第七話 鬼怒川の神は土地神です

「あの子どもを、見殺しにしろということですか?」

 俺は鬼怒川きぬがわの神にそう尋ねた。


 川の中で、水と水がじゃれ合って、時には小石や生き物たちに当たりながら、ころころと音を立てる。

 水色の空からとんびが8の字をかいて、川を眺める。

 木が葉をこすらせ、さわさわ音を鳴らす。


 美しいほどの自然の均衡。

 鬼怒川神の格を感じる。


「言の葉にトゲがあるわね」

 鬼怒川の神は微笑みを絶やさない。

 でも目の奥は笑っていない。


「貴方はやっぱり、人間くさいわね~。この川にはたくさんの命が棲んでいるのよ。なぜあの魂だけ特別扱いしないといけないの?」

 その通りだと思った。

 

 でもきっと、死ぬのはあの子どもだけだ。

 残された母親の気持ちを考えただけで、震える。


 いや、母親は助けようと水に飛び込むかもしれない。

 両方死ぬ。

 母親の慈悲が深ければ、子どもだけは助かるかもしれない。


 そうしたら、子ども一人、遺されてしまう。

 その子は、母親と兄が、溺れ苦しみ死ぬのを見届ける。

 

 どんな地獄だ、それは。


「それに、お盆の時期には水辺に近づかないって、人間界でも常識のはずでしょ。つい最近までは、ちゃんと守られていたのにね。水へのおそれを知らない人間が死んだところで、自業自得としか思えないわ」


 同意できないと思ってしまうのは俺が人間だったからだろうか。

 今時、それを常識だなんて思っている人を探すほうが難しいだろう。


 助けたい気持ちはある。

 でもここは、鬼怒川の神の領域。

 山には山の世界ルールがあり、川には川の世界ルールがある。

 

 鬼怒川の神の言うことはもっともだ。

 俺が、神としておかしいんだろう。


「こりゃあああああ!!」

 

 なんだか聞き覚えのある声が聞こえる。


「こんな時期に川遊びするもんじゃねえぞ! 危ねえべな!」


ヨネさんだった。

ヨネさんだった!?


「ヨネさん! なんでこんなところに!?」

 思わず叫ぶ。


「知り合いなの?」

 鬼怒川神が聞いてくる。


「うちの山に毎日参拝してくれてるんですよ」

「毎日? へえ……」


「お義母かあさん」

 男の子のお母さんは、嫌そうな顔でそう答えた。

 ヨネさんのところの、お嫁さんだったらしい。


「お盆に水遊びしちゃいけねって、習わなかったんか。霊に連れてかれるぞ」


 ヨネさんはやっぱり最高な人だ。

 この子のおばあちゃんがヨネさんで、本当に良かった。

 これで、2人は救われる。

 ここに生まれる不幸は無くなったんだ!


 しかし、お母さんは深いため息をついた。


「そんな昔の迷信、私たちに押しつけないでくれませんか?」

 見事に救出フラグをへし折った。

 男の子のお母さんは、強気なママだった。


 なんてやつだ!

 とは思わない。


 そりゃそうだよなって思う。

 俺が人間だったら、老害とすら思ってしまうだろう。


 でも今回は、聞いて欲しい。

 子どもの命がかかっているんだ。


「なんてこと言うんだ! おらが嫁のときは、黙って先人の言うことを聞いてたぞ!」

 

「お義母さんが嫁のとき? いつの話ですか?」

 お母さんはヨネさんをにらみつける。


「今は昔と違うんです。申し訳ないと思いながら、子どもを保育園に預けて、なかなか遊んであげられない。お盆の休みに遊んであげたいと思うのが当然じゃないですか。そんな迷信に縛られて、子どもとの時間を失いたくないんです!」


 そうきつく言い返されて、ヨネさんはうなだれた。


「迷信か。そだな。年寄りが若いもんに余計なことを言うもんじゃねえな」

 

 そう言って、川辺の砂利に座り込んだ。

 説得は諦めても、嫁さんと孫への愛が垣間見える。


 ヨネさんは、この親子の救いの神になれなかった。

 むしろ状況は悪化した。

 このままだとヨネさんも危ない。


 どうする?


 やるか。

 神(俺)のお告げを使うか、いやもう母親に憑依ひょういして


「ダメよ」

 鬼怒川神がそう言って、俺の考えを遮った。

「お告げもさせないし、憑依もさせない。この子たちに介入するのは絶対に止めるからね」

 笑っているのに、有無を言わさない圧がすごい。


「なぜそんなにかたくなに、俺のことを止めようとするんですか?」

 俺にそう言われて、鬼怒川神は考え込む仕草を見せる。


「今の人間が好きじゃないから、かしらね」


 驚いた。

 神は人間を特別扱いしないけれど、嫌ってはいないと思っていた。

 生命に平等に慈悲を与える。

 それが神だと思っていたから。


「生命だっていろいろなんだから、神々だっていろいろよ」

 そうなのだろうか。


「君は、ついさっきまで人間だったものね」

 ふう、と溜息をついた。

 そして、

「人にとってはもう昔の話だけど」

 ぼそっと、そう話を始めた。


「朝になったら鐘の音が、町中に響きわたるの。すると、今度はお堂から、朝の勤行を知らせる澄んだ太鼓が聞こえてくる」

 鬼怒川の神の情景イメージが流れ込んでくる。


「すげ傘をかぶる川岸の人々が柏手(かしわで)を打つ。

顔を太陽の方へ向けて、柏手を四度打ってから拝んでいる。

長くて高い白い橋からも、同じように柏手を打つ音が聞こえてくる。


また、新月のように反り上がった、軽やかな美しい船からも、あちらこちらから木霊(こだま)のように柏手の音が響き合っている。

その風変わりな船の上では、手足をむき出しにした漁師が立ったまま、黄金色の東の空に向かって首(こうべ)を垂れている。


柏手の音はどんどん増えていき、しまいには一斉に鳴り響く鋭い音が、ほとんどひっきりなしに続いて聞こえる。


川と共に生きる人はみな、天照大御神(あまてらすおおみかみ)様を拝んでいる。

そして、土地神である私へも手を合わせてくれた」


 気持ちは分かると思った。

 俺がヨネさんを好きな理由もそこにあるから。


「昔はそうだった。人は、自然と、神と共にあった。今はそんな姿、見られない」


「今だって、自然を大切にしてる人は多くいますよ。昔と違って、神を通してではなく、科学を通して、自然を大切にしているんです」


「科学ね、そうね。科学で人は自然を押さえ込もうとしている。人にとって、自然はもう畏敬の対象ではないのよ。下僕に成り下げようとしている」


「そんなこと……」

 否定はできないと思った。

 俺だって、蛇口をひねれば水が出てくるのは当然と思ってた人間の1人だったんだ。


「この川も見て。人が力で変えてしまった。10億いた生き物たちも、半分もいなくなってしまったの。人が安全の名の下に、あぐらをかいて暮らすために、私のかわいい生き物たちを殺してしまった」


 この人の怒りは、生き物としての分を踏み外してしまった人間にあった。


「勘違いしないでね。それでも、私は人が好きよ。どの種だって、自分の種の繁栄を望むのは本能だしね~」


 鬼怒川の神は、じっと俺を見つめた。


「変わってしまったのが、悲しいの。人は万物の長、生物の長だったのよ。それは気高さがあったから。いつから人は、質朴さを失ったの? 思いやりを忘れてしまったの? なぜ、お腹がいっぱいになっても、物を欲しがるの?」


 何も反論できない。

 それでも。


「それでも俺は、人間の味方でいたいんです」


「歪んでるわね」

 そう言って、俺の言葉を鬼怒川神が切り捨てた。


「ばあちゃんち、行く!」

 男の子がそう言い出した。


「は? なんで?」

 お母さんが驚いた顔でそう言う。

 俺も驚いた。


「だって、川怖い。引っ張られたくない」

 お母さんは、男の子の言葉を聞いて、余計なことを言いやがって、みたいな顔でヨネさんをにらむ。


「おばあちゃんちには昨日行ったでしょ。今日はキャンプ。お父さんがテント立ててくれてるんだから。それに、行きたいって言ったの、あなたでしょ?」


 お母さんは説得にかかる。

 大人の計画は労力と時間がかかるから、子どもの気まぐれはわがままにしか聞こえない。


「じゃあ、父ちゃんのところに行こうな。ばあちゃんも一緒に行くから」


 ヨネさんは、妥協案を提示した。

 たしかに、川から離れれば危険は減る。

 不穏な霊は水の流れから出られない。


 鬼怒川神が本気出せば、氾濫させることもできるが、さすがにそこまではしないだろう。

 そう思って鬼怒川神を伺い見ると、すっかり興がそがれた顔をしていた。


「あの子の命が呑まれるとき、貴方がどんな行動するか見たかったのに~」

 鬼怒川神がそんなことを言う。


「俺を試すために、あんなことを言ってたんですか?」

 なんて子どもじみたことをする神なんだろう。


「あらら、私は本気よ。言ったことは嘘偽りない本音。そして、貴方を試したいと思ってるのも本音。そこまで人の味方をする神は珍しいからね~」


 鬼怒川神は笑わない目で笑った。


「貴方がどんな神になるか、もっと興味出てきたわ」

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