第2話
山を下りて村に着くころには、空はきれいな蒼に染まって太陽も山の頭を超える高さで煌々と輝いていた。
村に帰るまでの道は気恥ずかしさもあって、少女と会話することもできなかったが、少女はそんなことは気にするそぶりも見せず、上機嫌についてきていた。
時たま後ろをついてきているか振り返って確認すると僕の顔を見てにこにこ笑う。会話もない不思議な距離感だが、それがなぜだか心地よかった。
「ここが、……君の住んでるところ?」
村の門の前で立ち止まって少女が不思議そうな声を出した。
まあこれが普通の反応だよな、と心の中でつぶやいた。
門とは言っているが、年季の入ったぼろぼろの丸太が二本立っているだけのひどく簡素なものだ。それに加えて、村の周囲を仕切るように囲っている
門の向こうに並ぶ家もまばらで住んでいる人影も見えないこんな状態では、廃村と言われても納得してしまうかもしれない。
「はい。ここは西側の門で、僕の家があるのは北側の門の前です」
この村は山と山の境、少しだけくぼんだ地点に作られている。東西南北には同じような門があって周囲の山へと入っていけるようになっている。
今いる西門はここから山を二つか三つ越えた先の隣国にわたるための道だったのだが、遠回りでも平地に安全な道が整備された今となっては、こんな危険で険しい山道を使う人なんてめったにいない。そのため村でも利用するのは僕くらいなもので、それも花畑に行くためなのでそれ以上奥には行ったこともない。
西門をくぐって村の中に入っても外から見えた景色とそれほど変わりはしない。畑や牧場らしきものはあっても人影は見当たらず、いるのは牛や鶏なんかの家畜ばかり。それもそのはず、この村は人よりも家畜の方が多いのだ。
住んでいる子供は僕一人で、次に若いのが四十手前の叔父さん、そこから先は年齢が倍くらいの老人が十数人だけの
おかげで日中でも村の中は活発にはなることもなく、動物ばかりが目に付く景色が出来上がっている。
「なんか、のどかだねぇ」
後ろを歩いていたと思っていた少女がいつのまにか牧場の柵の向こうで鶏の列の最後尾に並んで歩いていた。てこてこと歩幅を合わせて歩く少女の姿に自然と頬が緩んでしまう。
「ばいばーいっ!」
僕が牧場の端につくと鶏たちに別れを告げて少女がこっちに駆け寄ってきた。
「鶏って幽霊のこと見えるんですか?」
「さあ?見えてる気もするし、そんなことない気もするし、よくわかんない」
そんな適当な、と心の内で思うが、相手が鶏じゃ聞くこともできないのでそれも無理はない気がする。見えていても答えてくれるわけじゃないから。
「ねえ、あれが君の家?」
少女の指した方向にまだ少し遠いが僕の家が見えていた。距離があるにもかかわらず、家が視界に入っただけで胃がきゅっとなった。————ああ、帰りたくないな。
父さんの家系は
父さんは
父さんがいなくなり、母さんが亡くなった今は、残された僕と母さんの面倒を見に村まで来ていた叔父さんがそのまま住むことになった。そのため、叔父さんが僕の保護者になっている。それも形だけだが。
旅の準備のために家に帰って来たのだが、その前にやらないといけないことが二つある。一つは旅費の確保、二つ目は叔父さんの説得だ。
旅費の方は、父さんの残していったガラクタを街で売れば行きの分くらいはなんとかなるだろう。帰りはその時考えよう。
問題は叔父さんの説得だ。そちらはどうにもならないかもしれない。それは
元々はそれほど仲が悪かったということはなかった気がする。少なくとも、今みたいに一緒に生活していても日常会話もない息苦しい関係ではなかったはずだ。その関係が変わったのは母さんが亡くなってからだろう。
僕が七歳くらいの時に母さんが病気になった。その病気はそれほど重いものではなく、医療設備の整っている都会の街でしっかり治療すればすぐに、とはいかないまでも時間をかけて治療すれば治るものだったらしい。だが、母さんは街に行くことを拒んだ。
病気の治療を受けるには多額のお金が必要でそんなお金はうちにはないし、まだ幼い僕を置いて街に行くことはできないと父さんに言ったそうだ。
もちろん父さんは何度も何度も街に行くように母さんを説得した。家にあるガラクタだって売り払ってお金に換える覚悟までして行かせようとしたのに、母さんは一度も首を縦に振ることはなかった。
何度も父さんと
説得を続ける間、定期的に街からお医者さんを呼んで診てもらっていたがそれでも母さんの病気はゆっくりと、でも確実に進行していった。
その日は、ひどい嵐だったそうだ。
そんな日に母さんの容体が急変した。
処方された薬でも発作が治まらず、医者のいないこの村ではどうにもできない状態だった。
そんな状態の母さんを見ていられなかった父さんは、叔父さんの静止を振り切って嵐の中、街へ医者を呼びに家を飛び出していった。————そして、帰ってくることはなかった。
母さんは、嵐が過ぎたあとで容体を心配して村にやってきてくれたお医者さんのおかげでなんとか助かった。だが、やってきたお医者さんは父さんには会っていないと言っていたそうだ
その後も、何日、何週間経とうと父さんは帰ってこなかった。
生きているのか、死んでいるのか、それは今日までずっとわからないまま。
父さんがいなくなってから、心労からか母さんは急速に弱っていった。いつしかベッドからも起き上がることができなくなり、そうなるとさらに弱々しくやつれていったように僕の目には移った。
父さんが帰ってこなくなってから数か月経っていただろうか、ベッドに座る母さんに一度だけ聞いたことがある。
『父さんが帰ってこなくて寂しくないの?』
今にして思えば、子供ながらにあまりにも無神経だったと思う。だって、父さんがいなくなって母さんが
母さんは少し驚いた顔をするとベッドの横の窓から外を眺めた。母さんの目は窓の外を向いていたが、見ていたのはたぶんもっと遠くのどこかだったと思う。
『そうね、……寂しくないっていうとウソになっちゃうけど、……私は一人じゃないから。あなたもいるし、あの可愛げのない弟もいる。だから辛くはないの。あなたにはわからないかもしれないけど』
その言葉は、まだ幼かった僕には理解できなかったけど、なぜだか涙があふれた。ベッドの上で弱々しくなった母さんの膝の上に顔を付けて涙を流した。そんな僕の頭を泣き止むまでずっと母さんは優しく
母さんが亡くなってからの叔父さんは見ていられないほど荒れた。昼夜問わず
そんなことが数日続いたある日のことだ。酒が尽きたのか叔父さんは朝から街の方へ出かけて行った。
街への買い物程度なら朝に出れば夕方には帰ってこられるはずなのだが、その日は妙に遅くて帰って来たのは夜更けすぎだった。そんな時間に帰ってきたこと自体が普通じゃないのだが、それ以上に叔父さんの状態は普通ではなかった。
服は土にまみれて顔面は
『……なんで俺は、……だ、……お前に、……ない、……なんだ』
そう言葉にならない声を出しながら、ふらふらと部屋に帰っていった。
今でもその日、叔父さんに何があったかは僕にはわからない。だけどその日から、僕らの関係は変わってしまった。
家の中では最低限の会話しかなく、叔父さんは僕と視線を合わせることをしなくなった。村の人たちとは今まで通りに接しているのに、僕が話しかけても返事はほとんどない。僕に興味がなくなったのかと思えば、僕が村から出るのは絶対に許可してくれないし、何を考えているのかよくわからない。
きっと僕への嫌がらせなのだろう。花畑へ行くのだけは許可してくれているのは、僕が一人で花畑に行っているのを、裏でせせら笑うために決まっている。
そんなこんなで僕と叔父さんの冷えた関係は何年も続いている。
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