第5話 意外な診断
「いいからいいから。彼だって最初、あなたに遺体を見せたくなかったくらいだし」
それもそうか。というか、だったら端からそのことを理由付けにしてくれればいいのに。リュウ・ナーは不満を飲み込んで、準備を始めた。
検屍がもうじき終わりを迎えようかという頃、風が強まってきた。
「か、書きにくい」
ナーが愚痴をこぼす。紙がはためき、筆を運びづらい。上質な物ではないとは言え、比較的貴重な紙を無駄にするのだけは避けねばならぬ。
と、不意に風が止んだ。同時に、影が差す。面を起こすと、ケイフウの大きな背中があった。風の吹いて来る方向に立ち塞がっている。
「これで行けるかな?」
振り返ることなく、馭者の彼が聞いてきた。背を向けているのは、不審者の監視や通り掛かる者を見逃さないようにするためだろう。
「あ、ありがとうございます」
師匠はどうなんだろうと見やると、手を止めているのが分かった。ただ、それは風が原因ではなく、ざっと下描きを終えて、今は待ちの状況にあるからだと理解する。検屍が佳境に入り、ズールイが遺体のあちこちを触れて回っているとなれば、描きにくいのも道理。
やがて、ズールイがぽつりと言った。
「おおよそ、判りました」
「ほんと? 案外、早かったわね。それじゃあ、結論もナーに書き取ってもらって。私はご遺体の画を仕上げるから」
「了解しました。――死因は栄養不足、餓死に近い」
「え?」
ズールイの説明に、リュウ・ナーはいきなり引っ掛かりを覚えてしまった。
「栄養不足って、さっき、血が出ているとか言ってなかった? 誤診? あ、吐血もあるか。顔がげっそりした風に見えたのは、干涸らびたのではなく、痩せ細っていたせい?」
「いっぺんに色々聞いてくれないでほしいな。怪我による出血が確認できたのも間違いじゃない。ただ、この人が亡くなった理由は別にある。どういう順番で話すのが分かり易いのか……うん、まず出血について。両腕に火傷を負った跡が残っている」
「火傷……火に触れてしまったとか?」
「うーん、簡単な検査だけで断定するのは難しい部分もあるんだけど、火ではなく、熱湯の可能性の方が高いと思う。火傷の程度や範囲から推すとね。そしてその治りが遅く、膿んでは乾き膿んでは乾きを繰り返す中、出血も重ねていた。当初は包帯を使っていたんだろうけど、旅の最中でじきに尽きて、着物に血が染み込むまでになった」
「あなたが診てそう考えたのなら、当たっているんだろうけど」
筆を止め、小首を傾げるリュウ・ナー・
「死因を栄養不足と判断したことにつながらないような?」
「ああ、そこはまだちょっと待って。もう一つ、出血したかもしれない箇所があるんだ」
「腕の火傷以外にもあるっていうのね」
リュウ・ナーは筆を構え直した。
「この男性――あ、男の人なんだ、この人――右手とは右足を骨折している。高所より落ちたらしく、特に足の方は酷い。折れた骨が皮膚を突き破ったかもしれないんだ。言い切れないのは、骨折した際には皮膚を破らなかったが、死後、遺体が砂や風に晒される内に、骨折箇所が影響を受けた可能性があるから。獣や昆虫が群がることもあるし。そして、火傷と骨折はほとんど同時に負ったと思われる」
そう聞いて、ナーは状況を想像してみた。高いところから熱い温泉――熱泉を覗き込んでいる内に、足を滑らせて落ちてしまい、衝撃で右足を骨折、さらに両腕を泉に突っ込んで火傷する羽目に……。
「けれども、この辺りに温泉が湧いているという話は……?」
ナーは師匠の方を見た。ユウ・イーホンは微苦笑を浮かべ、小首を傾げる。
「確かに湯が湧き出ているという話は聞いた覚えがないけれども、いつ湧き出ても不思議じゃないから、そこは気にする必要ないのじゃないかしら。それに、その御遺体は治療の跡があるのでしょう? つまり、連れがいた。その連れの人がここまで運んで来たとしたら、近くに湯が湧いているか否かは無関係、そう思わない?」
「言われてみれば。ですけど、イーホン先生の言う通りだとしたら、今度はその連れの人がどこに行ったのかという点が、気になります。何か理由があってこの亡くなった人を置いていったのか、それとも連れの人も某かの突発事に見舞われて……」
遺体になって、今まさにどこかに横たわっているのかも、という続きの台詞は飲み込んだ。
「そうねえ。――ズールイ君」
イーホンはリュウ・ナーの疑問に直には応じず、ズールイを呼んだ。
「何でしょう?」
「御遺体に、他に特徴的なことはなかったかしら。治療にしてはあまり効果がなさそうな痕跡とか、もっと言うとおまじないの言葉が皮膚に書いてあるというような」
「随分と具体的ですね……」
ズールイもまた首を傾げつつ、改めて遺体に視線をやる。
「死因とは関係がなさそうだし、入れ墨の類かとも思っていましたが、確かに異国の文字のような痕跡がありました。左手の手首が比較的分かり易いでしょうか」
「見せてください」
言いながら近付いていくイーホン。ナーも続き、肩越しに覗いてみた。
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます