第1話

 目の前の光景に圧倒されていたのもあり、少女の言葉の意味を理解するのには少し時間がかかった。だから、数秒経ってようやく意味が理解できた時、あまりの驚きに心臓が飛び出しそうになった。

「ま、魔女の森って、あの魔女の森ですか!?……あんな危険な場所に行きたいっていうんですか!?」

 魔女の森というのは、この国の北端にある大きな森のことだ。僕の村は反対の南端にあるせいで噂くらいしか知らないが、聞いた話によると名前の通り本当に魔女が住んでいたらしい。

 魔女の森の魔女は、近くの街を襲って何もかもを奪っていったり、さらった人をいけにえに実験をおこなったりと国中に悪名あくみょうを轟かせていた。

 そんな魔女を危険視して二、三年前に国を挙げての魔女狩りが行われた。詳細はよく知らないが、結果として魔女は討伐された。そして、主のいなくなった森だけが残った。

 魔女の実験のせいなのか、魔女の森に生える木々や草花には見たこともない品種が混ざっており、住んでいる動物たちも未知の進化を遂げており凶暴な物ばかりらしい。おかげで魔女の脅威が去った今でも魔女の森は危険な場所だと新聞で見た記憶がある。————彼女はそんなところへ連れて行ってほしいと口にしているのだ。

 この山のように危険な獣がほとんどいない場所ならいいが、魔女の森となれば話は変わってくる。魔女の森と比べれば、さっきの夜の山道がどれだけ安全だったか。考えるだけでも膝が勝手に暴れだしてしまう。

「そうだよ、……だめ?」

 目の前の少女が放った反則級の上目遣いに、僕の本能がそく快諾かいだくしそうになる。それをかろうじて理性がストップさせた。

 少女のことを助けてあげたいとは思う。彼女と一緒に旅に出ることに胸が躍らないはずがない。だが、行き先はよりにもよって魔女の森だ。行くとなれば国の端から端に移動することになる。少なくとも行くだけで十日はかかるだろうし、費用もそれだけ必要になる。そこまでしてまで、なぜ魔女の森に行きたいのだろう?それに一緒に行くなら僕なんかよりもっと大人と一緒に行った方が危険は少ないはずだ。正直僕のような子供と一緒に行くメリットなんかない。

 その躊躇いが僕をかろうじて引き止めていた。

「なんでそんなに魔女の森に行きたいんですか?あんな危険なところに行きたいなんて何か理由があるんですよね?」

 大きく深呼吸をして、できるだけ平静を装って少女に問いかけた。

 彼女は一瞬驚いたような顔をしたのち、少しだけ遠いところを見るような眼をした。それが昔見た誰かの顔と重なって、胸が締め付けられた。

「そうだね、そこは伝えておかなくちゃね。実は私ね、————幽霊なの」

「……えっ?」

 彼女の素っ頓狂すっとんきょうな発言に思わず変な声が出てしまった。

 彼女は何と言った?自分は幽霊だといったのだ。でも、僕には彼女の姿が見えているし、声も聞こえている。今は朝日が出たばかりの早朝で、幽霊が出るような時間でもない。それに本当に幽霊だというのなら彼女はもう死んでいるということになってしまう。こうやってすぐそこにいて、きちんと会話もできているのに?幽霊?


 考えを頭で処理できなくなり、彼女の存在を確かめたくて無意識に右手を彼女の方へ伸ばしていた。

 伸ばした手はまっすぐに目の前に立つ少女へと向かい、彼女の細い肩に触れようとした。————だが、その手は何にも触れることはなかった。

 一瞬、目がおかしくなったのかと錯覚さっかくするくらい自然に僕の右手は彼女の体をすり抜けていく。


 目にはしっかりと彼女の姿が映っている。

 耳には彼女の声が届いている。

 なのに、手を伸ばせば届くくらいに近くにいるはずなのに何度手を伸ばしたところで虚空こくうを切るばかりだ。

「触れないよ。体、取られちゃったんだ。……魔女に。だから、今は魂だけの幽霊」

 正面から僕の体をすり抜けて少女は後ろへ歩いていく。

 追いかけるように振り返るとまばゆい光にめまいを覚えた。

 まばゆい太陽の光に包まれた少女はこちらに背を向けていて表情は見えない。

「今までずっと一人で旅をしてきたけど、誰も私のことは見えなかった。誰にも声は届かなかった。どこにいても、どこに行っても、私が空気になっちゃったみたいに誰にも見つけてもらえなかった。……けど、君は見えた。ちゃんと声が届いた。私に気付いてくれたの。だから、触れなくても気にしないで。私は、君が見つけてくれただけでうれしいから」

 光の中、振り向いた少女は笑っていた。けど、それは今にも泣きだしそうな、そんな悲しい笑顔。言葉とは裏腹なその表情の意味が分からないほど僕も鈍感どんかんではない。

「じゃあ……なんで、なんでそんなに泣きそうな顔してるんですか」

「……うそ。我慢、できたと思ったのに……」

 少女の瞳から涙が一筋こぼれた。最初に流れたそれを皮切りにせきを切ったように次々と涙があふれていく。こぼれ出る涙を両手で必死にぬぐおうと少女もあがくが、あふれる涙はとめどない。

「ごめんなさい。そんなつもりじゃなかったのに……」

 止まらない涙に、膝をついてぺたんと座り込んでしまった。

 せせり泣く少女を前に、こういう時の対応が分からない僕はおろおろと狼狽うろたえることしかできなかった。

 普通ならハンカチを渡したり、気の利く言葉をかけるとかするんだろうが、幽霊にハンカチなど意味ないし、気の利く言葉なんて同年代の異性がいない田舎の村育ちの僕には荷が重すぎる。

 それでも彼女の涙を止めたい。この涙を無視するのはさっき感じた感情を、あの胸のドキドキを裏切ることになる。だから考えないとあの子の涙を止めれるような何かを。ない頭でも考えれば何かでてくるはずだ。

 そうやって気合を入れなおして、なんとかできる手段を探す。

 だけど、考えても考えても答えはなんて出てこず、あたふたあたふた。考えれば考えるほど思考がぐるぐるしてくる。

 ぐるぐるぐるぐると回り回った思考の中、浮かんできたのは父さんの言葉だった。


『お前にな、必殺技を教えよう。俺もこれを使ったことは一回しかない、とっておきの必殺技だ』

『一回だけ?』

『ああ、いろいろあって母さんに泣かれたときに一回だけな。この必殺技は使える相手もタイミングも限られるんだ。ただ、決まればがっつり心をつかめる。俺はこの必殺技で母さんと結婚したと言っても過言じゃない。それぐらいすごい必殺技なんだからな』

『ふーん』

『お前、あんまり興味ないな。まあいいや、覚えておいて損はないはずだからちゃんと聞いとけよ。で、どうするのかっていうと……』


 記憶の奥底で眠っていた記憶。

 たぶん、こんなことでもない限り、思い出すこともなかったかもしれないそんな何気ない日常の記憶。

 あの時、父さんが教えてくれた必殺技。父さんは必殺技なんて言っていたが、思い出したそれは必殺技なんて言えるほど大層な代物なんかじゃなかった。でも、使うべき時は今だ。そんな確信があった。

「あの、泣かないでください!僕なんかでいいなら……、いや、僕があなたを、連れていきますから、魔女の森でもなんでも!だから————もう泣かないでくださいっ!!」


『思ったことを叫んでみろ!それだけだ』


 そう言ってあの時の父さんは笑っていた。

 僕の人生で一番の叫びは山々に反射してやまびことなって周囲一帯に響き渡った。


 数秒の静寂せいじゃく

 さっきまで吹いていた春の風も、木々のざわめきも、今は聞こえない。

「……ありがとう」

 顔を上げた少女はそれだけ言うとまた瞳に涙を溜めて泣き始めた。今度は顔を上げて空を仰ぐような体勢でうわんうわんと。

『これでダメだったら、もうどうにもならないから諦めろ』

 重要なことを一番最後に、なにもかも終わってから思い出した。

(父さん、僕はダメだったみたいです)

 そのあと少女が泣き止むまでの間、万策尽きた僕はここでまた立ち尽くすしかなかった。



 そのまま少女はひとしきり泣き切ると、よろよろと立ち上がり僕の顔を見た。

「……ありがとね。君は優しいんだね。でも、嫌なら大丈夫だよ」

 泣きはらした目で、多分その時の精一杯の笑顔でそう口にした。その笑顔はなんとも健気で儚い(はかない)。

「そんなことないです。もう決めました。それに別に僕が優しいから一緒に行くんじゃないです。だって……」

 その先の言葉は出てこなかった。だって“運命を感じた”なんて言葉、僕には恥ずかしくて口にはできなかった。

 言葉の続きを待って少女はこちらを見つめている。だけど、どれだけ見つめられてもその先の言葉を口にする勇気は僕にはなかった。

「……やっぱり何でもないです。行くと決まったなら急ぎましょう。あんまりゆっくりしてると出発が明日になっちゃいます」

 はぐらかして逃げるように花畑の出入り口に向かって歩き出す。

「えー?教えてよー。ていうか、先に行かないでー」

 後ろにいるせいか少女の足音は聞こえないが、響く声の距離感でちゃんとついてきているのは感じ取れる。


「ふふっ、やっぱり君でよかった」

 その声はその場を逃げていく僕の耳には届かず、温かな春風に吹かれて消えた。

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