第13話〜だから死なないでください

 この二階の右側にはトイレとお風呂の個室があり、中は少し古ぼけたデザインだが問題なく使用できる。


 風呂から上がり、部屋に戻ると化粧を落としてパジャマに着替えていた桜子が部屋の右手にあるソファに座っていた。


 彼は頭をタオルで拭きながら近づく。髪も体もしっかりと水滴は拭いたので彼女が溶ける心配はない。今は浴衣一枚なので先程のスーツよりも気が楽である。


「おっと、先に寝ていても良かったのだよ。疲れているだろう」

「探偵事業というのは恨みを買ったりする事があると前に信濃さんは言いましたよね」


 桜子は真剣ではあるが、同時に不安に駆られているようだった。彼女は信濃に近づく。


 それは幼子が自身の未来を考えて、知識不足であるが故の恐ろしい妄想に取り憑かれているようにも見えた。


 信濃はその性格と人嫌いの故に刑事や犯人に逆恨みや嫉妬をされやすく、反対に被害者の遺族や依頼人からは信頼を獲得している。


 信濃はあくまで事実を言った。


「嗚呼そうだね。私を無意味に嫌う輩は居るが、それがどうしたというんだね?」


 彼女は顔を俯いて話す。小刻みに体が震えており、段々と鼻声になっているのが分かる。いつも冷静で、誰とでも一定の距離感にいるはずの子が何が原因でこうなったのか。


「さっきそれが原因で刺されたのだと、思ってしまったのです。それがすごく怖くて…」

「信濃さんが居なくては桜子は身寄りも後ろ盾もありません」


 彼女の頬には涙の粒が電車のように滴っており、全ての電車が特急のようだ。手で拭っても涙は止まらない。


「だから死なないでください」


 彼女は信濃に抱きついた。彼女からすれば精一杯力を込めて抱きついているのだろうが、その力は弱く、全く苦しくなかった。


 腕を回し、彼女を抱き締め返した。しかしそれは力を込めてではなく、やんわりと彼女の硬い背中を包んだ。あまりに強い力で抱きしめてしまうと彼女が砕けてしまうからだ。


 甘い餡子とバターの香りが鼻腔を擽る。また、飴の良い香りもする。


「おーおー泣くほどかね」


 信濃は抱きつくのを止めさせ、膝を付いて彼女と同じ目線になった。


「私の助手ならば強かにね。君は小鳥だ。自由に羽ばたき、何振り構わず突き進む。そこに依存や束縛はありゃしないのさ」


 彼の女性観は独特だが、ただ彼が桜子に望むものはただ一つ、自由に生きるという事だけだ。


 桜子は誰かに依存したりしないし、誰かを陥れようとしない気高い意思を彼女は持っている。そこに信濃は惚れて彼女をあの売り場から引き離したのだ。


「まぁ、私を殺せるもんならソイツは人じゃないな。そういえば昔、死ぬ事についてよく考えていたねぇ」


 信濃は顎に手を置いて、幸せな幼少期の頃と人のエゴに苛まれた青春を思い出す。


「信濃さんは自殺願望があったのですか」


 震える声で問うと、急に彼の目に怒りが孕んだ。奥歯を噛み締めており、彼の心の嫌な琴線に触れてしまったようだ。


「ある訳ないだろう」

「私は、そういった希死念慮的な現代の価値観における極楽浄土なんて信じたくはないし、そもそも黄泉に、このような希望的観測が通用するという事実さえ不確かなものだ。あったとしても認めないがね」


 以前にも難しい単語を練って早口で話す彼を、桜子は見た。


 その時は他人と話していた時だったので壁の端っこから見ているだけだったが、間近で見ると般若の顔をしている。


「死が人生の始まり、生が人生の終わりとあの女学生は供述し共感しろと強要してきたが、私の人生の生は日常であり、死は非日常でしかない。それが私の周りの世間の常であったほしかったが…」


 念仏のように唱えているその言葉は混じりっけのない本心からの言葉であり、それが何を意味するのか、まだまだ中身は幼い桜子には理解できなかった。


 確かに自分が言った言葉は棘がありすぎた。桜子は何とか口を動かした。


「信濃さん?」

「…あ、君は無垢のままで博識になっておくれよ、世のニヒリズムを蹴飛ばしてね」


 名前を呼ばれて正気に戻ったようだ。彼の瞳には怒りはなく、元の優しい目付きになっている。


「当たり前です、そんな事言われなくても生きます」

「うん、それこそ強かな私の助手だ」


 彼は立ち上がって桜子の頭を撫でる。硬く、ツルツルとしているのにも関わらず、人の髪の毛と同じように毛が一本一本生えている。普通の少女では有り得ない髪だ。


「ほら、もう寝よう」


 また、彼らの友情は深まった。

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