匂いがする。
「……。………!」
我に返って引きはがした。
「嫌だった?」
嫌とか、好きとか、そういう問題なのだろうか。
いや、どっちでもいいと思い直した。
また、キスしたいと思った。
「大好きです」
そう答えた。
わけ、わからないけど。
「はははは」
笑った。
「大好きなんだねえ」
エッチなセリフに思えた。
「また会える?」
会いたいと思った。
「え、じゃあ、連絡先」
「あ、私、スマホ持ってない」
「え、あ、はい」
冷や水を浴びせられたというのは、このことだと思った。
たぶんこの人は、からかいたかっただけなんだ。
会う気ないんだろうなと思った。
スマホ持ってない女子高生なんて存在しないと思ってたから。
「また山で会おうよ」
「山で?」
こんなめちゃくちゃ広い山で、時間も場所も指定しないで会えるわけがない。
ここが登山ルートならまだしも、こんな獣道からも外れたようなところで。
「じゃあ、またね」
彼女は立ち上がった。
スカートから、痛々しいほどに赤くなった足が見える。
「な、名前!」
名前より他に聞くことはたくさんあったと思うが、そう聞いた。
「ひらり」
「ひらり?」
「それが私の名前だよ」
彼女の上を、冬の
冬まで生き残ってしまった蝶は、ふらふらと悲しく飛んでいるように見える。
彼女の左腕には、切り傷のようなものが縦に入っているのをいくつか見えた。
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